福地村(読み)ふくじむら

日本歴史地名大系 「福地村」の解説

福地村
ふくじむら

[現在地名]河北町福地

東流する追波おつぱ川の南岸、硯上けんじよう山より続く兵陵の北麓に位置。西は三輪田みのわだ村。横川よこかわ・大福地・小福地・谷地やちの集落からなり、横川・小福地は交通の要地であった。元和一〇年(一六二四)と思われる村田吉介より石母田大膳宛書状写(石母田家文書)では高五五貫五〇三文、うち八貫三〇〇文が横川の手作地であった。残りは在郷分で、その生産は不安定であったことが知られる。

福地村
ふくちむら

[現在地名]北区山田町福地やまだちようふくち

なか村の北東に接し、中世は八部やたべ山田やまだ庄のうち。南北朝初期、金谷経氏を中心に山田庄丹生寺たんじようじ城を主要拠点とする南朝軍と、赤松氏を中心とする北朝軍が度々戦火を交えた。暦応三年(一三四〇)二月一七日赤松円心が丹生寺城攻めのため樫尾かしお(現柏尾台付近か)へ発向した際、北朝にくみした後藤基景は数ヵ月間「福地原警固」の役を勤めている(同年七月四日「後藤基景軍忠状」後藤文書)。村内若王子にやくおうじ神社境内にあったふく寺大日如来堂の弘治二年(一五五六)二月九日の棟上記(若王子神社文書)には、「摂州矢田部郡福地村大日如来堂造立之所也、若王子山福寺住持沙門恵弘、大工藤原之正国也、当時年寄太郎兵衛・同四郎兵衛・平次郎也」とみえ、村名と当時の村役の名が記されている。

福地村
ふくちむら

[現在地名]八百津町福地

標高五〇〇メートル以上の高原地帯に位置する山間の農山村。東端に見行けんぎよう(九〇四・九メートル)がある。東は中野方なかのほう(現恵那市)、西は久田見くたみ村、南は潮見しおみ村。久田見村松坂まつさかを経て村内長曾ながそへ、そして村の中心部を経て潮見村篠原すずわらを経て中野方村へ古東山道が通じ、村内追分おいわけで分れ清津きよづを経て犬地いぬじ(現白川町)へ至る道があり、洞田ほらだで分れた道は田甫たんぼを経て赤河あこう(現白川町)へ通ずる。天正一一年(一五八三)七月日の稲葉一鉄初尾奉納目録写(稲葉家譜)に「福地給」とある。慶長郷帳では高二三一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では遠山友政(苗木藩)領で、以後幕末まで同藩領。

福地村
しろちむら

[現在地名]高梁市落合町福地おちあいちようしろち

阿部あべ村・原田はらだ村の西隣にあり、成羽なりわ川支流の福地川流域に広がる。本村ほんむらのほか鍋坂なべさか白水しらみず谷山たにやま垂谷たるだに野坂のざか難波江なばえ境谷さかいだにの集落がある。寛永備中国絵図に白地村とみえ、高四九六石、山崎家治先知。正保郷帳には福地村(「しろち」の振仮名がある)とありほぼ同高、幕府領(以後の領主の変遷は増原村に同じ)、柴山少・草山中とあり、枝村に西ノ平村をあげる。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では高一千三四石余。「備中誌」では高一千一五六石余、荒引残八四〇石余、反別七一町四反余、家数一七六・人数八八五、村内は東西二八町余・南北二九町余。

福地村
ふくちむら

面積:三九・七五平方キロ

三戸郡の東部に位置し、東は八戸はちのへ市、西は名川ながわ町、南は南郷なんごう村、北は五戸ごのへ町に接する。村の大半は丘陵地で、中央を西から東に馬淵まべち川が流れ、流域沿いに平坦地をつくっている。馬淵川と並行して国道一〇四号と東北本線が通り、苫米地とまべちの西には苫米地駅がある。米と林檎を主体とした農業が基幹産業である。

福地村
ふくじむら

[現在地名]糸満市福地ふくじ

喜屋武ちやん村の東に位置する。「おもろさうし」巻二〇の一五に「一 やまきにやか(山内仁屋が)/すさへしきや おもろ(兄部子がおもろ)/にしかない よせて(西の貢物を寄せて)/また よくまさるひかかない(さらにもっと勝った東の貢物を)/まへよせて ちよわれ(前に寄せてましませ)/又 ふくしおわる(福地におられる)/ねくにおわる せのぬし(根国におられる世の主)」とみえる。

絵図郷村帳に喜屋武ちやん間切「ふくぢ村」、琉球国高究帳に同「福治村」とあり、「琉球国由来記」には同福地村とみえる。

福地村
ふくちむら

[現在地名]伊那市大字富県とみがた 北福地きたふくち・南福地

高烏谷たかずや(一三三一メートル)の北側に延びた尾根の西側の山麓の村。北は貝沼かいぬま村、南は火山ひやま峠で火山村(現駒ヶ根市)、西側は段丘下の殿島とのしま村に接する。

和名抄」に「伊那郡 福智」とみえる。村の南に字いけがあり、天正七年(一五七九)の諏訪大社上社文書の上諏訪造宮帳(諏訪頼宣氏蔵)に、「池之分 正物四百五十文」とみえる。集落は大沢おおさわ川の上流に発達し、山麓の扇状地上には縄文時代から平安時代に及ぶ遺跡がある。

南福地の東山麓に曹洞宗万年山金鳳きんぽう寺がある。寺伝によると延徳元年(一四八九)の建立で、もとは天台宗に属していた。

福地村
ふくじむら

[現在地名]黒田庄町福地

おか村の南、加古川中流域に位置する。西は加古川対岸の蒲江こもえ(現西脇市)、南は上比延かみひえ(現同上)。天正一六年(一五八八)一〇月吉日の島津氏播磨知行方当納分目録案(島津家文書)では高五六八石余、当納分三四一石余。村の西に町が形成されていた(寛延二年「播磨国細見図」脇坂家蔵)。慶長国絵図に「虫生村」「虫生町」と記載されるのが福地村・福地町をさすものであろう。正保郷帳では福地村が田方三五八石余・畑方三三石余、福地町は田方三石余・畑方四石余、ともに幕府領。寛保二年(一七四二)三草藩領となり幕末に至る(「丹羽氏系譜」東京大学史料編纂所蔵、慶応四年「丹羽氏知行目録」池田家文庫など)元禄郷帳では福地村の高三三一石余。

福地村
ふくちむら

[現在地名]郡家町福地

覚王寺かくおうじ村の南東、私都きさいち川南岸に位置し、本村のほか寺土居てらどい今熊いまくまの集落がある。拝領高は二一七石余。本免六ツ六分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高二六〇石、竈数六〇。「因幡志」でも家数六〇。産土神は十二社権現で、曹洞宗大樹だいじゆ寺がある。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二七六石余、竈数五二。池田氏の給地があった(給人所付帳)。藪役銀一匁余が課されていた(藩史)。文化一三年(一八一六)閏八月私都川が溢水、当村の土手も切れ田畑に冠水した。

福地村
ふくじむら

[現在地名]太子町福地

吉福新よしふくしん村の北に位置し、岩見いわみ郷の中心部に位置する。天正一六年(一五八八)七月五日の豊臣秀吉知行方目録(島津家文書)に福地村とみえ、当村の高五九〇石が島津義久に与えられている。慶長国絵図にも村名がみえ、慶長一八年(一六一三)の揖東郡村々高覚(三木家文書)では同一三年の高八〇五石余。江戸時代の領主の変遷は阿曾あそ村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)によると高五四〇石余。

福地村
ふくじむら

[現在地名]上宝村福地・村上むらかみ

高原たかはら川上流左岸の山村。枝村村上は北方一重ひとえ村の北西部にある。元禄飛騨国検地反歩帳によると高原郷に属し、高三〇石余、田二町二反余・畑八町二反余。「飛騨国中案内」では免四割三分一厘六毛、家数三三(うち百姓三一・門屋二)。天明八年(一七八八)の村明細帳によると、田一二石余・畑三九石余、うち新田高二一石余、反別田三町一反余・畑一六町五反余、家数三四、男七〇・女六七、牛一〇。

福地村
ふくちむら

[現在地名]福山町福地

福沢ふくざわ村南西の火山灰台地上にある。天正八年(一五八〇)に設置された福山野馬牧のうちに含まれていた。安永八年(一七七九)の桜島大噴火による降灰砂の被害で馬牧の一部は廃止された。南方大隅郡牛根うしね(現垂水市)も降灰砂による被害が大きく、同郷の再開発は困難と考えられたことから、翌九年牛根郷の農民八〇戸と同郷の郷士ら三〇戸が、廃止された馬牧のうち合戦野かせんのとよばれた地以南に移住させられ、開拓にあたった。

福地村
ふくじむら

[現在地名]浜松市富吉町とみよしちよう天神町てんじんまち向宿むこうじゆく一丁目

向宿村の東に位置。近世初期には堀込ほりごめ(堀籠)村と称したが、延宝五年(一六七七)までに福地村に改称(浜松町村家数高間尺帳)。松平忠頼領郷村帳に堀籠村とみえ、高一四石、畑一町四反余。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳には「ほりこめ村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報