鍛冶屋町(読み)かじやまち

日本歴史地名大系 「鍛冶屋町」の解説

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]明石市鍛冶屋町

明石城下の東の入口であるきよう口御門の内側、城下を東西に貫く山陽道沿いの両側町で、北側の外堀、南側の当津とうづ湊により区切られる。城下町の一番東に位置し西は細工さいく町。京口御門のすぐ西、街道の北側には、城の外堀を背に城下町の商人の自治機関でもあった惣会所があり、南側には湊を背に寺院を配置するなど、戦略地点ともなっていたと考えられている。元和四年(一六一八)の築城とともに成立した明石惣町一〇町の一町(明石名勝古事談)。当初「朝部之ヤ町」(明石記)と記載されている。享保六年(一七二一)改によれば役門三八間六歩、家数一一〇(本家五一・借家五九)、建家表地口二二三間、人数四七四。

鍛冶屋町
かじやちよう

中京区錦小路通御幸町西入

東西に通る錦小路にしきこうじ通を挟む両側町。町の東は御幸町ごこまち通、西は麩屋町ふやちよう通。

平安京の条坊では、町の北側は左京四条四坊三保一四町南側、同南側は同三保一三町北側の地。

「後鏡」永享四年(一四三二)一一月八日条に「永享年中文書載」として、

<資料は省略されています>

とある。これは座頭の城存検校に錦小路富小路の宅地を渡すことを、地方頭人である摂津掃部頭満親が単独で侍所頭人一色義貫に、将軍の命として伝えたことを示す。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「鍛冶屋丁」とあるが、寛文末洛中洛外大図では「やおや町」となっている。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]八幡町鍛冶屋町

小駄良こだら川東岸にあり、東は殿との町、通り続きで南はほん町、北は職人しよくにん町。承応元年(一六五二)よこ町を火元とする火事で全焼した(「荘厳講記録」長滝寺蔵)。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図に「カジヤ町」とみえ、原茂十郎と村瀬次郎右衛門屋敷のみ記入されほかは省略されている。同四年の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)には新足軽として当町の渡辺吉助・田口七兵衛、新中間として万四郎・十三郎・善助・六蔵、余分新中間として次郎助などがみられる。

鍛冶屋町
かじやちよう

下京区堺町通松原下ル

南北に通る堺町さかいまち通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京六条四坊一保八町の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「かじ屋町」とみえるが、寛文末洛中洛外大図には「下鍛冶屋町」と記される。「坊目誌」には「宝暦年中二町に分れ、北を上鍛冶町とし、南を下鍛冶町とす。明治二年二月合して一町に復す」とある。「京羽二重(貞享二年刊)には、堺町通「まつばら下る」に居住の職商人として、「針かね屋」が掲げられるほか、「鍛冶所」として剃刀小刀はさみを作る有次・有信の二名が記される。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]大分市中央町ちゆうおうまち二丁目

城下南西隅にある光西こうさい寺の北側に位置する。東は西上市にしかみいち町に続き、北は南北に延びる清忠寺せいちゆうじ町、北から西は城下西側の外堀に沿う笠和かさわ町と交わる。慶長府内絵図に町名がみえ、北頬一五間・南頬三〇間、入は一五間。元禄八年(一六九五)の鍛冶役割帳では府内の鍛冶は二〇余軒あったが、享和三年(一八〇三)には当町の四軒を含む一七軒に減少している。同年この一七軒のほか郷中の一一軒を加えて二八の鍛冶株が定められ、当町冨田権兵衛と笠和町の吉郎兵衛が鍛冶頭に任じられた(二巻本「大分市史」)

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]大津市京町きようまち三丁目・中央ちゆうおう三丁目

葭原よしはら町の東に続く京町通の両側町。天正一四年(一五八六)頃の大津築城の際、鉄砲鍛冶が居住していたことから町名があるという(大津市志)。文禄五年(一五九六)一〇月の山上村検地帳写(山上町共有文書)には鍛冶屋町の者が名請人としてみえる。元禄八年町絵図に町名がみえ、家数三九のうち借家七(うち町中借家一)

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]人吉市鍛冶屋町

球磨川北岸の町人町の北端に位置し、南は大工だいく町・紺屋こうや町、北と東はおお村に接し、西は山田やまだ川が流れる。慣例的に鍛治屋町とも記される。明治時代の「熊風土記」によれば、文禄三年(一五九四)諸郷より鍛冶を移住させ計画的に立てられた町。寛政元年(一七八九)の私領御巡見教令(相良家近世文書)によれば、「鍛治屋町弐町三拾三間、但二筋にて道幅三間、但屋敷数六拾六軒」とあり、うち借屋一軒、町別当は吉右衛門であった。

鍛冶屋町
かじやちよう

[現在地名]近江八幡市鍛冶屋町

慈恩寺じおんじ町の北に続く両側町で、一部、博労町ばくろうちよう通の大杉町おおすぎちよう通より北の東側を占める。西は江南えなみ町・玉屋たまや町、北は新左衛門しんざえもん町・大工だいく町・多賀たが村。「輿地志略」にも鍛冶町一町とある。八幡城下形成以前には多賀村地内で、城下成立後も同村のうちとして扱われる場合もあった、いわゆる多賀村六ヵ町の一で(八幡町史)、鍛冶職人の集住地として成立。多賀村には享保年中(一七一六―三六)に八幡鋳物師を名乗る国松氏などがおり、この頃にも当町から同村にかけて鍛冶・鋳物師が集住していたと推定できる(→多賀村

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]彦根市中央町ちゆうおうちよう本町ほんまち一丁目

白壁しらかべ町の北方にある両側町で、町名のとおり鍛冶職人が多く集住した。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数二七のうち借家一一、男八三・女五二(下人三)、鍛冶屋二〇のほかは畳屋一、町代・横目とも鍛冶屋が勤めている。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)では鍛冶屋役一六軒・畳屋役一軒ほか町役家二軒で、諸職人国役負担日数は家持の場合は三〇日、借家は一五日となっている。享和―文化期(一八〇一―一八)の公儀見分朝鮮人案内(同書)によれば町の長さ六九間で、家数二七・竈数三四、人数一二九。

鍛冶屋町
かじやちよう

[現在地名]中区本川ほんかわ町一丁目・猫屋ねこや町・さかい町一丁目

雲石路沿いの猫屋町から、東に折れた筋にある油屋あぶらや町の東に続く町で、その東寄りを北に折れた縦筋も町域に含まれる。東詰はほん(太田川)、東詰手前を南に折れると塚本つかもと町である。「知新集」に「往古より鍛冶屋多住けるゆゑ名つく」とある。広瀬組に属した。

元和五年広島城下絵図では油屋町の筋の一本北側の筋東部と、それに交差する縦町に「かぢや町」とあり、町間数一町二〇間を記す。寛永二年広島町数家数改め(済美録)では本家三三軒・借家一三軒。同一四年鍛冶弟子二一人へ「油屋町のうら畠畝三反十二歩屋鋪地に下されけるよし」(同書)にて新鍛冶屋しんかじや町が作られ、「知新集」に「承応の絵図にも鍛冶二十一人ミゆ、同図天和の絵図皆別て両町とす」と記す。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]福山市たから町・いま町・城見しろみ町一丁目

福山城の東に開かれた職能集団の一町。笠岡かさおか町―えびす町の並ぶ本通ほんどおりの一筋西の通りの南部を占める両側町。東は笠岡町・今町、西は深津ふかつ町・桶屋おけや町、南は下魚屋しもうおや町に続く。

「備陽六郡志」に「備後藤四郎国吉住居したる家有、正徳・享保の比千貫屋忠左衛門と云者住しけるが鍛冶久兵衛世倅与右衛門に売侍り」とあって、山伏との切合の怪談が載る。「福山志料」は「古刀銘尽に藤四郎国吉近代上作、同国定トモニ福山住トミユ、此所ニ在シヤ」としているが、備後の作刀で元和以後の銘をもつものに「備後福山住人児玉藤四郎国吉作、慶安四年三月吉日」というものがあり、また安永九年(一七八〇)の「備後福山住藤四郎国吉作」という刀があって、藤四郎国吉の名がみられるが、この鍛冶屋町に住んでいたものであろう。

鍛冶屋町
かじやちよう

下京区若宮通正面下ル

南北に通る西洞院にしのとういん(旧西洞院大路)を挟む両側町。南側は北小路きたこうじ(旧北小路)にも面する。

平安京の条坊では、左京七条三坊二保三町西側と七条二坊三保一四町東側の地。平安時代中期、当町西側は宇多上皇の御所亭子ていじ院の地(拾芥抄)。文正(一四六六―六七)頃、当町に播磨赤松家の支族赤松有馬上総介元家の邸宅があったが、応仁・文明の乱で荒廃したという(坊目誌)

近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち鍛冶組に所属。地子屋敷町。寛永一四年(一六三七)洛中絵図、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図には、「西洞院三丁目」とあるが、寛文五年(一六六五)刊「京雀」には、既に現町名の「かぢや町」の名がみえる。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]柳川市鍛冶屋町

西魚屋にしうおや町通の西に並行する南北の通りに沿った両側町。町人地。同町との間には寺町があり、南は堀を挟んで天叟てんそう寺に面する。通りの中ほどより西に延びる道があり、ここを鬼童口おんどうぐちとも(柳河明証図会)、鬼童町ともいう(寛政三年町小路絵図)。立花宗茂が刀鍛冶下坂兼先を召抱えて当地に住まわせ、鍛冶職を集めたのが当町の由来という(旧柳川藩志)。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば竈数は東側二七・西側二八の計五五。道幅は二間、長さは東側一〇八間・西側一一〇間余。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]洲本市本町ほんまち五―六丁目

五丁目ごちようめ六丁目ろくちようめの北に並行する東西の通り。山下さんか一八町の一で、そと町のうち。東端は堀端ほりばた筋、西方はしん町へ続く。東半は町の長さは北側三六間半・南側三七間半、幅一間半。小路を挟んだ西半は長さ五九間、幅二間(味地草)。町東部に国中の鍛冶職棟梁山本氏の屋敷があり、鋳物・鍛冶の工房が屋敷北側にあった(山本家文書)

鍛冶屋町
かじやちよう

[現在地名]長浜市元浜町もとはまちよう

中魚屋なかうおや町・東魚屋町の北にあり、その町境をなす南北通りの両側町。北の東西通りは中北なかきた町・東北町。朱印地。慶安四年(一六五一)の検地帳(川崎文書)に屋敷地二六があげられる。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数一八、男三七・女三九で、町代・横目が置かれ、大工二・蚊帳屋・絹屋・鍛冶屋がいた。享保一五年(一七三〇)の長浜人数留(今村文書)によれば家数二三、男三三・女三三。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]熊本市鍛冶屋町・上鍛冶屋町

中唐人なかとうじん町の東に続く通りの町人町。東は古川ふるかわ町筋に続く。町名は加藤清正が鍛冶職人を住まわせたことに由来すると伝えられる。俗に東唐人ひがしとうじん町とよばれる。享和元年(一八〇一)成立の御府中小路町々産物附(県立図書館蔵)によれば、鍛冶屋町に商品名として「鋸・錐・鉋・鑿・小刀・包丁・鉈・鎌・斧、釿・鐇・曲尺・鉄槌・鉄釘等、古手着脱・縞木綿類」があげられ、鍛冶屋が集まり住んでいた。「番太日記」に「古かちや町松屋達磨殿のたつハたゝみにつもり八畳敷程有(中略)松屋殿私の儀ハ御用達ニ御座候と申上られたれハ、御役人様しからバ手のだるまであけらるへしと被仰候といふ話あり」と記される。

鍛冶屋町
かじやちよう

[現在地名]兵庫区鍛冶屋町一―二丁目・七宮町しちのみやちよう一―二丁目・本町ほんまち一丁目

松屋まつや町の北に接する北浜の町。兵庫北関入船納帳に「かちや辻子」がみえ、船頭に助三郎・五郎三郎がいた。慶長七年(一六〇二)の兵庫屋地子帳(兵庫岡方文書)に町名がみえ、屋敷地五二筆。町の東は海に面して石垣で護岸されていた(元禄九年「兵庫津絵図」井家蔵)。廻船を所有し諸問屋として活躍した北風家があった。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]平戸市職人町しよくにんちよう 鍛冶屋町

平戸城の南西、平戸城下の南端に位置する。西は桶屋おけや町。南北の町並を形成する。職人町五ヵ町の一つで、町名は鍛冶屋の集住に由来する。元禄一〇年(一六九七)当時の諸商職は平鍛冶一四・家大工一・主持大工一・桶屋一・左官一(借屋)のほか、諸色振売小商人二・刻み煙草屋二・御蔵仲仕一があった(町方年鑑次第)。同一六年には懸年寄が谷川甚右衛門、頭料が森田太左衛門であった(「役所手鑑」谷村家文書)。寛政四年(一七九二)平戸六町図によれば、乙名格一(鍛冶屋)、五人組六、家数三四。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]久留米市中央町ちゆうおうまち日吉町ひよしまち

米屋こめや町の南にあり、町並は東西に続き、南は池町いけまち川に沿う。秋山屋吉平の先祖久左衛門が丹波から有馬豊氏に従って久留米に入り、当町に住んで御用鍛冶を勤めたという(旧家由緒書)。寛永二一年(一六四四)真言宗常楽じようらく寺が祇園寺末として建立された(石原家記)。天和三年(一六八三)閏五月水深二尺の水入があった(古代日記書抜)

鍛冶屋町
かじやちよう

[現在地名]堺市おおひがし四丁

南上之みなみかみの町の東、大道の東七筋目に東面する片側町。元禄二年(一六八九)堺大絵図には「山之上鍛冶屋町」とみえ、単に山之上やまのうえ町ともいった。同絵図によると二二筆の宅地からなり、間口二間の均等割がよく残り、町会所は中央部に位置。二二筆のうち一三筆までが「鍛冶屋」を名乗り、うち三筆は「鉢鍛冶屋」と称している。

鍛冶屋町
かじやちよう

中京区六角通猪熊西入

東西に通る六角ろつかく(旧六角小路)を挟む両側町。町の中央を南北に黒門くろもん(新シ町通)が通る。

平安京の条坊では、町の北側は左京四条二坊一保一町南、南側は左京四条二坊一保二町北。平安中期以降は六角大宮大路の東にあたる。

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付の酒屋交名(北野天満宮史料)に「三位 六角大宮東北頬 明三」とある。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「かじや町」とあり、寛永一八年以前の平安城町並図に「梶町」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「梶や町」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「丸木や町」、元禄九年(一六九六)京大絵図に「まるや丁」とあり、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「鍛冶屋町」とある。

鍛冶屋町
かじやちよう

[現在地名]岐阜市本町ほんまち

釜石かまいし町の西に位置する東西に延びる両側町。西はくるまん町に至り、町西端付近を北に折れると下新しもしん町に通じる。岐阜町四四町の一で、町名は織田信長による岐阜城下建設のとき、尾張国清須きよす(現愛知県西春日井郡清洲町)の鍛冶職人が当地に居住したことによるという。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]高砂市高砂町鍛冶屋町

高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、細工さいく町の北の筋、北本きたほん町から西へ西堀にしほり川まで東西に連なる町並。安永二年(一七七三)の棟数四四・竈数五九・店借三四、人数二三八、うち田地持五(「高砂町方明細帳写」船津家文書)

鍛冶屋町
かじやちよう

[現在地名]松山市高砂町たかさごまち一丁目・木屋きや町一丁目

松山城下町の北部に位置し、北紺屋きたこんや町・しん町と平行する東西の町筋。東は道後どうご町、西は木屋町、南は新町、北は北紺屋町に接する。町名の初見は、元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「古町分三拾町」のなかにある。

鍛冶屋町
かじやまち

[現在地名]福江市大荒町おおあらちよう 職人町しよくにんまち

福江城の北西に位置する。職人町のうち。明和四年(一七六七)五月唐人とうじん町・鍛冶屋町で疱瘡が発生、市中から大浜おおはま村などの村方に広がり、一〇月末に終息したが、桶屋利八が不埒によってもたらした病として久賀ひさか島に流罪となった(増補継志系図)

鍛冶屋町
かじやちよう

中京区富小路通夷川下ル

南北に通る富小路とみのこうじ通の両側町で、北は夷川えびすがわ通。平安京の条坊では左京二条四坊三保一二町東側、平安中期以降は冷泉富小路の西南にあたる。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「鍛冶屋町」とあり、以降変化はない。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「西側大石何某より八月一八日御霊神事に鉾出す」とあり、下御霊神社の祭礼に鉾を出す家があった。

鍛冶屋町
かじやちよう

[現在地名]伊丹市伊丹一―二丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。中之なかの町の東側に位置する。文禄伊丹之図には人家は描かれておらず、慶安―寛文期(一六四八―七三)に町名ができたと記載し、寛文九年の伊丹郷町絵図には鍛冶屋町がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報