平戸城下(読み)ひらどじようか

日本歴史地名大系 「平戸城下」の解説

平戸城下
ひらどじようか

平戸島の北東部に築かれた近世の城下町。平戸瀬戸に東に開くかがみ(平戸浦)に臨む一帯を中心に営まれ、平戸松浦宗家を継いだ松浦鎮信以来六万石の平戸藩の経営を支える都市であった。中世より貿易都市の様相を呈していたと考えられるが、近世には平戸村域の鏡川かがみがわ戸石川といしがわ岩の上いわのうえなどの一部を城下域とした。

〔城下建設以前の様相〕

城下の西手の勝尾かつお岳山麓には戦国期から白狐山びやつこざん城の城下として規模が小さいながら町並を形成していたと想定されている。港湾としての好条件とともに、松浦氏の経済・流通の経営拠点が置かれていたことが中国やヨーロッパ勢力の来航を定着させた背景にあると考えられる。天文一二年(一五四三、同一四年とも)より弘治二年(一五五六)まで王直が唐風の屋形を建立して居住していたとされ、海外交易の拠点とするために一帯の埋立が行われていたという。当時すでに多くの中国人が居住しており、日本の海外貿易の中心の一つであった。王直のあとには平戸松浦氏の宗家松浦隆信(道可)の隠宅が建立されたらしい。印山道可公より隆信(宗陽)の代の間(享禄年間―寛永一四年)には崎方さきがたの一帯まで左右に町屋が連なるほどであったという(壺陽録)。一五五七年当時の平戸の戸数は二〇〇戸であったという(一〇月一四日「ガスパル・ヴィレラ書簡」平戸之光)。「平戸町」はもとはみな茅家であったが、松浦鎮信(法印)の時代に板屋に改め、亀岡かめおかの城を取り、諸浦を移したという(大曲記)

天正一〇年(一五八二)「平戸町」の者一七人が伊勢参宮に赴いているが、その後も同一六年に二三人、同一九年に一四人、文禄五年(一五九六)に一〇人、慶長二年(一五九七)に一四人、同八年に一〇人、同一二年に一九人などと伊勢参りがみられた(「御参宮人帳」橋村家文書)。天正一七年には平戸町分の角田・藤本・貞方・月家・石垣・伊藤・木村・本山・安藤・浜田・坂本・山上・小田・宮崎・白石、「上まち」や「宮前」、「あぶらや」「つしま屋」「板や」、「かち五郎左衛門」(鍛冶か)・「大工源右衛門」、「ときや拾左衛門」(砥屋)・「うなりし彦五郎」(歌舞伎芸人か)の諸家四七人に御祓大麻が配られており(「御祓賦帳」同文書)、伊勢信仰の広がりがうかがえるとともに、うら町・しん町・木引田きひきだなどの町方や諸商職人などが知られる。慶長初期の日之岳ひのたけ城築城に伴い、こうした町場に家臣の集住が行われ、城下町の規模を拡大していったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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