伊丹郷町(読み)いたみごうちよう

日本歴史地名大系 「伊丹郷町」の解説

伊丹郷町
いたみごうちよう

猪名いな川に向け舌状にせり出した伊丹台地の先端で、一段高い段丘上にある。北端にある鎮守の牛頭天王社(現猪名野神社)から南の鵯塚ひよどりづか砦跡まで南北一・七キロ、東西〇・八キロ。大坂と有馬ありま(現神戸市北区)を結ぶ大坂道に沿う。初め伊丹町(慶長国絵図・正保郷帳)伊丹村(「徳川家綱判物」「徳川綱吉判物」「徳川吉宗判物」内閣文庫蔵)とよび、別名有岡ありおか(有岡庄年代秘記)在岡ありおか豊桜とよさくら(有岡古続語)ともよんだ。二七ヵ町に分れる伊丹町(村)を中心に、大広寺だいこうじ北少路きたしようじ昆陽口こやぐち北中少路きたなかしようじ・南中少路・円正寺えんしようじ外城とじよう高畑たかはた新野田しんのだ古野田ふるのだ植松うえまつ下市場しもいちば上外崎かみとざき・外崎の一五ヵ(町)村が一続きになっていた在郷町。伊丹町(村)と区別して伊丹郷(文禄伊丹之図)・伊丹(天保九年「巡見使通行用留」岡本家文書)ともよんだ。

〔町勢〕

伊丹氏の居城を改め荒木村重が整備した有岡城は城郭を町屋が囲む惣構の城で、天正期(一五七三―九二)に寺が移転・創建されるなど抜本的に改造された。郷町一五ヵ村のうち下市場村は、元禄国絵図・天保国絵図(内閣文庫蔵)では郷町の外とし、元禄国絵図では大広寺村はなく、外崎村と上外崎村や古・新の野田村をそれぞれ一村として一一ヵ村、天保国絵図は大広寺村が増え一二ヵ村。当初は町内に空地も多く、畠地として利用されていた(延宝五年「地味委細絵図」伊丹市立博物館蔵)。一七世紀後半に第二の発展期を迎え享保年間(一七一六―三六)まで伊丹町(村)内の町数が増え続けた。文禄三年(一五九四)片桐且元によって検地が行われたが石高は未詳(文禄伊丹之図)。当初郷町は村切されておらず、慶長国絵図では高一千八九四石余、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳は高一千八九〇石余。正保郷帳では伊丹町の左脇に枝郷として下市場村を記し、高一千八九〇石余とほかに新田高二九石余。延宝七年(一六七九)永井市正によって検地が行われ(有岡庄年代秘記)、天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳は高一千九二〇石余、天保九年(一八三八)の前掲巡見使通行用留では高一千九三五石余。明治七年(一八七四)伊丹町二七町と一二村が合併して伊丹町となる。

〔酒造業〕

領主近衛家の保護を受けて栄えた伊丹郷町の酒「丹醸」は江戸積み銘酒として知られ、井原西鶴の「織留」「日本永代蔵」などに取上げられた。また「日本山海名産名物図会」には醸造工程が図入りで紹介された。幕府は寒造りへの一元化を目指し、江戸前期から再三寒造り以前に造る新酒を禁止したが、伊丹郷町では新酒醸造は後期まで残った(「酒永代覚帳」小西家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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