宇甘上村(読み)うかいかみむら

日本歴史地名大系 「宇甘上村」の解説

宇甘上村
うかいかみむら

[現在地名]御津町宇甘うかい中泉なかいずみ高津たかづ

旭川の支流宇甘川の形成した氾濫原に発達した村で、枝村に下畑しもはた中泉中島なかじま九谷くだにの四ヵ村を有し、東は下田しもだ村・すげ村、西は紙工しとり村に接する。中世の宇甘郷の中心で、吉備津彦神社神事などを書上げた康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」によると「うかい村、すけの村三ケ村、金川村上下」の七社の祭には、一宮から「楽頭ノ社家衆十二人」が奉仕し、七社から「けうの御せん七せん、ちやふくろもち七ゆい」など多くの供物・銭を一宮へ進上している。枝村の下畑・中泉とともに寛永年中(一六二四―四四)頃までは宇甘村とよばれていた(元和三年「宇甘村山堺申上事」海野文書、寛永備前国絵図)。宇喜多氏支配時代には徳倉とくら城主浮田河内守(遠藤又次郎)知行地、慶長五年(一六〇〇)小早川秀秋入部後はその老臣稲葉伯耆守の知行地、池田忠継時代には老臣日置忠俊の知行地であった(宇甘村山堺申上事)。池田忠雄時代には荒尾志摩の知行地であったが、寛永九年池田光政入部後は再び日置忠俊の知行地となり、以後幕末に至るまで日置氏が知行した。

寛永備前国絵図によると、宇甘村は枝村の九谷を合せ高六六七石余。正保郷帳では、宇甘村は宇甘上村と枝村の宇甘中・同下に分れており、枝村の九谷を合せた高は寛永備前国絵図と同じ六六七石余。貞享三年(一六八六)枝村の宇甘中は中泉、宇甘下は下畠(畑)と村名が変わり、この時中島新田中島として宇甘上村の枝村となった(撮要録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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