日高郡(読み)ひだかぐん

日本歴史地名大系 「日高郡」の解説

日高郡
ひだかぐん

面積:九一〇・七二平方キロ
由良ゆら町・日高ひだか町・美浜みはま町・川辺かわべ町・中津なかつ村・美山みやま村・龍神りゆうじん村・印南いなみ町・南部みなべ町・南部川みなべがわ

県のほぼ中央部を占め、北は有田郡、南は田辺市、南東は西牟婁にしむろ郡。東部は山地で西に向かってしだいに低くなり紀伊水道に臨む。西部海岸地域は御崎みさきを境に、北はリアス式の海岸線を呈し、南は山地が海に迫る。大和との国境、護摩壇ごまだん(一三七二メートル)に発する日高川が、郡のほぼ中央北寄りのところを、著しい屈曲をみせながら西に流れ、南西部には切目きりめ川と南部川が流れる。かつては御坊市域も当郡に含まれたが、現在は同市によって、北西部の由良・日高・美浜の三町が分離されたかたちになっている。現由良町の地はもと海部あま郡に属したが、江戸時代日高郡代の管轄下に置かれ、明治一二年(一八七九)に正式に日高郡に編入された。

有田郡以北を紀北といい、日高郡以南を紀南とよぶのが永い間の習わしであったが、第二次世界大戦後の地域開発の要請から紀中の概念が生れ、かつての日高・有田の両郡の地域を紀中と称するようになった。なお、日高町の西部と美浜町の地域をさして、西口とよぶことがある。日高の名義について「続風土記」は、「日の高く天の真秀まほに坐して照輝く義にして、山あれとも高からすよく日をうくる地の美称なり、取りて郡名とせるならん」と説く。「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に「皇后、南紀伊国に詣りまして、太子に日高に会ひぬ」とあり、「続日本紀」大宝三年(七〇三)五月九日条に「阿提、飯高、牟漏三郡献銀」、天平宝字八年(七六四)七月一二日条には「木国氷高評人内原直牟羅」とみえる。また、平城宮出土木簡に「紀伊国日高郡」とある調付札が数点ある。「和名抄」東急本に「比太加」とよむ。

〔原始〕

日高川流域の川辺松瀬まつせ遺跡と、中津村古垣内ふるがいと遺跡から出土した頁岩製石器などは、ほぼ先土器時代のものとされており、一万年以上前すでにこの地域は人々の生活の舞台になっていたと考えられる。縄文時代の主要遺跡として、日高川水系に前記両遺跡のほか川辺町の和佐わさ入野にゆうのと美浜町の田井たい遺跡があり、切目川中流の印南町丹生にう遺跡、南部町目津めづ崎付け根の大目津泊おおめづとまり遺跡なども知られる。弥生時代の遺跡も河川の下流地域に多く、高見たかみ遺跡・大塚おおつか遺跡などとりわけ南部川下流地域に多くみられる。日高町いばらき、川辺町鐘巻かねまき、南部川村だま谷・雨乞あまごい山・大久保おおくぼ常楽じようらく久地くじ峠からは銅鐸が出土している。大目津泊り遺跡は、縄文晩期の製塩土器も出しているが、弥生後期以後の製塩遺跡として重要。

日高郡
ひだかぐん

2006年3月31日:静内町三石町の合併に伴い、静内郡三石郡を統合して設置
【静内郡】北海道日高支庁
【三石郡】北海道:日高支庁

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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