今町(読み)いままち

精選版 日本国語大辞典 「今町」の意味・読み・例文・類語

いままち【今町】

[一] 新潟県直江津(上越市)の江戸時代の称。高田藩の外港。
※俳諧・北国曲(1722)六「猶今町におもむく。ひだりの方に海上三十里ばかり、佐渡が島かすかにみゆ」
[二] 新潟県見附市の地名。戊辰(ぼしん)戦争の激戦地。

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日本歴史地名大系 「今町」の解説

今町
いままち

[現在地名]上越市直江津・中央ちゆうおう一―五丁目・住吉すみよし

港津直江津およびその港町の近世の称。廻船式目の写である廻船大法(越前内田敬三氏蔵)に、七湊の一として「越後 今町ナヲヤ直江なり」とみえる。室町後期に日本海の主要な港として発達していたことは確かだが、その具体的な様子は不明。またこの大法は天正七年(一五七九)の写となっているが、それが事実かどうかはわからない。したがって今町の称が戦国期にさかのぼるかどうかも確定しがたい。なお今町は湊を意味する江澗から起こったという。

慶長一二年(一六〇七)福島ふくしま城が完成し、春日山かすがやま城主堀忠俊は家臣・寺社・町人らとともに福島城に移ったが、この時直江津の商業機能を荷っていたとみられる直江なおえ町・町も移転させられ、さらに高田城下が経営されて商業機能は同城下に集中されたため今町の経済的地位は低下し、しだいに衰微した。しかし高田城下の外港として港の機能は維持され、米の積出港として、また頸城・信州方面への塩・四十物・鉄や日用品の移入口として重要であった。天和元年―貞享二年(一六八一―八五)の高田城無城主時代(幕府領)を除いては高田藩領であったが、藩領下では高田町奉行の支配下にあって町会所が設けられ、大肝煎一名・大年寄一名のもとに各町に町頭がいて運営に当たった。ただし地子銭は免除されていず、天和三年の検地で居屋敷高六三石八斗(反別八町五反余)と定まった(延享三年「直江津今町村鑑帳」福永家文書)。なお郷帳類には今町と記されるが、町会所の記録には直江津今町と書かれており、一般的には直江津あるいは今町と呼称された。

〔町数・家数・人数〕

延宝九年(一六八一)の高田城請取諸事覚書(「直江津町史」所収)に直江津今町としてしん町・河端かわばた町・なか町・中島なかじま町・片原かたはら町・よこ町・より町・山砂山やますなやま町・浜砂山はますなやま町・大湊おおみなと町の一〇町があげられ、家数六一二・人数二千九三七。

今町
いままち

[現在地名]日南市今町一―二丁目

十文字鳥居下じゆうもんじとりいしたの東、酒谷さかたに川の北に位置する町人町。同川を挟んで南は星倉ほしくら村。西半の広木田ひろきだ地区(現今町一丁目)と東半の今町地区(現今町二丁目)からなり、広木田は商家と寺社、今町は商家を中心に形成されていた。なお広木田を含む今町を星倉村のうちとする場合もあった(伊能忠敬測量日記)。町の長さは酒谷川に注ぐやま川にかかる石橋から東、酒谷川に沿って東西に三町一二間、南北は一町(日向地誌)。町のほぼ中央を貫く東西路の東半を春日かすが馬場とよぶ。同馬場は東に進んで板敷いたじき村に入り、同村とびみね峠で北に折れる飫肥おび街道とそのまま東進する鵜戸うど街道に分岐した。広木田地区北部の丘上には談義所ともよばれた真言宗願成就がんじようじゆ寺があり、同寺の西に臨済宗大龍だいりゆう寺、大龍寺に南接して願成就寺末の医王いおう院が並び、願成就寺の東には広木田大明神が祀られていた。今町地区の中央東側には浄念じようねん(現浄土真宗本願寺派)がある。町には別当と町役が置かれ(六鄰荘日誌)、文政一三年(一八三〇)の飫肥藩分限帳写(日南市立図書館蔵)では歩行格の日高佐兵衛(一三石取)が別当に任じられていた。郡行政によると恵比寿講が上・中・下の三つあり、一〇月一〇日の祭のほか、各講とも正月・五月・九月の各一〇日に集りをもち、商業に関することを議題とし、若干の無尽も行っていた。町の戸数は文化七年(一八一〇)の書上(日向国史)では八八、「日向地誌」では八六。

今町
いままち

[現在地名]長崎市金屋町かなやまち

本博多ほんはかた町の北西、岩原いわはら川河口の左岸にある長崎うち町の一ヵ町で、陸手に属した。町並はほぼ南北に形成される。近世初頭、今町域に耶蘇宗門の寺が建立され(山口家本「長崎根元記」)、耶蘇寺とも称され(華蛮交易明細記)、慶長一九年(一六一四)幕命で平戸藩の兵が破却したというが(長崎拾芥)、これは同一一年頃建設のサン・ペトロ教会であろう。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「今町」のキリシタン「りやうこ」「またれいな」らが署名している。寛永長崎港図では内町として今町が記される。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺によれば平戸ひらど町の仁介の女房は天正一九年(一五九一)高麗から長崎今町にきてキリシタンになったが、寛永三年から同五年まで長崎奉行であった水野守信のとき転ぶことなく、「山に入」り、信仰を保ったが、のち島原で夫とともに改宗、禅宗の晧台こうたい寺を請寺とした。

今町
いままち

[現在地名]金沢市尾張町おわりちよう一丁目

大手前の武家地(のちの殿町)の北側に位置する町人町。両側町で本町。北の尾張町に並行し、西は博労ばくろう町、東は東内総構堀で限られる。上・下の二町に分れ、町中央を縦断する尾坂口おさかぐち御門筋(中町筋)の西が上今町、東が下今町であった。文政六年(一八二三)には上今町西端博労町境が山崎やまざき町として町立てされた。今町の町名は尾張町に北接するしん町と同じ、新たにできた町の意であるとか(三州志)、あるいはかつての石浦いしうら庄七ヵ村の一、今市いまいち村に関連するものであるなどと伝える(金沢古蹟志)。天正一二年(一五八四)の御帳面大工拝領地のうちに「今町」とみえる(加藩国初遺文)

今町
いままち

[現在地名]酒田市北今町きたいままち北新町きたしんまち一丁目・日吉町ひよしちよう一丁目・寿町ことぶきちよう栄町さかえちよう

伝馬てんま町の北に延びるはま街道沿いの両側町で、酒田町組の北端にあたる。もとは荒涼とした砂原であったが、明暦三年(一六五七)から天和三年(一六八三)の間しだいに家が建てられた(「酒田御町三組古控」飽海郡誌)。天和三年の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)によると町域は一町、家数三五・人数一三〇。

今町
いままち

[現在地名]八尾町今町

井田いだ川右岸の山腹、八尾町の北部に位置し、北は下新したしん町、南東は東下ひがししも町、南西は西下町。聞名もんみよう寺の門前町で、天保一四年(一八四三)の町絵図(県立図書館蔵)では東西両下町の二筋の道が当町で一筋になり、聞名寺の門前で西から北西に折れ、下新町に続いている。寛永一三年(一六三六)の八尾町町立ての当時すでに数軒の駄菓子屋があり、これと下新町を結ぶように屋並が営まれ続けて一町となったとされ、こうした経緯から別になか町と通称していたという(「松本駒次郎翁聞書」八尾町史)

今町
いままち

[現在地名]氷見市中央町ちゆうおうまち比美町ひみまち

北六町の一つで、散町。浦方とよばれる漁師町の一つ。寛延三年(一七五〇)の氷見町絵図(宮永家蔵)によれば、東は富山湾に臨み、北は上庄かみしよう川河口に面し、町中央部にふる江という沼があり、西は北新きたしん町。西側の通りははま往来を挟んで両脇に商店が並んでいた。漁業の町らしく網元・船元・漁師たちが多く住んだ。当町を代表する漁師頭として権兵衛が知られる(応響雑記)。当町が氷見町の最北で、二宮にのみや往来に通じるには上庄川に架かる北の橋を渡らねばならない。北の橋は長さ二八間・幅二間、木造であった(前掲絵図)。浜往来が通り、氷見町木戸の一つ北ノ橋詰木戸があった(憲令要略)

今町
いままち

[現在地名]富山市八人町はちにんまち日之出町ひのでまち

たて町の北に位置し、万治年間富山旧市街図は立町の西寄り北側から南北に延びる町並を今町とし、東に延びる町並のうち南を今町横町、北を今町北横町と記す。安政元年(一八五四)の富山城下絵図(県立図書館蔵)は、立町の北側に並行して東西に延びる通りに「イママチ」と記す。田地方のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図に記載され、前田利次による町割当初から存在した。安永八年(一七七九)の本家数三五・貸家数二五で、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)

今町
いままち

[現在地名]米沢市相生町あいおいちよう大町おおまち四丁目

東寺ひがしてら町の北部から東に延びる道に沿う町人町。城下の外への出入口一二口の一。東寺町と当町の境に三尺ほどの小川が流れる。慶長一四年(一六〇九)頃までに成立。脇町一三町の一。寛文一二年(一六七二)の惣町軒数目録によれば軒数一六余、うち役屋一〇余。享保一〇年(一七二五)の町方書上によれば東寺町のうち今町とみえ、長さ一町五間・道幅五間余、家数本屋一六・茂林もりん寺名子九。ほかに東寺町の極楽寺の下屋敷があり名子四軒があった。弘化三年(一八四六)の水帳では家数二八、うち煙草屋二・穀屋三・綿屋二・古手屋二など。

今町
いままち

[現在地名]久留米市中央町ちゆうおうまち

大手門の南方、築島つきじま町の南にある。町並は東西に広がり、東は細工さいく町、西は縄手なわて方面の道につながる。慶安四年(一六五一)御用鋳物師の植木屋政治が今町に居宅を拝領した(久留米市誌)。延宝城下図では今町および今町横丁がみえる。「啓忘録抜萃」では町別当播磨屋掛に属し、家数四四軒・小間数一六六間余。「校訂筑後志」では町間数一町四三間。文政元年(一八一八)当時は原古賀はらこが一丁目居住の戸板屋が町別当(久留米市誌)

今町
いままち

[現在地名]鳥栖市今町

長崎街道が丘陵状高位段丘を越える坂道の南にある街村状の小町場。木山口きやまぐち(現三養基郡基山町)より南へ一三町五三間、田代たじろ町追分石より北へ一二町七間(元禄絵図)の所にある。承応二年(一六五三)成立の新町で、街道の東側は長野ながの(現三養基郡基山町)分、西側は柚比ゆび(現鳥栖市)分であった。一六九一年(元禄四)ケンペル「江戸参府旅行日記」に「今町と角木つのぎの二つの小さい村は、前の村から半里の所に続いている」とある。

今町
いままち

[現在地名]小矢部市八和町やつわまち

紺屋こんや町の北に続く南北道に沿う両側町。散町に属する。北端は西に曲がり、鉤の手になっている。今石動町の北西端に位置し、その外側(北西)に町奉行所の与力衆の役宅や足軽屋敷からなる足軽あしがる町がある。東側には徳円とくえん寺がある(元禄一五年今石動町図)。寛保二年(一七四二)には宅地二千四一五歩で、地子米一〇石三斗七升余(一歩につき四合二勺余)

今町
いままち

[現在地名]八幡町島谷しまだに

吉田よしだ川左岸に位置し、新町しんまち通の西に続く。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図に「イマ丁」とみえ、西端に枡形が作られ、その一画に番所があった。安永二年(一七七三)郡上領留記(大西文書)によると、この番所は諸口切手改御番所一八口の一つで新町口番所とよばれる。当町は新町の一部として扱われていた可能性がある。

今町
いまちよう

[現在地名]日野町大窪おおくぼ 今井町いまいちよう

仕出しで町の西、日野大窪町の南西部にある。城下町割では南今町通七ヵ町の一、松屋まつや町が当町にあたる。延宝七年(一六七九)より日野大窪町大窪組に所属。寛保三年(一七四三)の合薬屋は四軒、延享五年(一七四八)には配置売薬用の薬箱を作る指物屋が一軒あった。文久元年(一八六一)には井筒屋徳兵衛・小谷治郎右衛門・古沢平右衛門・尾林治右衛門・尾林庄兵衛・山田忠右衛門などの商人が大当番仲間に加入。

今町
いままち

[現在地名]松前郡松前町字唐津からつ

近世の松前城下の一町。唐津内沢からつないさわ川と小松前こまつまえ川に挟まれた海岸段丘上の西部にあった町。享保二年(一七一七)の「松前蝦夷記」に今町とみえる。文化三年(一八〇六)の松前市中地図および文化頃の松前分間絵図では、唐津内町から北方専念せんねん寺に至る南北に走る道路沿いの町が「今町」となっており、同町まで一〇五間。

今町
いままち

[現在地名]鹿児島市泉町いずみちようなど

つき町の南に位置し、東は海に面する。しも町一二町の一。天保城下絵図、天保切絵図に町名がみえる。正徳三年(一七一三)四月当町から出火する大火があった(古記・西藩野史)。この大火により鹿児島藩主島津吉貴は火道を絶つため空地を設けることを計画、幕許を得て城下・南泉なんせん院下・御舂屋おつきや下などを延焼止めの空地とし、武家屋敷を移した(古記・島津国史)

今町
いままち

[現在地名]松任市成町なりまち

北陸街道(本町通)の上口(西口)に位置し、東は茶屋ちやや町に続く。明治四年(一八七一)町方として松任町に編入、字名を当初は今出いまで町、同年中に今町と改めた。それ以前は成村に属していたが、茶屋町に連なる町続町で茶屋垣内と称していた。

今町
いままち

[現在地名]滑川市今町

北陸街道の北に位置し、北は富山湾に面する。南は神明しんめい町、西は夷子えびす町。神明町が後背農村からの人口流入で膨張し、徐々に家建てがなされ、享保(一七一六―三六)初年頃に成立したと伝える(滑川町誌)

今町
いままち

[現在地名]福山市今町・大黒だいこく

笠岡かさおか町の北に続く両側町。名称から周辺諸町より遅れてできた町並と思われるが、水野時代福山城下地図には町名がみえ、「備陽六郡志」には間数一二七間四尺七寸、坪数一千七〇六坪三合、本家二六軒、表借屋三二軒、裏借屋八軒とある。

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改訂新版 世界大百科事典 「今町」の意味・わかりやすい解説

今町 (いままち)

越後国(新潟県)頸城郡の港町。海陸交通の要地。今町は直江津ともいい,《義経記》《山荘太夫》,謡曲《婆相天(ばそうてん)》などに直江の津,直井の浦とあり,《婆相天》には問(とい)の左衛門これすけが人身売買をおこなったとある。市街は越後国府が発展して,府中,府内,越府と呼ばれた。京畿へ米や越後特産の青苧(あおそ)を移出する重要な港で,青苧や越後上布を積んだ苧船(おぶね)で直江津から敦賀,小浜へ送られた。青苧座は京都の三条西家の管理下におかれ,同家の重要な財源であった。応仁の乱後,京都から尭恵,道興,宗祇,宗長,万里集九その他多くの文化人が難を避け直江津へ来て越後守護上杉房定の歓待を受け,地元の文化人と交歓して越後府中文化を生んだ。上杉謙信時代は戸数6000を数える城下町港町となった。1614年(慶長19)松平忠輝が高田を開府して直江津は高田藩の外港にとどまったが,このころから今町の港名が見られ,盛んに直江津,今町の港名が混用され,公式の町名さえ〈直江津今町〉とした。《廻船式目》にも三津七湊の一つとして越後今町湊とある。1878年になって新潟県令に請願して直江津町と一定したが,民間においては大正初期まで直江津と今町の呼称が混用された。江戸時代,今町港は毎年天領の城米2万5000俵,高田藩の蔵米5万俵,商人米5万俵ほどを江戸・大坂へ回送し,瀬戸内各地の塩,関西からの砂糖・織物その他諸商品,蝦夷地からの塩ザケ・コンブなどの海産物を移入して,信州,上州へ売りさばいた。佐渡,新潟,伏木への定期航路もあった。1954年直江津市となり,71年高田市と合併,上越市となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「今町」の意味・わかりやすい解説

今町
いままち

新潟県中央部、見附市(みつけし)西部の一地区。旧今町。刈谷田(かりやた)川岸にある地方中心街で、3の日と8の日に立つ六斎市(ろくさいいち)でにぎわう。近世は刈谷田川河川交通の河岸場(かしば)町で、中越米(ちゅうえつまい)の米相場師の活躍でにぎわい、問屋、料理屋が軒を並べ、活気を帯びていた。また、古くから筆づくりが名物。また刈谷田川堤防上で行われる大凧合戦(おおだこがっせん)(6月)は越後(えちご)の三大大凧合戦の一つに数えられている。

[山崎久雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「今町」の意味・わかりやすい解説

今町
いままち

新潟県中部,見附市の中心市街地の西にある地区。旧町名。 1956年見附市に編入。刈谷田川の旧河港で交易が盛んであった。筆づくりが名物。6月上旬に刈谷田川の堤防上で対岸の長岡市中之島との間で行なわれる大凧合戦は勇壮。

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百科事典マイペディア 「今町」の意味・わかりやすい解説

今町【いままち】

直江津

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