下田村(読み)しもだむら

日本歴史地名大系 「下田村」の解説

下田村
しもだむら

[現在地名]下田町 中下田なかしもだ三本木さんぼんぎなど

奥入瀬おいらせ川の下流沿岸ならびにその北部にあたり、木崎野きさきのにかかる。東と北は百石ももいし(現百石町・三沢市)、西は犬落瀬いぬおとせ(現六戸町)、南は上市川かみいちかわ(現三戸郡五戸町)下市川村(現八戸市)に接する。天正末年頃下田館に下田治太夫が居館したとされる。下田氏は南部氏二二代政康の三子長義(信義)を祖とし、その三男河内守直政は天正一八年(一五九〇)以前に南部信直より下田に二千石を与えられたという(「南部家系図」下田町誌)。下田に直接居城したのは直政の嫡男治太夫直勝であったが、直政の死後その居城三戸さんのへ西越さいごし(現新郷村)へ移り、寛永元年(一六二四)弟の下田将監直徳を下田館に配し、三〇〇石の分知を許された(「参考諸家系図」岩手県盛岡市中央公民館蔵)

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に下田村、一四〇石余とあり、同年の郷村帳によれば一四〇・一五二石のうち七一・八四石が田である。

下田村
しもだむら

[現在地名]玉山村下田

北上川とまつ川の合流点西側に広がり、中央を生出おいで川が流れ、西側を鹿角かづの街道が通る。東は北上川を隔てて渋民しぶたみ村、北西は大更おおぶけ(現西根町)、南は滝沢たきざわ(現滝沢村)生出袋おいでぶくろに下田館跡があり、三方を川に囲まれた比高三〇メートルの段丘上に位置し、不整形を呈する南北の二郭からなる。館主下田氏は紫波しわ郡の河村氏の一族で、沼宮内氏・川口氏らとともに南部晴政の代に三戸南部氏に従った(「南旧秘事記」内史略)。下田は上田うえだ(現盛岡市)に対する地名で、かつて北上川は現在より西側を流れていたという(村誌たまやま)。文禄五年(一五九六)六月四日の南部信直書状(国統大年譜)に「伝馬三拾 沼宮内 川口より下田 門前寺まて をくりまひらせ候 又下田 門前寺より子次方まてをくり可く候」とある。近世初頭と思われる三月二五日の南部利直黒印状(盛岡一方井文書)に下田弥三郎の名がみえる。

下田村
しもだむら

[現在地名]城島町下田

筑後川下流右岸にある。永禄三年(一五六〇)堤氏が下田城を久里くりに築き、同七年村南に新川を掘り要害としたため、筑後川右岸の飛地となったという。それ以前の筑後川は屈曲して肥前領に入り込み地続きであった。南の筑後川対岸ははま村で下田渡で結ばれ、北は芦塚あしづか村。中世は三潴庄の内。正平一二年(一三五七)閏七月二二日の白魚政等連署置文案(青方文書/南北朝遺文(九州編)四)に「しもたにたんミつゑ」とみえ、下田二段三杖が同一九年まで性蓮に与えられることになった。しかし性蓮は同月二六日に返還している(「性蓮・本江経家連署避状案」同上)。応永二五年(一四一八)二月二八日の報恩寺寺領坪付(隈文書/筑後国三潴荘史料(九州荘園史料叢書))によると、「下田支村か分 一所壱段作人くさいのりやうもん」「下田 一所四段四丈大塚しんひやうへか分」など報恩ほうおん寺領があった。「筑後将士軍談」によると、下田村近郷七邑を領する堤貞正入道妙光の館があったという。

文禄四年(一五九五)の知行方目録に村名がみえ、高三八二石余・葭方七四石余。慶長一三年(一六〇八)九月二五日、当村の四郎左衛門は刀・脇差・槍の所持を許された(「月瀬右馬丞奉書写」古文書類集)

下田村
しもだむら

[現在地名]香芝町下田東一―五丁目・下田西一―四丁目・藤山ふじやま一―二丁目・本町ほんまち・大字下田

馬見うまみ丘陵西南部、逢坂おうさか村東南方、葛下かつげ川流域の低地に所在。西方の穴虫あなむし峠・田尻たじり峠を越え、河内国国分こくぶ(現大阪府柏原市)に至る大坂街道(伊勢街道)の要所。徳川末期の石標には「すぐ 大坂 さかゐ」「すぐ たゑま はせ いせ」と刻む。縄文時代の下田遺跡があり、集落東方に「国民郷士記」にみえる下田又次郎友夏の居城跡があり、付近に城山薬師しろやまやくし大門町おおかどちようなどの小字が残る。

慶長郷帳の村高九二五・〇七石、御所藩(桑山元晴)領。寛永九年(一六三二)御所藩改易で幕府領に編入、同一六年郡山藩(郭住、本多勝行)領。

下田村
しただむら

面積:三一六・九九平方キロ

南蒲原郡の南東にあり、東は福島県南会津みなみあいづ只見ただみ町・東蒲原郡上川かみかわ村、北は加茂市、南は栃尾市、西は三条市・さかえ町・見附市に接する。越後山脈に東を限られ、北は新津にいつ村松むらまつ丘陵、南は栃尾・下田丘陵の間に下田盆地が北西方向に延びる。村域の九二・五パーセントは山地あるいは丘陵である。烏帽子えぼし(一三五〇メートル)を源とする大谷おおたに川は笠堀かさぼり湖の西方で笠堀川と合流し、五十嵐いからし川となって盆地底を北西に流れ、流域には河岸段丘が発達。

下田村
しもだむら

[現在地名]南国市稲生いなぶ

香長かちよう平野の南部、伊達野いたちの村の南にあり、西北部と南部を走る小山塊に囲まれた平坦地で、中央部を下田川が西流、しも街道が東西に走り、東は蚊居田かいだ村、西は介良けら(現高知市)に通じる。「土佐州郡志」は「下田村衣笠村隷片山郷、右二村無界限故為一、去高知一里半、(中略)東西三十町余南北十一町許」「村中有川有運石舟、其土黒」と記す。

天正一五年(一五八七)の片山郷下田村地検帳によれば、衣笠きぬがさ村分を含め検地面積一二〇町四反三八代一歩、うち畠四反四五代二歩・屋敷三町四七代一歩、ほかは田。屋敷数一二五、うち居屋敷九一。下田氏の所領が多かったが、そのほかに周辺の片山・池・十市・蚊居田の諸氏、五台山中院などの所領が「分」として認められる。

田村
しもくしだむら

[現在地名]上月町櫛田

上櫛田村の北、千種ちくさ川中流域の沖積地と後背山地に立地する。もと櫛田村一村であったが承応二年(一六五三)から延宝五年(一六七七)の間に二村に分立したという(櫛田村文書)。千種川右岸の石井いしい、左岸の井の谷いのたにはら奥村おくむら須山すやまの五集落よりなる。寛永一七年(一六四〇)から山崎藩領、慶安二年(一六四九)から幕府領(「寛政重修諸家譜」など)、弘化元年(一八四四)龍野藩預となり幕末に至る(「龍野藩預地村名帳」脇坂家文書)。延宝七年の櫛田村検地帳(櫛田村文書)は櫛田村一村でまとめられ、当村と上櫛田村が各一冊所持した。

下田村
しもだむら

[現在地名]美並村上田かみた 下田

長良川右岸にあり、南下流は村、対岸は福野ふくの村新田。貞治三年(一三六四)六月二〇日の前大僧正某安堵状(大興寺文書)に「吉田庄吉田 小野 中野 下田四ケ郷」とあり、大興だいこう(現揖斐郡揖斐川町)に与えられている。しかし、吉田よしだ庄の所在地については研究の余地がある。「蔭涼軒日録」長享元年(一四八七)一二月二五日条に「濃州下田」とあり、翌二年五月一八日条には下田郷が記される。星宮ほしのみや神社の永正七年(一五一〇)一二月日の梵鐘奉納札に「郡上郡下田郷粥河住実良」と記される。

下田村
しもだむら

[現在地名]長陽村河陽かわよう

北東から北に夜峰よみね山をひかえ、渋谷しぶたに川が南流して白川と合流する。東は東下田ひがししもだ村、南は久木野くぎの(現久木野村)、西は小村である加勢かせ村、西北は河後田かわごだ村に接する。阿蘇大宮司家の私領である南郷一〇ヵ村の一村で、鎌倉時代には宇治惟泰・「あそとの」・惟次(継)・惟義・惟景・惟資・惟国の順に代々相伝され(正治二年一二月一四日「宇治惟泰譲状写」阿蘇家文書など)、代替りごとに北条氏から安堵された。元弘の変が勃発して一族が分裂した最中、阿蘇社の祭祀権集中を図る大宮司惟時(惟国の子)は、「南郷下田御年貢六斛六斗八升」を一一月二〇日に臨時祭の祭礼米として下宮に寄進している(「阿蘇社年中神事次第写」同文書)

下田村
しもだむら

[現在地名]能勢町下田

山田やまだ川が大路次おおろじ川に合流する付近の西岸流域に位置する。片山かたやま村枝郷(天保郷帳)で、東を除く三方を同村に囲まれる。東は平通ひらどおり村。村高は寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では一二七石余。領主の変遷は寛永―正保期以降宿野しゆくの村と同じ。村役人のほかに取次庄屋と称して村からの諸願届などを役所へ取次奥印をする者が置かれており、安永期(一七七二―八一)には郷内六ヵ村(平野村・上杉村・稲地村・垂水村・山田村・天王村)の村役人がこれに当たっていたが、当村より故障が出され、後には主として片山村庄屋、上阿古谷かみあこたに(現兵庫県川辺郡猪名川町)庄屋が取次奥印をしている(福井家文書)

下田村
しもだむら

[現在地名]中村市下田

鍋島なべしま村の南方、四万十しまんと(渡川)河口左岸の村。江戸時代には四万十川は当地辺で二流に分れて中洲を形成(元禄土佐国絵図ほか)、河口部には砂の堆積によって島がつくられ、青砂あおさ島とよばれた(現在は陸続きとなっている)。村は郷方と浦方に分れ、「土佐州郡志」は下田村を説明して「南限下田浦、北限鍋島村、東西一町余南北三町、戸凡一十余、其土多砂」とし、浦について「南西二十町許東北三町許、戸凡三百余、多漁舟」と記す。安永七年(一七七八)当地を訪れた浦奉行谷真潮はその紀行「西浦廻見日記」に河口右岸の名鹿なししを経て「けはしき坂を長くこえ、のぼりおりして下田也、曠濶たる所に出る、渡リ川の末わかれて中に大なる畠島有て、末ハ海きハにて一ツなりて海に入る、青砂島に渡リ舟をつけてそこらを見めぐる也」と記し、続いて下田浦の様子を描写している。

下田村
げだむら

[現在地名]上市町下田

早月中はやつきなか村の早月川対岸に位置する。早月川原にあるため下田ヶ島とよんでいたが、天正二年(一五七四)金山の発見によって下田金山と称するようになり、越中七金山の一つに数えられた(白萩小史)。文化八年(一八一一)の下田山由来書上申帳(越中鉱山雑誌)によれば、天正二年以前は百姓家三軒・頭振家三軒であったが、金山開坑とともに山師たちの屋敷が増えた。江戸時代初期の村高三一石余、免二ツ八歩であったが、早月川の度々の洪水により村は段丘の上方に移ったという。

下田村
しもたむら

[現在地名]南国市前浜まえのはま

香長かちよう平野の南東部に位置し、香美郡に属した。北は上田かみた村、東は下島しもじま村、南は前浜村、西は長岡郡里蚊居田さとかいだ村と接する肥沃な平坦地である。「土佐州郡志」は当村を前浜村に含めて記す。

当地域は「和名抄」記載の田村たむら郷に含まれたと考えられ、応永三年(一三九六)の田村下庄沙汰人連署証状案(蠧簡集拾遺)や天正一六年(一五八八)の下田村庄地検帳から条里の遺構を確認できる。

下田村
しもだむら

[現在地名]勝山町松田まつだ

上野うえの村の南西、飛松とびまつ村の西に位置する。障子しようじヶ岳の南東麓の末端部に集落が形成されている。南は菩提ぼだい村。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高一二五石余、家数二〇・人数一九(うち百姓三)、牛三・馬一。郷村高帳では高一二八石余、うち新田高三石余。旧高旧領取調帳では高一二七石余。明治三年(一八七〇)の人別改帳(竹内家保管文書)によると家数一五・人数六五。村内に菩提院四九院の一つと伝える三会寺があったが、戦国期以降荒廃。正徳元年(一七一一)仲津なかつ今井いまい(現行橋市)浄喜じようき(現真宗大谷派)弟子の恭海が本堂・庫裏を再建。

下田村
しもだむら

[現在地名]相生市矢野町下田やのちようしもだ

寺田てらだ村の北東、矢野川中流域に位置する。霜田とも記された。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(東寺百合文書)に「シモ田屋敷」「シモ田宮前」等の地名がみえる。同年一二月一四日の例名東方地頭分下地中分分帳案(同文書)では霜田として「サルハサミ・ヲトカセ」「モヽノ本」「住内小大僻前」「小大僻修理田」などの注記をもち田二町二反余・畠一町余・荒田五反余が書上げられ、地頭方に属した。

下田村
しもだむら

[現在地名]甲西町下田・高松町たかまつちよう西峰町にしみねちよう日枝町ひえちよう若竹町わかたけちよう

岩根いわね村の北方丘陵中に位置し、北は蒲生がもう郡。南北に八幡町(現近江八幡市)に至る道が通る。所伝によれば岩根より開拓の手が入れられ、善水ぜんすい寺領であったという。寛永石高帳では下総古河藩領、元禄郷帳では水口藩領。寛永石高帳では高二〇四石余、慶安二年書上による内訳は田一七七石余・畑屋敷二二石余・永荒四石余。天保郷帳では高七五三石余と増加。助郷は水口みなくち宿(現水口町)に出役した。立地上米作以外の諸職の成立が早くからみられ、下田焼は宝暦年間(一七五一―六四)の創業、また下田笠と称する竹皮笠は延享年間(一七四四―四八)より広まったと伝える。

下田村
しもだむら

[現在地名]勝山町月田つきだ

月田川と新庄しんじよう川の合流点の狭い河岸段丘上の村。周辺はすべて三〇〇―四〇〇メートル級の山で、月田川に沿って東城とうじよう往来が通る。北・西は荒田あらた村、南は三堂坂みどうさか村、東は山を隔てて杉山すぎやま(現落合町)。中世末期、広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)の御師の檀那場で、天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳(肥塚家文書)に「しもた村一ゑん」とある。

下田村
みさだむら

[現在地名]立山町下田

常願寺川右岸、吉峰よしみね段丘下に位置し、岩峅寺いわくらじ道が通る。東側を栃津とちづ(若狭川)が北流する。伝承によると、中世は立山寺(現雄山神社前立社壇)の寺領であったが、のち払下げられ、「み下げ田」の村名になったという。正保郷帳では高二三六石余、田方一五町五反余・畑方二反余。明暦二年(一六五六)の村御印留、寛文一〇年(一六七〇)の村御印ともに草高二四七石、免五ツ二歩、小物成として山役四二匁、享保一三年(一七二八)の検地引高三三石余(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)では打銀高二一五石・定免五ツ二歩。寛永一七年(一六四〇)に開削されたあきしま用水などにより水利に恵まれていた。

下田村
しもだむら

[現在地名]御津町下田

旭川の支流、宇甘うかい川左岸に位置し、東は金川かながわ村、西は宇甘上うかいかみ村の枝村中泉なかいずみ下畑しもはたと接する。寛永備前国絵図に高二一〇石余とある。「備陽記」では田畑一三町八反余、家数六〇・人数三九〇。文化年間(一八〇四―一八)の「岡山藩領手鑑」によれば、田高一九一石余・一〇町五反余、畑高三二石余・四町三反余。直高三八六石余で、家老日置元八郎の給地。家数五八・人数二三八、牛六、給人林八町・同藪二反余、用水樋七、井関二、百姓自林一町五反余、猟師鉄砲二。

日蓮宗妙伝(典)寺があったが、寛文六年(一六六六)に住僧が還俗して廃寺となり(「寛文年中亡所仕古寺跡書上帳」池田家文庫)、また寛文年中に村内の六社を宇甘上村の枝村下畑の寄宮へ合祀した(「御領内寄宮記」同文庫)

下田村
しもだむら

[現在地名]若葉区下田町

大井戸おおいど村の北にある。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、高六二〇石、谷当やとう村とともに一一町の道普請を負担。寛永二年(一六二五)知行宛行状にみえる「千葉郡下田釜神之郷」は当地と考えられ、郷内三二九石余が旗本間宮領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三四七石余で、佐倉藩領。幕末も同藩領。嘉永三年(一八五〇)の千葉筋成箇取付帳によると佐倉藩領として同二年から三ヵ年定免で反取法、田一八町八反余・畑八町六反余、寛保二年(一七四二)に新田畑七石余が高入れされた。

下田村
しもだむら

[現在地名]河浦町河浦

壱町田いつちようだ村の南に位置する。もと壱町田村内であったが、「天草近代年譜」に正保二年(一六四五)「壱町田村を分割して、下田村を置く」とある。正保郷帳に村名がみえ、高四一七石三斗余とある。壱町田組に属し、庄屋は園田家。元禄国絵図に「壱町田村之枝郷下田村」と記され、高二〇八石余。「国志草稿」に竈数四五・男女数二八五とあり、文政(一八一八―三〇)頃には高二七三石四斗余(うち新田畑六四石六斗余)、家数九一・人数五二八となった。氏神は天満宮(島鏡)。慶応四年(一八六八)の天草郡村々手鑑によると田三三町八畝余・畑一三町三反四畝余、牛馬七〇八。

下田村
しもだむら

[現在地名]東栄町下田

大千瀬おおちせ川左岸、本郷ほんごうの東にあたる。川沿いに秋葉あきは街道が通る。村内の下田上屋敷しもだかみやしきは、振草ふりくさ伊藤氏本家の屋敷跡という。「熊谷家伝記」に下田の名主伊藤太郎九郎なる者が、弘治三年(一五五七)甲斐武田氏の家臣の女を妻としたという。曹洞宗長養ちようよう院の天文一一年(一五四二)の鐘銘に「願主藤原代伊藤左京亮貞久振草七郷 施主等大工北金屋太郎左衛門 金久檀那藤原朝臣菅沼左馬允元貞」とあり、別所城主伊藤貞久の名がみえる。

田村
しもひえだむら

[現在地名]行橋市下稗田

前田まえだ村の南西に位置し、南西は上稗田村。中央部を長峡ながお川が東流し、川の南東部が平野部。井尻いじり川が東端を流れる。上稗田とともに中世の稗田庄の遺称地。もとは稗田村一村であったが、江戸時代初期には上・下二村に分立。一八世紀後半には当村から前田村が分村したという(京都郡誌)。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高一千二六四石余、家数六二・人数一二八(うち百姓一二・名子六・鍛冶一・大工一)、牛一五・馬四。郷村高帳では高一千三八四石余、うち新田高一四二石余。旧高旧領取調帳では高八七一石余。

下田村
しもだむら

[現在地名]日野市下田など

万願寺まんがんじ村の東にあり、同村の飛地が混在している。建治元年(一二七五)五月の六条八幡宮造営注文(国立歴史民俗博物館蔵)に、鎌倉幕府御家人で造営銭が割当てられた田村馬允がみえるが、当地の日奉一族と思われる。天文(一五三二―五五)頃に原図が作られたとみられる高幡高麗一族屋敷・下地等絵図(史籍雑纂)には、あさ川北岸で「新井之屋敷」の西、別府べつぷ宮の東に「田村」とある。寛永一四年(一六三七)検地があった(風土記稿)。田園簿に下田村とみえ、田方一二五石余・畑方一九石余、幕府領。

下田村
しもだむら

[現在地名]広神村下田・宮沢新田みやざわしんでん

北はかねさわ村、南は長堀ながほり新田。慶長一四年(一六〇九)の検地帳(宮家文書)には「広瀬下条内下田村・上下田村」と記す。下田村は田一町二反余・畠一町二反余、名請人九人のうち屋敷持二人、上田は地字道はたにある。上下田村は田七反余・畠四反余、名請人八人。正保国絵図に村名がみえ、高三八石余。天和三年(一六八三)の検地帳写(関矢道太郎氏蔵)では田五町七反余・畑二町九反余、青苧畑三反余、漆木六本。

田村
しもよもぎだむら

[現在地名]平田村下蓬田

阿武隈高地の蓬田岳(九五二・二メートル)南麓、北須きたす川の北岸に位置し、東は上蓬田村・蓬田新田村、南は西山にしやま村など。中世から近世中頃までは蓬田あるいは蓬田村に含まれ、享保二年(一七一七)の白河藩領分高免付(二瓶家文書)に上蓬田村の村名とともに下蓬田村六〇三石余とあることから、同年以前に蓬田村が分村したものとみられる。

下田村
しもたむら

[現在地名]鹿児島市下田町

坂元さかもと村の北に位置し、中央を稲荷いなり木川)が流れる。北は川上かわかみ村、東は吉野よしの村。正平一三年(一三五八)七月一日の島津氏久安堵状(山田文書)に鹿児島郡内「上伊敷・下田両村」とあり、島津氏久が山田諸三郎忠経に両村の地頭得分の三分二を安堵している。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高二八二石余。

下田村
しもだむら

[現在地名]七宝町下田

東は安松やすまつ村、西は蟹江かにえ川を隔てて莪原ばいばら(現津島市)に接する。「徇行記」によれば、概高一千一一七石余、うち八七一石余は藩士一九人の給知で、田は五八町九反二畝余、畑は五町八畝余。「寛文覚書」に戸数五三、人数三一一とある。村柄を「徇行記」は「田畝不足シ川部村・秋竹村辺ヲ耕耘ス、他村ヘ越高ナシ、村立アシク小百姓ハカリ也、十ケ年目ホトツヽニ地割ヲナス」と記す。

下田村
しもだむら

[現在地名]砥用町三加さんが 下田

田中たなか村の北、天神てんじん川の上流域の小村。北は名越谷なごしたに村、西は打越うちこし峠を境に上益城郡東寒野ひがしさまの(現甲佐町)がある。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一五五石一斗余、うち田方六五石二斗余・畠方八九石九斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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