明石城下(読み)あかしじようか

日本歴史地名大系 「明石城下」の解説

明石城下
あかしじようか

明石川河口に近い東岸の洪積台地(通称人丸山)上に築かれた明石城を扇の要とし、その南方に広がる明石海峡に至る東西約一二〇〇メートル・南北約七〇〇メートルの地域に開かれた城下町

〔城下町の成立と発展〕

元和三年(一六一七)明石に入部して船上ふなげ城を居所としていた小笠原忠真は、同四年将軍徳川秀忠より義父姫路藩主本多忠政とともに新城築城を命じられ、同五年早くも竣工している。城下町の建設は築城や郭内の家臣団の武家屋敷建設と並行して行われ、城が築かれた洪積台地の麓に広がっていた大明石おおあかし村・中庄なかのしよう村を中心に、大蔵谷おおくらだに村の一部を取込んで計画された。新城建設以前台地の麓を山陽道が東西に横断していたが、この街道を南に移して、城下の中心部に付替えるとともに、城下の東西の入口にそれぞれ大木戸と番所を配置しきよう口御門・姫路口御門とよんだ。また有事に備えて京口御門の近くには浜光明はまこうみよう寺・朝顔あさがお光明寺、姫路口御門の近くには善楽ぜんらく寺・無量光むりようこう寺などが置かれ、城下町建設と並行して進められた明石湊および海岸線の防備としては、竜谷りゆうこく寺・本立ほんりゆう寺・本誓ほんせい寺・長林ちようりん寺・岩屋いわや神社など神社仏閣が配置されている。町割図は宮本武蔵が行ったとの伝説もある。町の区画は町並裏行一六間を基準にして作られたといわれ、商人の集住策として地子の免除が行われるとともに、明石川の西岸河口近くにあった船上城の城下町の商人たちの移住も積極的に行われ、町の体裁も徐徐に整えられていった。

天和四年(一六八四)頃までに成立していた城下の町としては、山陽道沿いに東側から鍛冶屋かじや町・細工さいく町・東本ひがしほん町・西本町信濃しなの(のち中町)東魚ひがしうお町・西魚町材木ざいもく町・東樽屋ひがしたるや町・西樽屋町の一〇町があり、その後町の発展とともに明石湊周辺から海岸近くにえびす町・ふな町・新浜しんはま、そして城下町外側の京口御門前に東新ひがししん町が、明石川を挟んで姫路口御門の対岸、街道沿いに西新町が新たに形成されてそれぞれ町方に編入され、明石惣町とよばれた一五町が成立している(以上「明石記」「明石名勝古事談」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報