松任町(読み)まつとうまち

日本歴史地名大系 「松任町」の解説

松任町
まつとうまち

現松任市のほぼ中央部に位置し、北は相木あいのき村・宮永市みやながいち村、東は五歩一ごぼいち村・徳丸とくまる村、南は倉光くらみつ村、西はなり村・村井むらい村に囲まれ、北陸街道が通る。同街道の宿駅で松とう駅ともよばれた。現在はマットウと発音するが、仮名付帳はマットとし、「皇国地誌」はマットウ、マット両様の訓を付す。江戸時代には拝領地(地子免除地)を町方(本町)、拝領地ではないが町場化していた地域を散町・散地、それ以外を地方とよんで区別した。

〔町立て〕

当町の創始と名称の由来について「松任町旧記」に「王代之頃、石同・四郎丸・三丁町と申在所有之、然所承平五年国司松木殿之依仰、三ケ村を一所に成、市町を可立、猶其所之名を松木殿に奉任所以に而松任と名付候と在之候」とあり、諸書も大同小異の伝承を記す。時代や事実関係は確かめられないが、石同いしどうは江戸時代の町名にあり、明暦三年(一六五七)頃までは四郎丸しろうまる(白丸)の村名が確認できたという。「松任町史」は年代記などの記述をもとに四郎丸はのちの博労ばくろう町・馬場ばば町一帯、三丁さんちよう町はひがし町一帯に比定している。なお市町として成立したという伝承は、天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)に町名として八日市場ようかいちば四日市場よつかいちばがあり、事実の反映とみられる。一方当地には慶長(一五九六―一六一五)末年頃の廃城まで中世以来の松任城があり、城下町としての性格も併せもっていた。

前掲町絵図によると、町場は城跡の南方に東西に延び、北陸街道(本町通)を中心にその北に新町しんまち通、南に後町うしろまち通が並行して走り、それら三筋の東端に南北に東町ひがしまち通・石同町いしどうまち通が通って、整然とした街衢を形成している。街衢の東西には中村なかむら用水の分流である東川・西にし川が流れ、さらにそこから引かれた用水小川が網の目のように屋並を縫っている。このような町割がいつの時代にまでさかのぼるのか不明だが、おそらく天正八年(一五八〇)の柴田勝家家臣徳山五兵衛の松任入城後の縄張りによるものであろう。あるいは同一一年の前田利長の入城、さらには同一五年の丹羽長重の入城まで下るかもしれない。御高出入帳(松任町史)は徳山五兵衛の時代には「在々所々之者迄茂望次第に御屋敷被下候」と記し、前田利長・丹羽長重の時分も「町屋敷被下候」と述べている。廃城後は宿駅機能を備えた在郷町として発展、火事・洪水などの災害を受けることも少なく、江戸時代の町並を今に伝えている。なお用水が豊富であるのに比し、飲料水は地下水が深いため不足気味で、四、五〇軒に一つ程度の共同井戸に依存していた(松任町史)

松任町
まつとうまち

[現在地名]小松市松任町・殿町とのまち一―二丁目

きよう町と細工さいく町の境から北に続く北陸街道筋の町で、北はどろ町に続き、東はしん町に並行する。長さ三町一八間一尺・幅三間(皇国地誌)。西側に属町があり、「南方小松横京町界ヨリ北ニ通シ、梯川ニ至ル、長七町五間三尺、幅一間三尺、北方西北ニ入リ屈曲数条トナル」とある(同書)。慶長三年(一五九八)丹羽長重が石川郡松任城から小松城に移封された際、松任の町人が移住して町立てしたための町名という(小松市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報