柳川城下(読み)やながわじようか

日本歴史地名大系 「柳川城下」の解説

柳川城下
やながわじようか

沖端おきのはた川下流に柳川城を中核として形成された城下。一部を除き沖端川左岸に位置する。

〔城下の形成〕

 戦国期に蒲池氏が柳川城に在城していた頃も町場が存在していたと考えられるが、本格的な城下町の形成は天正一五年(一五八七)立花統虎(のち宗茂)が柳川を城地に定めて以降であろう。しかし慶長五年(一六〇〇)一一月の宗茂改易とともにいったん頓挫した。宗茂改易後筑後一国を与えられて柳川に入部した田中吉政は柳川城に大規模な修築を加え、併せて城下の整備も進んだものと考えられる。元和六年(一六二〇)田中氏が無嗣断絶により改易されると、立花宗茂が一〇万石余を与えられて柳川に再入部し、以後柳川藩立花氏の城下として幕末に至った。田中氏時代に城内にあった寺社が郭外に移されていること、元来瀬高せたか町東端にあった瀬高門が南方に移され、しん町・細工さいく町などを町立てしたとされていることなどから、宗茂再封後に城下の再編成が行われたものと推定される。これにより城下は南東山門やまと藤吉ふじよし(現三橋町)方面へ拡張され、さらにその後の出来でき町の町立て、鬼童おんどう小路の設定などにより、南東の同郡江曲えまがり(現三橋町)、西の同郡鬼童村方面へと広げられた。

〔城下の構成〕

 柳川城下は大きく三つの区画に分れる。まず柳川城(本丸・二の丸・三の丸)を中心として外堀(城堀)で囲まれたほぼ正方形区域が、御家中ごかちゆう(城内)と称される武家集住地で、その基本単位は小路である。元禄五年(一六九二)の御領中諸事覚書によれば惣曲輪の規模は北面五一九間・東面六二四間・南面五三七間・西面四三五間、本丸まで含めて東方・北方は四重、南方・西方は三重に堀が巡らされていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報