高田城下(読み)たかだじようか

日本歴史地名大系 「高田城下」の解説

高田城下
たかだじようか

慶長一九年(一六一四)せき(荒川)左岸に築城された高田城の城下町。城を中心に、関川に限られる東を除く三方に家中屋敷が広がり、それを囲む形で町屋が作られた。城下全体に防衛上の配慮がなされていて家中屋敷地区の道路は狭く、迷路的に入組んでいた。これに対して町屋地区は碁盤状に区切って、城側から職人町・商人町・職人町と配し、築城前に西方の山麓を走っていた北国街道への備えとして寺町を置いた。碁盤状の整頓された道路も、城下の出入口の辺は道筋をコの字形にしあるいは十字路をくい違わせ、さらに町屋地区に防雪上設けた雁木通にことさらに出入りを作るなどの防衛策をとった。このため交通上に支障を来した。城下へのおもな出入口は三ヵ所で、南と北東に北国街道(信州街道・奥州街道)伊勢町いせまち口と稲田いなだ口、北西に北陸街道(加賀街道)陀羅尼だらに口があった。北国街道は前述のように西方山麓を走り北陸街道につながっていたが、築城時に城下の本町ほんまち通を通るように迂回させ、本町通沿いの出雲いずも・関・府古ふご春日かすがの四町に高田宿の機能を分担させた。そして北国街道と北陸街道の結節点を城下に置き、直江津の荒川あらかわ橋を落したため加賀・越中方面からの旅人が関川を渡るには約六キロも遠まわりしなければならなかった。

城下には築城時に付替えられた青田あおた川と儀明ぎみよう川がほぼ平行して北流しており、青田川は家中屋敷を、儀明川は町屋を守る線とされた。青田川には関町せきまち往下おうげの二橋、儀明川には両替りようがえ橋など九橋が架けられており、関川には稲田口に荒川橋があった。なお城下の上用水源は井戸であった。

〔築城前の高田〕

高田の地名の由来ははっきりしない。築城以前は関川・矢代やしろ川合流点の氾濫原であったというが、明治時代の郷土史家庄田直道の築城前高田附近之地勢推測図によれば、中央部に高田村があり、直道らの編集による「頸城郡誌稿」は、本町通の中心部に高田村、現おお町二丁目に乙吉おとよし村が存在したとし、さらにその周辺に藪野やぶの(現東城町一丁目辺り)馬塚うまづか(現南本町二丁目)杉森すぎのもり(現仲町三丁目と四丁目の境付近)土橋どばし(現北本町一丁目)などの集落があったという。築城前に高田に建てられた唯一の寺院である本誓ほんせい寺の由緒記に慶長一一年のこととして「当時之高田町之近辺を高田村と申、賑ひも有之在町にて、以前より陣屋被置、役人詰居候ニ付、(中略)大橋詰両人町の裏、大橋の突当りにて、一町四方の屋敷地被下候」とあり、当時の状況を推測する手掛りとなる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高田城下の言及

【高田】より

…郵便の父,前島密は当地の出身で,記念館がある。【磯部 利貞】
[高田城下]
 近世に城下町であった高田は,中世以前は関の庄菩提が原とよばれた。上杉氏の春日山城に代わって堀氏は福島城(直江津)を築いたが,1610年(慶長15)改易となり,徳川家康の六男松平忠輝が城主となった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」