境村(読み)さかいむら

日本歴史地名大系 「境村」の解説

境村
さかいむら

[現在地名]境港市栄町えいまち東雲町しののめちよう東本町ひがしほんまち相生町あいおいちよう中町なかまち本町ほんまち末広町すえひろちようまつ枝町えちよう出町でまち京町きようまち明治町めいじまち大正町たいしようまちはまちよう弥生町やよいちよう蓮池町はすいけちよう米川町よねがわちよう湊町みなとまち馬場崎町ばばさきちよう入船町にゆうせんちよう朝日町あさひまち

弓浜半島の最北端に位置し、北は境水道を隔てて島根半島に相対する。東と南は上道あがりみち村、西は東外江ひがしとのえ村。地勢は平坦。堺村とも記した。地名の由来は、「出雲国風土記」(日御碕神社本)に「粟江埼。夜見嶋に相向ふ促戸せとの渡二百十六歩。埼の西は入海の堺なり」と記す「粟江埼」は境村の対岸にある大江おおえ(現島根県美保関町)をさし、入海(内海)と大海(外海)の境に位置したことによるとする説がある(弓浜民談抄)。また出雲・伯耆の国境に位置することによるとする説もある(境港市史)。なお地名は後述の「坂江」「境江」の表記からみて「サカエ」とよんでいたと思われるが、明治一八年(一八八五)の内務省地理局編纂「地名索引」には「サカヒ」の訓がある。集落は境水道の海岸線に並行して東西に延びる。西外江村・東外江村から東進する内浜境うちはまさかい往来は、村の中央で上道村から北上してくる外浜境そとはまさかい往来と合流する。宝暦九年(一七五九)に境水道まで通水したよね川は東外江村に近い村の西端を流れる。耕地には恵まれなかったが漁業が盛んであり、なによりも良港境湊を擁して物資の集散地・中継地として発展、江戸時代末期には米子湊に比肩する存在となった。

文明三年(一四七一)一二月一一日の尼子清定宛京極政高感状(佐々木家文書)に「伯州境松」での合戦が記されているが、この「境松」は当地のこととする説がある。天文四年(一五三五)および永禄一二年(一五六九)の旧余子神社棟札写(竹内余子神社蔵)には「坂江」と記され、戦国期の六月一〇日付小早川隆景書状(閥閲録)に「境津」がみえる。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に「伯州之内堺村」として「参百貫 堺村内、二百貫福田給、百貫池上給之」とあり、続けて「百貫 長屋」「百貫 はしの浦」が記される。この堺村は当地を含めた弓浜半島北部一帯の呼称と考えられるが、「長屋」「はしの浦」がどこをさすかは不明。慶長二年(一五九七)三月一九日の雲伯境目証文(伯耆志)には外江とのえ村・竹内たけのうち村・道野どうの(のちの中野村)と並んで「境江村庄屋清兵衛」の名がみえる(村上家本「伯耆志」には上道村も記される)

この証文は前記村々と島根半島の森山もりやま村・宇部尾うべお(現美保関町)との間でそれまでの慣行を明文化したもので、草山をもたない境村などが森山村・宇部尾村の山を請山としていたこと、両村付の海に入漁していたこと、両村のうちに苗代田五町七反余を借用していたことなどが知られる。

境村
さかいむら

[現在地名]都留市境

東流する桂川の南岸に位置し、対岸は小沼おぬま村、西は倉見くらみ(ともに現西桂町)、南から東は鹿留ししどめ村。堺村とも記す(「甲斐国志」など)。当村は西域が倉見村からの、東域が鹿留村からの出村として開発されたと伝え、西部の人々は倉見村の社(白山明神)を、東部の人々は鹿留村の社(今宮権現)を産土神とした。中央に境ノ天神と号した神祠(現太宰府天神社)が置かれ、両村の境になっていたことから村名が生じたという(以上、同書)。文化三年(一八〇六)の村絵図(都留市蔵)によれば、主要道は富士道から南へ分れて村内北西端で桂川を渡り、太宰府天神社まで南に進み、同社から東西に村内を走り、この主要道に沿って集落が形成されていた。用水はおお堰で桂川から取水し、村域北部の河岸段丘は田方、南部の山際は畑方として利用されていた。弘治二年(一五五六)下吉田衆と小林和泉守との間に紛争が生じた際、「サカイノ弾正殿」が調停役として登場し、日に三度も下吉田衆のもとへ使者を遣わして説得にあたっている(勝山記)。この弾正を「甲斐国志」は年不詳の北条氏忠印判状で鉢形はちがた(現埼玉県寄居町)への出陣を命ぜられた小山田弾正にあて、小山田信茂滅亡後に小田原北条氏に仕えたとし、弾正屋敷だんじようやしきとよばれる伝承地が当村内に残ると伝える。

境村
さかいむら

[現在地名]朝日町境

越中国の最東端にあり、東は境川を隔てて越後国市振いちぶり村のたま(現新潟県青海町)、西は宮崎みやざき村、南は山を越えて大平だいら村。元禄一四年(一七〇一)越後国と境村の村役人は「古来より境川流次第、川半分国之境紛無御座候」と書いた証文を取交わしている(黒部奥山廻記録)。堺とも記した。天文一二年(一五四三)椎名長常は先例に従い、「堺村両分」の諸公事などを二〇年間免除している(同年一〇月晦日「椎名長常諸公事免許状」遺編類纂所収下新川境村文書)。この両分とは京都天龍寺の香厳きようげ院領と本光ほんこう院領のことであり、天正六年(一五七八)六月二日の某家定宛行状(同文書)には香厳院方・本光院方と記されている。元亀四年(一五七三)椎名康胤の浪人たちが海賊行為を行ったとき、上杉謙信は玉ノ木・境・宮崎などに対し海賊を防ぐべく武装させている(同年五月一四日「上杉謙信書状」岡田紅陽所蔵文書)

境村
さかえむら

[現在地名]香住町境

一日市ひといち村の東に位置する。北西は香住湾に面し、沖合にくろ島・白石しろいし島などが浮ぶ。西は丹生にゆう三ヵ村のうち丹生沖浦にゆうおきのうら村・丹生上計にゆうあげ村。坂江とも書いた(出石封内明細帳など)。村北部の今子いまご浦には諸国の廻船が入津して賑いをみせた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「さかい村」とあり、当地には「けい志ゆん」や「新ひやうえ殿」などが住していた。文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)城主小出吉政(のち出石藩主)の所領となる。慶長一八年(一六一三)に出石藩主小出吉英(吉政の子)が和泉岸和田藩主に転じると岸和田藩領となり、元和五年(一六一九)吉英が出石藩主に再封すると同藩領に復した。元禄九年(一六九六)出石藩小出家は無嗣絶家となり、同藩領はいったん収公されたが、翌一〇年松平(藤井)忠周が武蔵国岩槻いわつき(現埼玉県岩槻市)から移って出石藩主に就任すると、再度出石藩領となった。

境村
さかえむら

[現在地名]西伯町境

現西伯町域の北端、法勝寺ほつしようじ川中流域に位置し、集落は左岸に、耕地は右岸に展開する。南東は三崎みさき(現会見町)、西は谷川たにがわ村、北は大谷おおだに(現米子市)。「さかい」ともいい、同じく会見あいみ郡に属する弓浜半島のさかい(現境港市)と区別するために上境ともよばれた。なお衣川長秋の「田簑の日記」では坂井と記されている。寛正三年(一四六二)三月二三日の旦那去渡状(熊野那智大社文書)で善成坊什珎から花蔵院に売渡された旦那のうちに「(伯)耆国さかいの伊勢公引一円」とあり、この「さかい」を当地のこととする説もあるが、不詳。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に「弐百貫 境村」とみえる。

境村
さかいむら

[現在地名]協和町境

河辺郡との郡境にあたり、南は上淀川かみよどかわ村、東は荒川あらかわ村、北は船岡ふなおか村に接する。船岡川が村の西側を南へ流れ、その近くをほぼ並行して通る羽州街道に沿った台地上に展開する。船岡村との境は、街道沿いの合貝野あわせかいの刈合沢かりあいさわ橋であった。寄郷六ヵ村の親郷であり、隣村上淀川村と交代で行っていたようである。

久保田領郡邑記によれば、村の唐松からまつ神社に天喜五年(一〇五七)の棟札があったといい、この社を中心に唐松とよばれる集落があったと思われる。「奥羽永慶軍記」によれば、天正一六年(一五八八)秋田氏と小野寺氏が争った際、「秋田仙北の境を越えて唐松に向陣をぞ取にける」「舟岡川を渡して唐松野に陣を張る」などとあり、唐松の名がある。

境村
さかいむら

[現在地名]浜坂町境

辺地へつち村の東、久斗くと川上流域の山間にある。南東は美含みくみ久斗山くとやま村。本郷の北方、久斗川支流大味おおみ川の最上流域に枝郷の大味と奥大味おくおおみ(現廃村)がある。元禄一〇年(一六九七)の組中書出帳(森家文書)によると、かつてはあせ村といったが、寛文八年(一六六八)豊岡藩領となり、そののち同藩に断りを入れたうえで境村と改めたという。境は堺とも書いた(天保郷帳など)。なお寛政年間(一七八九―一八〇一)と思われる史料(表題不詳、女代神社文書)ではこの改称を天和二年(一六八二)のこととする。

境村
さかいむら

[現在地名]武蔵野市境一―五丁目・境南町きようなんちよう一―五丁目など

関前せきまえ村などの南に位置し、同村との間を玉川上水が流れる。西に境新田がある。開発当初から一村全体が計画的に開墾されたものではなかったため、耕地の地割は不定型であった。すなわち出雲松江藩主松平氏の御用屋敷(下屋敷)の跡を開発した地区(現在の境南町一帯)保谷ほうや(現西東京市)の農民たちが開発した地区(現JR中央本線北側)檜原ひのはら(現檜原村)人里へんぼりの山間部から移住してきた人たちが開発した地区(現境五丁目付近)からなっていたとされ(武蔵野市史)、松江藩主下屋敷の跡を上保谷村の百姓三右衛門が中心となって開発したのが発端といえる(享保二一年「社地出入覚帳写」平野家文書)

境村
さかいむら

[現在地名]奥多摩町境

氷川ひかわ村の西、多摩川上流域両岸にわたる。青梅おうめ街道が通る。堺とも記す。慶長三年(一五九八)の境村検地帳(田草川家文書)によると、名請人二五で、年貢高は畠・屋敷合計七貫八〇文、これを上漆二九束六丸・中漆五〇束・下漆四一束四丸・綿四四八匁・楮一二七束で納めた。田園簿では高三五石余(皆畑)。寛文八年(一六六八)の堺村検地帳(田草川家文書)では中畑一町一反余・下畑一町七反余・下々畑一町九反余・切畑七町五反余・屋敷五反余、松安しようあん寺七畝。

境村
さかいむら

[現在地名]鶴田町境

東は五所川原堰を境に狐森きつねもり(現板柳町)、西は五町目ごちようのめ村、南は野添のぞえ(現板柳町)で、北は前萢まえやち村に接する。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に六七・二石とあり、寛文四年(一六六四)以後の新田とされる。貞享四年の検地帳に田方三四町八反九畝二三歩、畑方四町九反八畝二二歩、田畑屋敷合せて三九町八反八畝一五歩、村高三六五・六〇七石、百姓一九人と記す。

境村
さかいむら

[現在地名]敷島町境

天狗沢てんぐざわ村の北東、あら川流域にある。村名の由来はかつて志摩しま庄と穂坂ほさか(現韮崎市)との境であったためという(甲斐国志)。坂井とも記す。天正一〇年(一五八二)一二月一二日、徳川家康は下条主水佐に境分二貫文などを安堵している(「徳川家印判状」下条家文書)。慶長六年(一六〇一)の坂井村検地帳(県立図書館蔵)によると、反別田一四町七反余・畑四町余。慶長古高帳では高三〇九石余、うち二一石余は幕府領、二八八石余は三枝土佐知行。貞享元年(一六八四)の境村検地帳(県立図書館蔵)では高二七八石余、反別は田一二町五反余・畑三町五反余・屋敷一町三反余。

境村
さかいむら

[現在地名]中井町境

北部より流出する藤沢ふじさわ川が村央を南流し、東は井口いのくち村、西は境別所さかいべつしよ村、南は岩倉いわくら村・比奈窪ひなくぼ村・藤沢村、北は大住おおすみ今泉いまいずみ村・尾尻おじり(現秦野市)と接する。正保国絵図に村名があるが、のちに当村の字はらとなる境原さかいはら村も載る。近世は二給、一は小田原藩領(宝永五年―文政一二年幕府直轄領)、一は初め旗本曲淵領、慶長五年―寛政四年(一六〇〇―一七九二)幕府直轄領、以後旗本伏屋領。享保一〇年(一七二五)の村明細帳(船津文書)は幕府直轄領分で、田五町三反余、畑四五町三反余、諸役として漆九八〇匁を納め、農間には薪を伐り国府津こうづ(現小田原市)へ売出す。

境村
さかいむら

[現在地名]境町さかえあずま

新田につた郡に属し、西は佐位さい郡境町で、日光例幣使街道が通る。平坦地。元亨二年(一三二二)一一月二〇日の尼浄院寄進状案(長楽寺文書)にみえる「新田庄南女塚村」は当地に比定される。元禄郷帳では高二六八石余、幕府領。近世後期の御改革組合村高帳では上総貝淵(請西)藩領、家数五一。世良田せらだ(現新田郡尾島町)に東照宮が創建されると、その火防役を課せられた。足尾銅山役も勤め、大原おおばら(現同郡藪塚本町)の銅問屋まで人馬を出し利根川の前島まえじま河岸(現尾島町)に銅を運んだが、文政九年(一八二六)免除された。村内を日光例幣使街道が通っていたため、東隣の女塚おなづか村との境界にある土橋の普請・整備役も課役されていたという。

境村
さかいむら

[現在地名]中央町境

角石祖母ついしそぼ村の東にある。村名は北庄山手きたしようやまて(現久米南町)上籾かみもみ(現同上)との境にあるためという(作陽誌)正保郷帳では田方二九〇石余・畑方一六四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳の改出高八五石余・開高一四石余。「作陽誌」の戸口は七三軒・三八一人。領主の変遷は和田北わだきた村と同じ。明治元年(一八六八)鶴田藩立藩による藩士の分住は一九家族であった(浜田町史)

高土山こうつちやま城は竹内民部少輔友長が築いたもので、龍王社は雨乞の地という。また当村の氏神は牛頭天王社で、神前で流鏑馬の行事があるという(作陽誌)。祭神は素盞嗚尊など八神。創立年代は不詳だが、上古より今宮大明神と号し、のち今宮牛頭天王、天保六年(一八三五)亀山天王と号し、明治六年より境神社とした。

境村
さかいむら

[現在地名]八日市市建部堺町たてべさかいちよう

きた村・南村の東にあり、北東を愛知えち川が北流する。村名は建部たけべ庄の南東隅、かき御園との境界にあたることにちなむとする説と、村内の八幡神社を和泉国境から遷してきたことによるとする説がある。条里地割の水田が広がり、集落も約一町(一坪)の中にまとまって形成されている。慶長三年(一五九八)七月の御蔵入目録(浅野家文書)建部堺たけべさかい村とみえ、高四二二石余。

境村
さかいむら

[現在地名]二宮町境

程島ほどしま村の南、低台地上に位置し、南は常陸国真壁まかべ筑瀬ちくぜ(現茨城県下館市)など。境井とも記した。応永二四年(一四一七)四月四日の沙弥禅貴結城基光遵行状(皆川文書)に堺郷とみえ、前年の一〇月五日の下文にまかせて、長沼義秀に引渡すよう下野守護禅貴が守護代水谷聖棟に命じている。この下文にあたる関東公方足利持氏御判御教書(同文書)には堺郷の名はみえないが、下野国の武田下条八郎跡がこれにあたると思われ、上杉禅秀の乱により没収され義秀に与えられたと考えられる。

境村
さかいむら

[現在地名]村岡町境

山田やまだ村の北にある。集落は矢田やだ川右岸の平地に発達し、北は美含みくみ八原やはら(現香住町)。堺とも書いた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「さかい村」とみえ、当地には西村殿が住していた。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)、寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図などに村名の記載はない。天保郷帳に堺村とあり、高二二石余。「七味叢誌」によれば建久年中(一一九〇―九九)平家の落武者尾崎近業が当地に流寓したことが村の始まりといい、近業の後胤は永正年中(一五〇四―二一)に字川向かわむこう、大永年中(一五二一―二八)には字古屋敷ふるやしき(いずれも矢田川の左岸)に居を構えたという。

境村
さかいむら

[現在地名]垂水市牛根境うしねさかい

二川ふたがわ村の北に位置し、東から北は福山ふくやま福地ふくち村、西は海に面する。境浦がある。中世には堺と記され、天文一四年(一五四五)四月一八日に「堺三町」など計一二町が本田董親に宛行われている(「島津貴久宛行状」旧記雑録)。江戸時代は囎唹そお郡に所属し、初め福山郷のうちであったが、のち牛根郷に編入された(「三国名勝図会」など)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に福山郷のうちとして村名がみえ、高九〇石余。

境村
さかいむら

[現在地名]田辺市芳養はや

なか村の北に位置し、北部を芳養川が北西から東南に流れる。小名に田川谷たがわたにがある。地名は下芳養と上芳養との境に位置するためという(続風土記)。慶長六年(一六〇一)の浅野左衛門佐殿知行持高写(「万代記」所収)によれば村高二六〇石余。安政六年(一八五九)の家数人数牛馬数書上帳(田所文書)によると家数四七、うち役家七・柄在家(無役家)四〇。田川谷の家数二九、うち役家五・柄在家二四。芳養組に属し和歌山藩田辺領。

社寺として「続風土記」は、小祠四(尾山明神社・秋葉社など)、不動堂、砦跡としてみね山・水取みずとり山を記す。芳養川の支流田川の上流右岸、蟇岩群の西端に標高六〇メートルの小丘陵があるが、その中腹にある押分おしわけ岩は奇岩として知られる。

境村
さかいむら

[現在地名]川里村境

東は見沼代用水(星川)を隔てて上会下かみえげ村、集落は同用水右岸の自然堤防上に立地している。村域西方には同村の広い飛地がある。騎西ささい領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高二六七石余・畑高一三三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高二二七石余(田方一七町余・畑方七町六反余)。化政期には旗本林・藤堂二家の相給で(風土記稿)、幕末まで両家領として続いたと考えられる(改革組合取調書など)

境村
さかいむら

[現在地名]深谷市境

櫛挽くしびき台地の中央に位置し、東から南ははら村・田中たなか(現川本町)、南西は北根きたね(現花園町)、西は大谷おおや村、北は人見ひとみ村。坂井とも記したといわれ、鉢形はちがた領に所属(風土記稿)。田園簿では田方二一石・畑方三〇六石余、旗本吉田・加藤・田村の三家の相給。元和四年(一六一八)から寛文三年(一六六三)まで北根村との村境争論がしばしば発生しているが、同年の当村の支配は幕府領と吉田・田村の二家の相給であった(慶長一一年―寛文三年「古来目安裁許召状控」宇野家文書)

境村
さかいむら

[現在地名]高岡市境

江道えんどう村の西、広谷ひろたに川に沿う西山にしやま丘陵地帯の谷間に位置。坂井などとも記した。元和五年(一六一九)の家高新帳では赤丸組に属して境井村とみえ、役家数三。正保郷帳に堺村とあり、高九六石余、田方四町四反余・畑方二町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印でも堺村とみえ、草高七七石・免六ツ六歩、小物成は山役一四八匁。延宝七年(一六七九)の山崩れ検地引高三七石(三箇国高物成帳)

境村
さかいむら

[現在地名]福井市境町・日光につこう町・玉川たまがわ町・文京ぶんきよう六―七丁目

福井城下西の三橋みつはし口から北西に延びる浦方うらかた道に沿い、北は底喰そこばみ川を越して吉田郡堀宮ほりのみや(現福井市)。足羽・吉田両郡境にあるために生じた村名か。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では北庄下きたのしようしも郷に含まれる。

境村
さかいむら

[現在地名]芝山町境

宮崎みやざき村の北東に位置する。成田市大竹円光おおだけえんこう寺所蔵阿弥陀如来立像の延慶二年(一三〇九)六月一〇日の銘文に「上総国北郡堺郷手取六郎四郎入道」とみえる。手取の地名が当地にあり、北郡は武射北むしやきた郡で、「堺郷」は当地のこととも考えられる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二一六石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳には境井とあり、舟越組に属し、旗本松平(久松)領。

境村
さかいむら

[現在地名]松本市和田 境

明暦二年(一六五六)の村高は一一九石七斗八升二合。和田郷と島立しまだち郷との境であり、境村とよばれた。

天台宗浄発願じようほつがん寺の末派で、もと松本城下清水しみずにあった念来ねんらい寺の末寺照光山西善さいぜん寺がある。本尊阿弥陀如来。開創の年暦は不詳。天和三年(一六八三)僧本明が中興。

境村
さかいむら

[現在地名]富士市境

駿東すんとう郡に所属。江尾えのお村の東に位置する。寛永九年(一六三二)幕府領となる。寛永改高附帳に村名がみえ、田方二四〇石余・畑方二七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報