南蒲原郡(読み)みなみかんばらぐん

日本歴史地名大系 「南蒲原郡」の解説

南蒲原郡
みなみかんばらぐん

面積:四三六・〇七平方キロ
下田しただ村・さかえ町・中之島なかのしま村・田上たがみ

新潟県のほぼ中央部に位置し、西は信濃川を隔てて、白根しろね市・西蒲原郡三島さんとう郡と、東は新津にいつ村松むらまつ丘陵、栃尾・下田丘陵により五泉市・中蒲原郡村松町と境する。現在の郡域は加茂市・三条市を間に、北の田上町と南側の下田・栄・中之島の二村一町とに分れている。南東部の下田村は越後山脈で福島県と接し、南に延びる栄町・中之島村は見附市・長岡市に限られ、田上町の北は中蒲原郡小須戸こすど町に接する。郡内のほとんどは信濃川による三角洲性の沖積地であるが、東部の丘陵山麓には小複合扇状地がみられる。烏帽子えぼし山・あわヶ岳・守門すもん岳を源とする五十嵐いからし川は下田浸食盆地に河岸段丘を形成し、北西流して三条市に出、信濃川に注ぐ。刈谷田かりやだ川は郡南部を縦断して栄町と中之島村を分つ。この三河川が流入する当郡では、自然堤防などの微高地や後背湿地の発達が著しく、集落の多くは東部丘陵の扇状地や自然堤防に立地する。

〔原始・古代〕

先土器時代の遺跡が五十嵐川の河岸段丘面に集中的に認められる。ことに御淵上みふちがみ中土なかづち藤平ふじだいらの各遺跡(いずれも下田村)はこの時代を代表するものである。縄文時代の遺跡も新津・村松丘陵、栃尾・下田丘陵や五十嵐川流域に高密度で分布する。八木鼻やぎはな岩陰遺跡(下田村)から早・前期の土器片が検出され、次いで中・後期の代表的遺跡とされる吉野屋よしのや遺跡(栄町)が現れる。終末期の長畑ながいばたけ遺跡(栄町)は沖積地の自然堤防上にあることで注目される。弥生時代の遺跡は少ないが、後期の中店なかだな遺跡(田上町)などがある。

「延喜式」神名帳記載の蒲原郡一三座のうち、伊加良志いからし神社を現下田村飯田いいだの五十嵐神社に、土生田はにゆうだ神社を現田上町羽生田はにゆうだの同名社に比定する説もある。なお「和名抄」の蒲原かむはら郡五郷のうち、現郡域に比定される郷はない。

〔中世〕

現下田村一帯には五十嵐保、現栄町東半部および北の三条市から南の見附市にかけての地域には大面おおも庄、栄町・見附市の西部から中之島村にかけては出雲田いずもだ庄があったと考えられるが、平安末期の鳥羽院政期に成立したとみられる大面庄以外は、成立年代なども不明である。また現田上町北部は金津かなづ保、南部は青海おうみ庄に含まれていた。

越後守護家の主導権をめぐって応永の乱が勃発すると、護摩堂ごまどう(現田上町)や大面(現栄町)の要害は守護方の中条氏の一族によって増強されており、山吉氏の三条島さんじようしまノ城(現三条市)が守護代方の最重要拠点となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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