日本大百科全書(ニッポニカ) 「天下」の意味・わかりやすい解説
天下
てんか
天の命を受けた天の子(天子)が、天の下(あめのした)を統治するという中国的な世界観。日本では埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)出土の金錯銘(きんさくめい)鉄剣に「治天下獲加多支鹵大王(あめのしたしろしめすわかたけるのおおきみ)」(銘文に「辛亥(しんがい)年」の干支がある。471年)、また熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)出土の銀錯銘(ぎんさくめい)大刀にも「治天下」の語がみえ、5世紀後半までに天下に関する政治思想を受容していた。ただし、当時の倭国(わこく)は中国南朝の宋(そう)と冊封(さくほう)関係を結んでおり、中国の天下支配のもと、倭国の支配・統治権のなかで天下を治めたことになる。日本における「治天下」の用法は、百済(くだら)・新羅(しらぎ)などの蕃国(ばんこく)に対する支配が歴史的前提となっていた。「治天下大王」の表記は、のちの律令法で「御宇天皇(あめのしたしろしめすすめらみこと)」に変わった。
[吉村武彦]
古代中国で創案された独特の世界観を表す語。至上の人格神としての「天」が支配する全世界であると同時に、天命を受けて天子となった有徳(うとく)の為政者が「天」にかわって統治する世界(王土)を意味する(したがって本来「天下」と「王土」は決して対立概念ではなかった)。ただし不徳の天子が現れ撫民仁政(ぶみんじんせい)を忘れ、人民を苦しめるような政治をすれば、天命が革(あらた)まって新天子が登場し、天下的世界は再編成されるものと考えられた(易姓革命論(えきせいかくめいろん))。「天下」の語は日本でも上述のように古代から使われているが、中世以降武家政権の時代になると、武家は政権の公共性という見地から「天下」思想や「天道(天)」思想を標榜(ひょうぼう)し、王土思想によって一方的に王威・王権を絶対化する朝廷(公家)勢力と対決したり、下剋上(げこくじょう)の運動や武家政権の成立・交替などを正当化した。とくに戦国・安土桃山時代には日本全国、全国制覇の拠点となった京都、織豊政権の主権者などをさす流行語となった。
[石毛 忠]
『石母田正著『日本古代国家論 第1部』(1973・岩波書店)』▽『吉村武彦著『古代天皇の誕生』(1998・角川書店)』▽『石毛忠著「戦国・安土桃山時代の思想」(石田一良編『体系日本史叢書23 思想史Ⅱ』所収・1976・山川出版社)』▽『永原慶二著「天下人」(朝尾直弘他編『権威と支配』所収・1987・岩波書店)』▽『石毛忠著「織豊政権の政治思想」(藤野保編『織豊政権の成立』所収・1994・雄山閣)』