三潴郡(読み)みづまぐん

日本歴史地名大系 「三潴郡」の解説

三潴郡
みづまぐん

面積:五二・一一平方キロ
三潴みづま町・城島じようじま町・大木おおき

県の南西部に位置し、北は久留米市と佐賀県町・同県千代田ちよだ町、西は大川市、東は筑後市、南は柳川市・山門やまと三橋みつはし町。東部に低い洪積台地がかかるが、大部分は筑後川左岸の沖積地帯。やま川・花宗はなむね川などがおおよそ西流し、筑後川に合流する。灌漑および排水のためのクリークが縦横に走り、一帯は全国有数の溝渠地帯となっている。近世の当郡は筑後国の西部にあり、東は御井みい郡・上妻かみつま郡・下妻郡、南は山門郡、北から西にかけては筑後川を挟み肥前国三根郡・神埼かんざき郡・佐賀郡に接し、南西部は有明海に臨んだ。現在の三潴郡三町および大川市、久留米市の西部、柳川市の北西部、筑後市の一部にあたる。三とも記し、「和名抄」東急本は「美无万」の訓を付す。平城宮跡出土木簡(平城宮木簡六)に「□筑後国水(沼カ)郡」とあり、奈良時代には「水沼郡」の表記が知られる。久留米市の道蔵どうぞう遺跡などから出土した墨書土器には「三万」の表記もみられる。弘安四年(一二八一)六月二三日の比丘尼妙性譲状(近藤文書/鎌倉遺文一九)には「ミぬま」、年月日未詳の某売券(同文書/鎌倉遺文二八)には「ミつま」とみえ、両様の読みがなされていたことがうかがえ、永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)には「三妻郡」とある。

〔原始・古代〕

考古遺跡はおもに現三潴郡・大川市・柳川市を対象とする。三潴町から大川市にかけては筑後川に沿って自然堤防が続き、この自然堤防上には三潴町の塚崎東畑つかざきひがしはた遺跡・御廟ごびよう塚、大川市の下林西田げばやしにしだ遺跡、城島町の能保里のほり貝塚、大川市の酒見さけみ貝塚などの弥生時代の貝塚が多数分布し、筑後川の後背湿地を利用した水田耕作と漁労を営んでいた。塚崎東畑遺跡が立地する一帯は高三潴たかみづま遺跡として著名で、出土土器は弥生後期初頭から前葉の標式土器となっている。また一号墓から出土した人骨の右大腿骨には石鏃が、左大腿骨には骨鏃(エイの尾棘)が刺さっており、戦闘を物語る貴重な資料とされる。御廟塚の石棺上からは江戸時代に銅剣二口が発見され、青銅器を所有した集団の存在が知られる。下林西田遺跡からは朝鮮系無文土器が出土し、朝鮮半島との交流がうかがわれる。八女やめ丘陵西端の三潴町玉満たまみつから西牟田にしむたにかけての地区には弥生時代の集落遺跡である西牟田清導寺裏にしむたせいどうじうら遺跡・玉満松木たまみつまつきソノ遺跡がある。玉満松木ソノ遺跡では五世紀中頃の竈を付設した竪穴住居跡が発見され、当地域での初期竈の例として貴重である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報