甲西町(読み)こうさいまち

日本歴史地名大系 「甲西町」の解説

甲西町
こうさいまち

面積:一六・三〇平方キロ

郡の東部南端、甲府盆地南西端に位置し、北は櫛形くしがた町・若草わかくさ町、東は釜無川を境に田富たとみ町、南東は同川および笛吹川を挟んで西八代郡市川大門いちかわだいもん町、南は南巨摩郡増穂ますほ町。釜無・笛吹の二川が町域南端で合流し、その合流点に町内を南流してきた滝沢たきざわ川とつぼ(市之瀬川)が流入する。おもな交通路はほぼ中央部を南北に走る国道五二号(旧駿信往還)。弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が大師だいし古市場ふるいちば一帯に点在、代表的なものに大師東丹保だいしひがしたんぼ遺跡・住吉すみよし遺跡がある。

律令時代の当町域は巨麻こま郡に属し、「和名抄」にみえる大井おおい郷の中心部があったと考えられる。また下宮地の神部しもみやじのかんべ神社は延喜式内社と伝える古社である。一二世紀初めには成立している大井庄は摂関家領だったと推定されるが、在地領主は不明。「今昔物語集」などに登場する平安時代の甲斐の相撲人大井光遠は当地の出身者といわれるが、そうだとすれば、大井庄の開発領主の一族とみることができよう。平安時代末期、甲斐源氏は国中くになか各地に分拠するが、西郡を制したのは加賀美遠光で、子太郎光朝を当地秋山あきやまに配し、東部の奈胡なご庄には弟十郎義行が入っている。西郡の甲斐源氏は都とのつながりが深く、遠光が宮中に出仕したとの伝承があるほか、秋山光朝・小笠原長清兄弟は平知盛に仕え、奈胡義行も八条院蔵人を勤めるなど在京経験をもつ。そのためか平家討伐の挙兵の際には慎重だったとみられるが、平家に味方したとして討たれた光朝を除き、源頼朝の信任を得て引続き西郡を支配した。

甲西町
こうせいちよう

面積:五七・一六平方キロ

郡の北西部に位置し、東は水口みなくち町、西は石部いしべ町、南は信楽町、北は蒲生がもう竜王りゆうおう町・野洲やす野洲町。町北方は丘陵が広がり、南は信楽山地に連なる。一帯は花崗岩爛地で、近代以前は禿山が多かった。中央を南東から北西へ野洲川(横田川)が流れ、同川によって形成された沖積地上に集落や水田が所在。野洲川にはおもい川をはじめ中小河川が多数流れ込み、一部は風化した土砂の流入によって天井川となっている。野洲川両岸の丘陵中に後期古墳が多数存在する。なかでも三雲みくも園養山おんようざん古墳群は野洲川中流域最大の群集墳である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報