立石村(読み)たていしむら

日本歴史地名大系 「立石村」の解説

立石村
たていしむら

[現在地名]勝本町 立石東触たていしひがしふれ立石仲触たていしなかふれ立石西触たていしにしふれ立石南触たていしみなみふれ上場触うわばふれ百合畑触ゆりはたふれ湯本浦ゆのもとうら

布気ふけ村の南に位置し、北西に湯本湾の深い入江がある。南触に寛仁三年(一〇一九)三月の刀伊の入寇の古戦場跡があり、三度にわたる女真族の攻撃で約一五〇人が殺され、約二四〇人の女が拉致されたという。古戦場の辻に残る石積みの塚はその折に殺害された壱岐国司の藤原理忠の墓という。刈田院かりたいん片長江かたなえとも記され、新羅・百済・高麗や唐の商船が往来し、日本諸国の客船が入津する江で、千軒の民居があったという(壱岐名勝図誌)。そこに住む長者王子五郎が七駄半の黄金をたか(現郷ノ浦町長峰)に埋めたという伝承があるほか、唐人神とうじんがみ・唐寺(覚音寺)唐船とうせん唐人馬場とうじんばばの地名やカラカミ遺跡などは大陸・半島との交流を示すものとされる。南触の曹洞宗観世音寺に至元四年(一二六七)銘の双竜文鏡がある。立石の事坂ことのさか山に鎮座する山ノ神(石神とも、現阿多弥神社)を「延喜式」神名帳に記される壱岐郡一二座の一つ「阿多弥アタミノ神社」に比定する説があり(「一宮巡詣記」「壱岐神社誌」など)、社地の南にアタミ畑という地名があるという。立石仲触の鯨伏いそうしは、近世の鯨伏いさふし(現芦辺町)とともに「和名抄」に記される壱岐郡鯨伏いさふし郷の遺称地とされ、また南北朝期にみえる伊佐布志いさふし郷も関連するものと考えられる。

立石村
たていしむら

[現在地名]別府市南立石 南立石一区みなみたていしいつく南立石二区みなみたていしにく南立石生目町みなみたていしいくめまち南立石板地町みなみたていしいたちまち観海寺かんかいじ南立石八幡町みなみたていしやわたまち南立石本町みなみたていしほんまち堀田ほりた南荘園町みなみそうえんちよう

鶴見つるみ岳の東麓、石垣原いしがきばる扇状地と朝見あさみ川の断層崖上に立地し、東は別府村。

〔中世〕

朝見郷に含まれ、永和元年(一三七五)九月二日の足利義満袖判下文(大友文書)によれば、大友親世に勲功の賞として与えられた六ヵ所の所領のうちに「同国朝見郷内立石村 古庄信濃守跡」があり、永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)には「同郷立石村付、鬼丸名」とある。記載の順からいうと同郷は山香やまが郷をさし、記載に混乱がみられる。大友義鑑は天文一〇年(一五四一)頃立石畑で猪狩を行っている(年未詳五月六日「大友義鑑書状」甲斐家文書)。同一九年二階崩れの変に際し、大友義鎮は立石で兵を整え、府内に入り家督を相続した(大友家文書録)。義鎮は立石村下分の五〇貫文の地を父の相続として首藤小四郎に安堵しているが、「上分之事者、追而可申談候」とあり、上分も首藤氏の知行地であったようである(年未詳一二月三日「大友義鎮安堵状」同文書録)。天正年間(一五七三―九二)と推定される六月二三日の首藤吉丞書状(皇学館大学所蔵文書)の包紙上書に「豊後国速見郷立石村 首藤吉丞」とあるのも首藤氏の一族であろう。大神宮御師に対し、祈祷のための御祓大麻と土産を謝している。

立石村
たてしむら

[現在地名]宇佐市立石たていし

やま村の東に位置する。宇佐郡および豊前国の東端にあたり、東は豊後国国東くにさき下来縄しもくなわ(現豊後高田市)、北は同郡犬田いんだ(現同上)、南は速見郡松尾まつお(現山香町)などに接する。村の北部は草場くさば谷と本村ほんむら谷の二つに分れて低地が開け、ほかの三方は山地。山間に当村など五村立会のうおはな池をはじめ荒平あらひら池・合田ごうだ池などの溜池がある。現在、行政上は「たていし」とよぶが、「太宰管内志」には「豊前の立石、豊後の立石とてあるを、豊前なるはタテシと唱へ、豊後なるはタテイシと唱ふる由なり」とあるように、古くは「たてし」とよんでいた。また今も地元ではほとんどの人がタテシとよぶ。永仁五年(一二九七)封戸ふべ郷司田部信房は徳政による同郷内田畠の打渡しを求めたが(同年九月日「田部信房申状」日名子文書)、同申状に何筆かみえる「カヤキリ」という坪名は現在の地内字萱切かやきりのことと思われる。

立石村
たていしむら

[現在地名]葛飾区立石一―四丁目・同六―八丁目・青戸あおと一丁目・同三丁目・東立石ひがしたていし四丁目・奥戸おくど七丁目・高砂たかさご一丁目・四つ木よつぎ一―二丁目・同五丁目

中川右岸に位置し、東対岸は奥戸村、西は梅田うめだ村、南ははら村、北は中原なかはら村。村名は村内熊野社の神体である立石にちなむとも(風土記稿)、立石稲荷にちなむともいう(葛西志)。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「立石 廿一丁 公田一丁三反」とみえ、葛西かさい御厨の内であった。年月日未詳の葛西御厨入部注文写および葛西御厨田数注文写(ともに同書)には「立石 廿一町三段」と記される。田園簿に村名がみえ、田四六九石余・畑一五二石余。元禄郷帳では高五六一石余。もとの村域はかなり広く、川端かわばた・中原・梅田各村は江戸時代初めに、四つ木・篠原しのはら・原・淡野須あわのす各村は元禄年間(一六八八―一七〇四)までに当村から分村独立したとみられる。

立石村
たついしむら

[現在地名]長野原町大津おおつ

坪井つぼい村・勘場木かんばぎ村の西にあり、吾妻川左岸に位置する。草木原くさきはら・立石・洞口ほらぐちの中心集落は支流遅沢おそざわ川の左岸沿いに分布し、村内で信州道から草津くさつ(現草津町)への道が分岐する。二軒屋にけんや長井ながいなどに五輪塔が多数ある。永禄七年(一五六四)二月一七日、湯本善太夫に先約のとおり本領草津谷のほか「羽尾領内立石・長野(原カ)」の一七〇貫文が宛行われている(武田信玄判物写「加沢記」所収)

万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高五四石余、寛文郷帳では田方七石余・畑方四七石余。

立石村
たていしむら

[現在地名]鰺ヶ沢町建石たていし

北は大館おおだて(現森田村)、東は十腰内とこしない(現弘前市)、西は小屋敷こやしき村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡の新田に舘石村とあり四二・九二石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳には、村高九六・〇二六石、うち田方七六・三〇五石、畑方一九・七二一石、ほかに漆木一千一三九本、除地として観音堂地が記されている。元禄三年(一六九〇)には高杉組に属し、村位は下とある(平山日記)。天明三年(一七八三)の大凶作により、集落民の大部分が餓死し、その供養のため現在の庚申塚付近に六尺の石柱をたて、供養塔としたため建石としたという(西津軽郡史)

立石村
たついしむら

[現在地名]藤岡市立石

北境をからす川が東流、東境を温井ぬくい川が北流し、北部を中山道が東西に抜ける。古くは立石・和泉いずみの二村であったといい、村名は「立石様」と称する自然石にちなむともいわれる。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって安保氏に与えられた地に「立石村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。同年閏一二月一四日の某禁制(写、飯島文書)で、木部きべ(現高崎市)在城衆および番手衆の「泉・立石両郡」での乱妨・竹木伐採を禁じている。

立石村
たていしむら

[現在地名]北部町改寄あらき 立石

坪井つぼい川上流の飽田あきた郡最北西端にあり、北は山本やまもと郡正院手永の草葉くさば(現鹿本郡植木町)、東は合志こうし郡竹迫手永のつじ(現菊池郡西合志町)、南は津留つる村に接する。天正年間(一五七三―九二)と思われる山上衆知行目録写(内田文書)に「立石」とみえ、内田和泉守と同左馬助がそれぞれ三町の所領を持っていた。

慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「糸山之内立石村」とあり、田方八町五畝余・畠方二七町三反二畝余、分米二五三石五斗余で、竈数九・家数一八・人数二四、牛三とある。五町手永に属し、宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳では、津留村・井上いのうえ村・立石村・前原まえはる村と併記される。

立石村
たていしむら

[現在地名]飯田市立石

現飯田市の南端、阿知あち川沿いに位置。古代は「和名抄」所載の輔衆ふす郷に属したものと推定され、やがて伊賀良いがら庄の内となった。その後、室町時代末期には下条氏の支配下に組み入れられたことが、天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に「下条領」の一村として記載されていることから推察される。近世には元和五年(一六一九)より旗本近藤氏の所領となって幕末に至った。

立石村
たていしむら

[現在地名]鳥栖市立石町たていしまち

北部は石谷いしだに山・雲野尾くものお峠などの南麓山地、南部は所熊しよぐま山・笛吹ふえふき山の丘陵に限られる平地で、集落は立石川ぬま川上流)渓口に立地する。文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉朱印状写(鍋島家文書)に「立石」とある。

佐賀藩の藩政期には、地米(年貢)高は貞享四年(一六八七)改郷村帳で三九六石余、うち蔵入地七四石余、配分地三二一石余。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳では七配分士が知行している。

江戸時代末期の村の状態を文久二年(一八六二)の養父郡立石村諸業竈人別帳についてみると、竈数一〇四(ほかに竈なし九、この中には寺院一、医師一が入るが、社人一は竈内)、身分は村田鍋島家の家来三、足軽一六、歩行三、配分士の家中一、被官一八、ほかは百姓。

立石村
たていしむら

[現在地名]三原町八木笶原立石やぎやはらたていし

国分こくぶ村の西にある。西方近くを円行寺えんぎようじ(三原川)が北流し、南端を福良ふくら街道が南西から北東へ通る。同街道の一里塚があった(正保国絵図)。村名の由来は、美女伝説の小栗の槍石おぐりのやりいしという直立した古石のあることによるといわれている。慶安四年(一六五一)には国分村内の立石分であったが(味地草)、その後国分村より分れ、寛文一三年(一六七三)の立石村新開検地帳(三原郡史)が残る。文化一二年(一八一五)の検地帳(三原町教育委員会蔵)では高九石余、反別は田六反余・畠二反余。

立石村
たていしむら

[現在地名]柳川市立石

定覚じようかく村の東にあり、三潴みづま郡に属する。南は山門やまと磯鳥いそどり(現三橋町)など。天正一〇年(一五八二)一月一一日、龍造寺氏から鴨打刑部少輔に「立石」二五町のうち一二町が与えられた(「龍造寺政家知行宛行状」小城藩士佐嘉差出古文書写/佐賀県史料集成二六)

文禄四年(一五九五)の知行方目録に立石村とあり、高五八六石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)では反別四一町三反分、分米五三六石余、村柄は上。元和六年(一六二〇)から久留米藩領となる。

立石村
たていしむら

[現在地名]土佐清水市立石

現土佐清水市東北端の村で、立石川の流域から河口にかけてを村域とし、西に葛籠つづら(四七〇メートル)がそびえる。ぬの村の枝郷。「土佐州郡志」「南路志」ともに布村のなかに含めて記す。

天正一七年(一五八九)の立石之村地検帳によれば検地面積五町四反余、屋敷数四、うち居屋敷三。末尾の「四至傍爾之事」には「布之村ト下萱ト境浜ハ牛ノ子ハヱ北ハ西ノ岸西ハクシ引ガトウ」と記す。小島出雲守の一筆を除き立石右京進の給地。ホノギに「タクミヤシキ」がみえる。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)に立石浦刀禰がみえるが、江戸時代には浦方としての活動はみられない。

立石村
たていしむら

[現在地名]菊池市隈府わいふ

高野瀬たかのせ村の南にある小さな村。北方を迫間はざま川が大きく蛇行し、同川を隔て袈裟尾けさお村に相対している。南端を菊池往還が東西に通る。隈府町高札辻より約九町。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に「長屋敷之高二町三段七畝二十歩 分米十九石一升」と記される。近世は深川手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の深川手永手鑑には高二六石九斗余、田五反七畝余・畑二町六畝、竈数四、「人数牛馬は以前より大琳寺打込」とあり、庄屋は当村南の大琳寺だいりんじ村松岡藤次郎が兼ねている。

立石村
たていしむら

[現在地名]下市町大字立石

秋野あきの川流域、村の東にある。正平二年(一三四七)の森家文書に「吉野郡勧誠分内立石」とあり、文亀二年(一五〇二)一二月の田地売券(楠山家文書)に「立石カトウサ殿」、永正二年(一五〇五)四月の同文書には「タテイシノサエモン五郎トノ」の人名を記す。官上かんじよう郷のうち。慶長郷帳によると村高二一五・九二七石、幕府領(代官大久保長安)

立石村
たていしむら

[現在地名]米沢市立石

笹野ささの村の南に位置し、大樽おおたる川東岸の河岸段丘上平地と後背山地に立地。米沢城下に発する会津街道沿いにあり、李山すももやま村との境の船坂ふなさか峠は標高四六〇メートル、高くはないが急な曲り角があり難所であった。城下の防御上、峠から城下町が見渡せないように道路が作られていたといわれる。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一二六石余、免四ツ五分、家数一一(うち役家三・肝煎一)・人数六五、役木として漆・桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣は五名。正保郷帳では田九〇石余・畑七二石余。

立石村
たていしむら

[現在地名]小田町立石

南山みなみやま村の西の谷、小田川に流れ込む支流に沿って集落が発達している。村の西部・南部は現喜多きた内子うちこ町に接しており「大洲旧記」立石村の条に「喜多浮穴郡境、両郡にかゝり有」と記すように、江戸時代は村中を南北に郡境線が貫いていた。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高四百九拾六石四斗壱升 立石村 日損所、茅山有」と記されている。

江戸時代新谷藩加藤氏の所領に属していた。

立石村
たていわむら

[現在地名]日南町三吉みよし

北東流する九塚くつか川の堆積地に位置し、北東は塚原つかばら村。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「タテイシ」と訓じ、正保国絵図に立岩村とみえる。拝領高は五五石余、本免は四ツ七分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六五石余、竈数九。「伯耆志」では林二四町一反余、家数九・人数五四。

立石村
たていしむら

[現在地名]大原町立石

吉野よしの川左岸に立地し、北東は下庄しもしよう村、対岸は赤田あかだ村。正保郷帳に村名がみえ、田二一四石余・畑四〇石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高八〇石余・開高七石余、村位は上。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は小原田おはらだ村と同様。「東作誌」によれば戸数三〇、男五七・女四九。

立石村
たていしむら

[現在地名]金屋町立石

岩野河いわのがわ村の北方山中に位置する。「続風土記」に「村の北に岩山あり、神に祭りて立石明神という、村名此より起れり」とあるが、現在は立石明神はない。また当村は早月はやつき谷の尾上おのうえ村の枝郷が独立したもので、習俗も早月谷風であり、氏神も五名生石ごみようおいし神社であるという(金屋町誌)

立石村
たていしむら

[現在地名]西郷村立石

田代たしろ村の西に位置し、耳川が流れる。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高一九石余。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚でも同高、内検高は二二石余。元禄五年(一六九二)の延岡藩領郷村高帳(三浦家文書)では高一九石余、新田高二石余・出高二石余。延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳でも同高で、新田高五石余(うち前々より改出高二石余)

立石村
たていしむら

[現在地名]豊岡市立石神美台かみよしだい

出石いずし郡の村で、香住かすみ村の東に位置する。江戸時代を通じ出石藩領。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二八八石余。出石封内明細帳でも高二八八石余(拝領高一九八石余・改出高九〇石余)、うち屋敷高二石七斗余・麻畑高八斗余・田高二七六石余・畑高八石七斗余。

立石村
たていしむら

[現在地名]吉井町立石免たていしめん

前岳まえだけ村の西に位置し、佐々さざ川が流れる。江戸時代は吉田よしだ村のうちで、正保国絵図に「立石村」とあり、高七六石余。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では吉田村内に上立石免・下立石免とある。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では吉田村枝村として村名がみえ、高七六石余でタテイシの訓を付す。

立石村
たていしむら

[現在地名]印南町立石

王子おうじ川の最上流、こう(一六九・八メートル)の南に位置する。南東は印南原いなんばら村、北は講山を越えて和佐わさ(現川辺町)。慶長検地高目録によれば村高一三二石余、小物成五斗九升九合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑一二町五反余で高一三三石余、家数一六で内訳は庄屋・年寄各一、本役四、半役五、無役五、人数七四、牛八、馬三、鉄砲一。

立石村
たていしむら

[現在地名]八開村立石

東は佐屋さや川を隔てて二子ふたご村、西は木曾川・長良ながら川に面する。「神鳳鈔」に「尾張国立石御厨」とみえて、伊勢大神宮の神田七反一畝歩があった。「徇行記」によれば、概高二八一石余はすべて藩士八人の給知。田は一二町八反三畝余、畑は一四町三反四畝余。「寛文覚書」に戸数三五、人数一八三とある。

立石村
たていしむら

[現在地名]竹田市えだ

濁淵にごりぶち川上流北岸の小盆地状の所にあり、おか城下から一里半余。正保郷帳では長田ながた郷に属し、田方一〇三石余・畑方七八石余で、柴山有と注記される。

立石村
たていしむら

[現在地名]高浜町立石

高浜村の西に位置し、北は高浜湾に臨む。南は妙見みようけん(佐伎治山)を隔てて坂田さかた村と接し、村内を丹後街道が通る。中世には立石庄。「若狭郡県志」には「立石村属木津庄、去小浜五里半許也」と記す。

立石村
たていしむら

[現在地名]出雲崎町立石

中山なかやま村の南東、東へ大門だいもん村への道、南に稲川いながわ村への道が通じ、西は丘陵。正保国絵図に高六七石余で幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報