府内城下(読み)ふないじようか

日本歴史地名大系 「府内城下」の解説

府内城下
ふないじようか

別府湾に注ぐ大分川の河口西側に位置した府内城を中心に、西から南、南東にかけてほぼ鉤形に広がる別府湾南岸の江戸時代の城下町。明暦二年(一六五六)までは竹中氏・日根野氏、その後二年間の幕府領(城番)時代を経て、譜代松平(大給)府内藩の城下町として豊後一の繁栄を誇った。

〔町の建設と構成〕

慶長六年(一六〇一)三月、二万石を領して府内城に入城した竹中重利徳川家康の許可を得て城郭の増築に着手、同七年完成した。続いて新城下の建設に取りかかった。城塁の外側に東西一〇町・南北九町、中を碁盤目状に四〇余町に区画した町が造られ、府中から町屋や光西こうさい寺・常妙じようみよう寺・善巧ぜんぎよう寺・本光ほんこう寺が移された。町名も府中時代の町名を使わせたものもあると伝える。えびす町から万屋よろずや町にかけて屋敷を構えた守田山弥之助の祖先、鍛冶屋かじや町の四ッ目鍛冶冨田家、さくら町の豪商橋本屋などもこの頃府内に移住したという。同一〇年町屋を囲んで外堀を掘り、同一二年城下への出入口の笠和かさわ口・堀川ほりかわ(勢家口)塩九升しよくじよう(米屋町口)に門(三口御門)を築造した。水陸の交通網の整備にも着手し、同一三年には船の便をはかるため城の北西に堀江を開いて堀川と名付け、入口に港を設け京泊きようどまりと称した。また城下の南西方に堀切ほりきり峠を開削し、笠和口から出て玖珠くす・日田へ向かう幹線道の府内・日田往還を通した。文久元年(一八六一)の府内城下絵図(県立大分図書館蔵)では「肥後・筑後・肥前エノ大道」と記される。笠和口門外の西側外堀沿いには門外町の西新にしじん町が成立する(以上「雉城雑誌」「大分市史」)。慶長豊後国絵図に府内町とみえ、高一千九〇一石余。

慶長府内絵図によって城下を概観すると、府内城三の丸(侍町)を囲む中堀の外側に城下町があり、その外周は西から南にかけて外堀で区画される。三の丸とは南東角にある東口、北西角の北口、南西の西口にそれぞれ架かる土橋で結ばれる。城下町南東部の塩九升口から船入(外堀)を東に渡ると門外町の塩九升町があり、南進して東新町に向かう道は日向道(臼杵・府内城路)となって南に延びる。文久元年の府内城下絵図では「日向薩摩エノ大道」と記す。道の右手に萬寿まんじゆ寺・来迎らいこう寺、左に大智だいち寺などが描かれる。塩九升町北端からは伊予街道が東に延びる。城下の北西部には船入(京泊)があり、入口に船奉行屋敷が描かれる。船入の西にあたる城下北西角からは堀川口を出た豊前道が住吉すみよし川に架かる仙石せんごく橋を渡り、沖浜おきのはま町・勢家せいけ町へと続く。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報