佐用郡(読み)さようぐん

日本歴史地名大系 「佐用郡」の解説

佐用郡
さようぐん

面積:三〇七・五一平方キロ
上月こうづき町・佐用さよう町・南光なんこう町・三日月みかづき

県の西端に位置し、東は宍粟郡山崎やまさき町と揖保いぼ新宮しんぐう町、南は赤穂郡上郡かみごおり町、北は宍粟郡千種ちくさ町と岡山県英田あいだ東粟倉ひがしあわくら村、西は同郡大原おおはら町・作東さくとう町と同県和家わけ吉永よしなが町に接する。郡の北部を横断している山崎断層を境に、北は中国山地の東端にあたる播但山地、南は吉備きび高原に続く準平原の西播丘陵に立地する。北境の日名倉ひなくら(一〇四七メートル)から南光町船越ふなこし山に至る一帯はひよう山後山那岐山せんうしろやまなぎさん国定公園と音水深林おんずいしんりん県立自然公園に含まれる。山間の開析谷を流れる千種川と支流の佐用川・志文しぶみ川などの流域に小規模な谷底平野を形成している。交通は姫路市と津山市を結ぶJR姫新線が中央部を東西に通り、国道一七九号がJR線にほぼ並走する。その北側を中国自動車道が東西に通ずる。南北方向には国道三七三号が佐用町・上月町を縦貫し、千種川に沿って県道若桜わかさ―南光線が南光町を縦貫する。鳥取県智頭ちず町と上郡町を結ぶ智頭急行が佐用町・上月町を通り平福ひらふく佐用さよ(佐用町)久崎くざき(上月町)の三駅がある。

〔古代〕

和名抄」東急本では「佐与」と訓じ、「延喜式」神名帳でもサヨとある。播磨国西部に位置し、郡域は東に宍粟郡、南は揖保郡赤穂郡、西と北は美作国に囲まれていた。大官大寺跡出土木簡に「讃用郡駅里鉄十連」、藤原宮跡出土木簡に「佐用郡□□里」とみえる。「日本書紀」天智天皇即位前紀条に播磨国司岸田臣麻呂らが「狭夜郡人」の見いだした宝剣を献上したとある。「播磨国風土記」には「讃容郡」とあり、妹の玉津日女命が一夜にして育てた苗をみた伊和大神が「五月夜さよに殖えつるかも」といって国争いをやめて立去ったので、五月夜郡と名付けたと記される。また郡内の鹿庭かにわ(比定地は大撫山)で鉄を産出したことや佐用都比売命が金の鞍を得たことなどが記され、これは鉄の貢納を示す前掲木簡や郡内に分布する踏鞴の存在とかかわるものである。金屋中土居かなやなかどい遺跡(上月町)などでは製鉄遺構が検出されているが、その年代確定も含めた製鉄遺跡の本格的調査は今後の課題とされている。なお古代豪族としては平城京跡出土木簡にみえる播磨直と「播磨国風土記」に記される苫編部の分布が知られる。佐用郡衙は、奈良時代の大型掘立柱建物群や道路の遺構などが発掘された長尾ながお沖田おきた遺跡(佐用町)に比定されている。また古代美作道の中川なかつがわ駅は新宿しんじゆく廃寺(三日月町)付近に比定されている。承徳三年(一〇九九)因幡国司として赴任する平時範は高草駅(現姫路市草上駅か)から「佐余」(佐用)に至って宿した後、美作国の境根さかね(現岡山県西粟倉村)に至っている(「時範記」同年二月一三日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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