福島(県)(読み)ふくしま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「福島(県)」の意味・わかりやすい解説

福島(県)
ふくしま

東北地方の南部を占める県。北部は宮城県と山形県、西部は新潟県、南部は関東地方の茨城・栃木・群馬3県に接し、東部は太平洋に臨む。県域は北緯37度をほぼ中央として南北約133キロメートル、東西は東経140度を挟んで、およそ165キロメートルにわたる。面積1万3784.14平方キロメートルは北海道、岩手県に次ぎ全国第3位。県の中央部を南北に走る奥羽山脈と、それに並走する太平洋岸沿いの阿武隈高地(あぶくまこうち)によって、県域は東から浜通り、中通り、会津(あいづ)の3地域に大別され、それぞれ異質の風土をもっている。古くは中央から北東方向に偏しており、僻遠(へきえん)の地であったが、現在は関東地方から東北地方へ通ずる幹線路線はすべて通り、首都圏へは、東北新幹線を利用すると県北の福島市からでさえ、およそ100分で東京駅に到着する。県域の主要部は、首都圏へ日帰りで用事を達しうる圏域となった。人口は、1879年(明治12)に80万8937人、1920年の第1回国勢調査時に136万2750人、1955年(昭和30)には209万5237人と第一次のピークを迎えた。その後わずかずつ減少していったが、1973年以降増加に転じ、1997年(平成9)に213万7406人となった。しかし、その後はふたたび微減傾向で、2005年国勢調査では209万1319人、2010年国勢調査では202万9064人と、210万人を割り込み、東日本大震災後の2015年国勢調査では191万4039人と200万人を割り込んだ。2020年国勢調査では183万3152人となっている。65歳以上の老齢人口は31.8%で全国平均(28.7%)より高率で、全国21位(以上、2020年国勢調査)。

 2002年4月の時点では10市14郡52町28村からなっていたが、平成の大合併後の2020年10月現在で13市13郡31町15村となった。県庁所在地は福島市。

[渡辺四郎・若林伸亮]

自然

地形

県域の中央には、東北地方の中央分水界である奥羽山脈が南北に連なり、その上に吾妻(あづま)・安達太良(あだたら)連峰、磐梯(ばんだい)山、鎌房(かまぶさ)山などの火山が噴出する。標高は1500~2000メートル。磐梯朝日国立公園の主要部をなしている。東部には低い丘陵地と平均標高約500メートルの高原よりなる阿武隈高地が南北に走る。高地の所々には残丘の大滝根(おおたきね)山(1192メートル)などが突出する。西部の新潟県境には飯豊山地(いいでさんち)、越後山脈(えちごさんみゃく)が走り、越後山脈は県内最高峰の燧ヶ岳(ひうちがだけ)(2356メートル)を含む。越後山脈の一部と田子倉(たごくら)湖周辺は越後三山(さんざん)只見(ただみ)国定公園域に、また燧ヶ岳とその南麓(ろく)から西方に広がる尾瀬ヶ原・尾瀬沼は尾瀬国立公園(ただし、2007年8月までは日光国立公園)に指定されている。

 平地は太平洋岸に沿う浜通り低地帯、阿武隈川河谷の白河(しらかわ)から福島に至る諸盆地と久慈川(くじがわ)の谷底平野を含む中通り低地帯、会津平(だいら)と猪苗代(いなわしろ)湖をめぐる湖岸平野がある。海岸線は単調であるが、北部には砂浜海岸と潟湖(せきこ)の松川浦(まつかわうら)があり、南部の磐城(いわき)海岸は小湾入と砂浜海岸が交錯している。中部の双葉(ふたば)海岸では海食が進み、急崖(きゅうがい)をなしている。県立自然公園には磐城海岸、奥久慈、霞ヶ城(かすみがじょう)、南湖(なんこ)、霊山(りょうぜん)、勿来(なこそ)、松川浦、阿武隈高原中部、大川羽鳥(おおかわはとり)、夏井川渓谷の10がある。

[渡辺四郎・若林伸亮]

気候

奥羽山脈や阿武隈高地は各地の気候に強く影響する。浜通り地方は冬の北西季節風が山々に遮られるので、冬は暖かく雪も少なく、夏は北東風を受けて涼しい。会津地方は冬は寒く、豪雪をみるが、夏はよく晴れ、気温も高く米作地の特質を備える。中通り地方は両者のまさに中間的な気候である。

[渡辺四郎・若林伸亮]

歴史

先史・古代

中通り地方の南部、鏡石(かがみいし)町成田陣ヶ岡から、後期旧石器時代と推定される石器が発見されている。これらは「成田型ナイフ型石器・成田型刃器」とよばれる。縄文時代草創期後半以降の遺跡は多数発見され、なかでも中期の複式炉をもつ住居趾は本県の特色である。また後期終末期の本県産土器は、遠く関西地方まで運ばれていることが知られている。弥生(やよい)時代の水田跡は数例発見されており、南相馬市原町区周辺の弥生中期の遺跡からは多量の石包丁(いしぼうちょう)が採集されている。弥生後期の非常に個性的な天王山式土器(てんのうやましきどき)は、関東北部から東北各地にかけて報告されている。

 会津大塚山古墳(国指定史跡)は古墳時代前期の築造であるが、最近埴輪を伴う前期古墳が会津地方から数例報告されている。後期の横穴式古墳は全県に認められるが、装飾横穴古墳は浜通りに10例ほど知られている。浜通り北部の相馬地方では、1985年以降多数の製鉄遺跡が発見・調査され、7~10世紀にかけて稼働していたことが判明した。大和(やまと)朝廷の本県への進出は『国造本紀(こくぞうほんぎ)』によると、菊多(きくた)、阿尺(あさか)、染羽(しめは)、浮田(うだ)、信夫(しのぶ)、白河、石背(いわせ)、石城(いわき)の8国あったことが知られ、大化改新(645)以後の郡の設置は、近年の郡衙(ぐんが)跡、郡寺跡などの発掘調査によりしだいに明確にされつつある。条里制遺構は福島盆地、会津盆地、郡山(こおりやま)市、いわき市平(たいら)周辺で確認されている。5世紀初めごろ蝦夷(えぞ)防衛の白河関や菊多関(勿来関)が置かれ、その後、関東から陸奥(むつ)国への官道である山道(せんどう)や海道(かいどう)が整備された。『万葉集』には陸奥国の歌9首が載せられている。仏教の伝播(でんぱ)はかなり早く、会津の恵日(えにち)寺・勝常(しょうじょう)寺、中通りの大蔵(だいぞう)寺・霊山寺、浜通りの白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)(願成(がんじょう)寺)などには平安時代の仏像が多く残されており、また経塚遺物から桑折町平沢(へいたく)寺、福島市天王(てんのう)寺、須賀川(すかがわ)市米山(べいさん)寺、喜多方(きたかた)市千光(せんこう)寺などは平安時代につくられた寺院であることが知られる。『延喜式(えんぎしき)』神名帳に記載された式内大社は、会津1社、中通り3社、浜通り2社である。

 平安時代末期、信夫佐藤氏や岩城(いわき)氏などが平泉(ひらいずみ)藤原氏の勢力圏内で力を伸ばしたが、会津地方まで藤原氏の力が及んだのはごく短期間である。源頼朝(よりとも)の奥州攻めに対し、佐藤氏は石那坂(いしなざか)、厚樫山(あつかしやま)などで防戦するが、岩城氏は頼朝軍の先陣にたち所領を安堵(あんど)される。

[渡辺四郎・若林伸亮]

中世

1189年(文治5)以後、県内では石川氏と岩城氏の所領が安堵されただけで、ほかは関東武士の相馬(そうま)、伊達(だて)、伊東、二階堂、結城(ゆうき)、蘆名(あしな)、長沼などの各氏に所領が恩給され、関東に従属する形となった。建武(けんむ)新政(1334)後の陸奥国府では本県武士団が要職を占めるが、南北朝時代になると伊達、結城、田村の各氏が南党に属し、その他の各氏は北党にくみして相争った。霊山、宇津峯(うつみね)の陥落により南北朝抗争は終了するが、このころより本県武士団が関東の本宗家から自立してくる。戦国時代になると伊達氏と蘆名氏を頂点とする二大勢力の対立が明瞭(めいりょう)となり、1589年(天正17)伊達氏が磐梯山麓で蘆名氏を敗走させて本県の領域をほぼ手に入れた。

[渡辺四郎・若林伸亮]

近世

豊臣(とよとみ)秀吉の奥州仕置(しおき)以後、本県の支配はしだいに細分化されつつ明治維新を迎える。会津若松に本拠を置いたのは蒲生(がもう)、上杉、蒲生(再)、加藤の各氏であるが、会津騒動ののち、1643年(寛永20)以降は徳川氏一族の保科氏(ほしなうじ)(会津松平氏)が23万石で入部して幕末に至った。中通りには譜代(ふだい)大名のめまぐるしい交替と、分領や幕領の交錯した支配がみられた。このうち早くからその基礎を固めたのは福島、二本松、三春(みはる)、棚倉、白河の各藩である。浜通り北部の相馬氏は1189年から幕末までの680年にわたって領地を保持したわが国の歴史上でも特異な存在である。江戸時代は13万6000石を領有する中村藩(相馬藩)であった。いわき地方も領主の交替とともに細分化が進み、さらに幕領や分領が設けられたため、福島盆地、石川・東白川地方とともに支配関係の複雑な地域となったが、江戸時代を通じて平(たいら)藩、泉藩、湯長谷(ゆながや)藩などがあった。交通路の整備に伴い城下町とともに宿場町が成立し、現在の都市および地方町の原型が整った。灌漑(かんがい)水路の開発・整備と新田開発は生産力を向上させ、商品作物や特産物の奨励は現在の伝統的工芸の基礎となった。

 江戸時代を通じて支配関係が複雑であったことは、本県内に一つのまとまった社会と文化の形成を妨げ、その影響は現在にまで及んでいる。しかし一方において、封建領主による支配と規制が、たび重なる交替のために十分に徹底せず、近代になってからの産業発達にとって好条件となったことも見逃せない。

[渡辺四郎・若林伸亮]

近代

1868年(明治1)9月、1か月にわたる会津戦争ののち会津藩は新政府軍に降伏、福島県域は新政府下に入った。1869年守山、三春、相馬の3藩を除く領域は新政府の民政取締所(民政局)の直接統治となり、この年に岩代国(いわしろのくに)、磐城国(いわきのくに)の呼称が定まった。廃藩置県後の1871年には二本松県、平県、若松県の3県となり、1876年に3県合併してほぼ現在の福島県域が定まった。1875年河野広中(こうのひろなか)は石川町に石陽社を設立した。東北地方の自由民権運動の始まりであり、1877年には福島町で模擬県会が開かれ、福島県民会規則などが公布された。これは明治政府の府県会規則に比べ、はるかに民主的なものであった。1882年県令三島通庸(みしまみちつね)は会津三方(さんぽう)道路の開削を強行し、喜多方(きたかた)事件を契機として県内自由党員の大弾圧を行った。産業面では江戸時代から続いた伊達・信夫地方の蚕種、製糸業が引き続き活発であり、これが福島町に県庁を置かせる原動力の一つとなり、また東北地方で最初に日本銀行支店が設立される契機ともなった。機械製糸は1873年創立の二本松製糸場をはじめ、白河や会津地方にまず導入され、主産地の信達(しんたつ)地方に導入されるのは、むしろ遅かった。絹織物産地の中心も伊達郡の川俣(かわまた)町にあった。安積疎水(あさかそすい)開削は明治政府の最初の大規模土木工事であり、士族授産のための開墾も進んだが、これは後年、郡山に大地主が出現するのを助長した。日露戦争後は交通路の整備と近代工業発達の萌芽(ほうが)が認められる。なかでも猪苗代湖(いなわしろこ)水系の水力発電は京浜地区へも送電する日本有数の規模をもったもので、福島県が電源地域としての特性をもつのはこのときに始まり、第二次世界大戦後の只見(ただみ)川電源開発、原子力発電へと続いている。

[渡辺四郎・若林伸亮]

産業

2005年(平成17)の産業別就業者総数は101万6000人ほどで、1995年と比べると7万人減少している。産業別内訳は第一次産業就業者10.3%、第二次産業就業者29.3%、第三次産業就業者59.7%である。全国平均と比較すると第一次で5ポイント、第二次で4ポイントほど高く、第三次は8ポイントほど下回っている。県内の総生産額は2004年で7兆8551億円、1994年から3000億円増加し、第一次産業1.9%、第二次産業32.7%、第三次産業65.4%である。第二次産業生産額は東北地方では上位にあるが、全国的には中位にとどまっている。また第一次産業が不振なことは全国共通であるが、特産品として果樹・野菜・工芸作物などが注目されている。

[渡辺四郎・若林伸亮]

農林業

2005年(平成17)の総農家は約10万5000戸で、総戸数の14.7%。1995年に比べて1万5000戸ほど減少し、兼業農家の減少が著しい。一方、専業農家の数は増加していて、専業農家の占める割合は1995年の9.2%から15.9%に増えている。2005年の農林業センサスによると、経営耕地面積は12万3121ヘクタールで、毎年減少している。1経営体当り1.51ヘクタール。経営耕地の内訳は水田74.8%、普通畑20.2%、樹園地5.0%である。1995年には桑園が2.2%を占めていたが、養蚕の衰退とともに果樹園などへの転換が進められ、2002年以降、面積の統計はとられていない。農業経営体においては単一経営が78%、複合経営が22%を占め、さらに複合経営のうちの3分の1が稲作を主体としており、稲作単一経営が主流といえる。米以外では果樹農家が5.0%、野菜農家3.6%、工芸作物農家1.5%の順で、以下肉用牛農家、花卉(かき)・花木農家が続いている。会津地区の平坦(へいたん)部は稲作中心であるが、磐梯(ばんだい)高原や南会津の高冷地ではダイコン栽培などが盛んである。福島地区の果樹、阿武隈高地中部の葉タバコ、郡山地区南部のキュウリ、白河地区東部久慈川流域のコンニャクイモなどは、それぞれ特化した経営がみられる。阿武隈高地や甲子(かし)高原には広く畜産がみられるが、特化した経営とまでは至らない。養蚕はかつては重要な地位を占めていたが、近年急速に衰退してしまった。

 林野は約97万ヘクタール(2004)で県土の70%を占め、うち国有林42%、民有林58%。阿武隈高地南部の久慈川・鮫川(さめがわ)流域には人工造林地が集中している。2005年の造林面積367ヘクタール。2003年の素材生産量64万立方メートル、木炭生産量910トンで、1995年に比較して50~30%の減少である。

[渡辺四郎・若林伸亮]

水産業

太平洋に面し、海岸線は約140キロメートル、漁港としては小名浜港(おなはまこう)が知られるのみ。2002年(平成14)の漁業経営体(海面)は979で、3~5トンの動力船保有が33%を占め(10トン以下なら78%)、漁業種類では刺網業24%、底引網漁20%、船引網漁13%、海面養殖10%などである。内水面漁業経営体は59。

 2004年の漁業・養殖業総生産量は10万6984トンで、沖合漁業が74%、沿岸漁業が15%を占めている。また魚種別にみると、サンマが23%でいちばん多く、サバ類11%、イカナゴ8%、マグロ類6%と続いている。県内漁港に水揚げされた漁獲量は10万2620トンで、小名浜51%、江名14%、相馬原釜10%、中之作9%となっている。なお、内水面漁業獲得量は884トンである。

[渡辺四郎・若林伸亮]

鉱業

鉱業就業者838人(2004)。以前盛んであった石炭産業はすべてなくなり、石灰石鉱山やタングステン鉱山などがわずかに稼働している。なお就業者のうちかなりの者が、御影石や凝灰岩などの石材生産に従事している。

[渡辺四郎・若林伸亮]

工業

2005年(平成17)の工業従業者数は18万2000人で、電子部品・デバイス11%、食料品、情報通信機器、一般機器の就業者がそれぞれ9%となっている。製造品出荷額等は5兆5686億円で、情報通信機器15%、電子部品・デバイス10%、化学工業9%、電気機器、飲料・たばこ・飼料、輸送用機器、一般機器が5%を超える。県内6地区の出荷額割合(かっこ内は地区1位の産業)は、郡山市を中心とした県中地区27%(飲料・たばこ・飼料)、福島市を中心とした県北地区26%(情報通信機器)、いわき地区20%(情報通信機器)、白河市を中心とした県南地区14%(電子部品・デバイス)、会津地区9%(電子部品・デバイス)、相馬地区4%(電子部品・デバイス)となっている。1985年と比較すると重化学工業の伸びが大きく、飲料を除く軽工業のほとんどは減少傾向にある。

 伝統産業は、会津若松市の漆器と清酒、喜多方市や三島町の桐下駄(きりげた)、会津本郷町・相馬市・浪江(なみえ)町の陶器、川俣(かわまた)町・福島市飯野(いいの)町地区の織物、二本松市の家具などがあげられる。相馬駒焼(こまやき)はいまでも登窯(のぼりがま)を用い、伝統を重んじているが、そのほかは程度の差はあっても近代的手法や経営方式に移行しつつある。ほかに三春(みはる)人形、白河だるま、土湯(つちゆ)こけしなどの民芸品もある。

[渡辺四郎・若林伸亮]

開発

明治時代には現郡山市域を舞台とする安積開拓(あさかかいたく)(1878~1882)があり、昭和初期には東北振興電力の電源開発と送配電線網の整備などがあった。第二次世界大戦後は特定地域開発事業の一環である只見川電源開発(1953年以降)、いわき市と郡山市を結ぶ広大な地域を対象とした新産業都市建設事業(1964年以降)がある。相馬地域総合開発事業として相馬港の整備が進められており、原町火力発電所建設は2号機まで完成、双葉地区では東京電力の原子力発電所10基が稼働していた。1975年の東北縦貫自動車道、1982年の東北新幹線、1990年の磐越自動車道の開通などは県内に大きな波及効果があり、工業出荷額や都市人口の増加は、その一つの現れといえる。

 2005年の発電量は1138億キロワット時で全国の10%を占め、その内訳は水力7%、火力50%、原子力43%である。2005年度の県内販売電力は150億キロワット時なので、発電量の87%は関東を中心とする県外へ移出する一大電力給供県である。

 なお、2011年3月の東北地方太平洋沖地震で福島第二原子力発電所の4基が停止中、同地震および福島第一原子力発電所事故により6基が廃止された(2014年5月現在)。

[渡辺四郎・若林伸亮]

交通

中通り地方にはすでに720年(養老4)ごろ陸奥(みちのく)へ通ずる官道があったといわれる。それは山道(せんどう)(仙道(せんどう))、奥大道(おくのおおみち)、奥州道中などと名称を変えるが、つねに幹線通路であった。久慈川の谷筋には山道に合流する官道があり、浜通り地方にも官道があったという。会津地方へは古くは越後(えちご)(新潟県)方面から入ったというが、のちにはおもな交通路が山道筋から分岐するようになった。この交通路の大要は現在に引き継がれる。すなわち白河・郡山・福島を連ねる中通り地方は、JR東北本線、東北新幹線、国道4号、東北縦貫自動車道が縦断し、福島空港も1999年(平成11)には国際定期路線が開設され(2018年現在、臨時便・チャーター便のみ)、東北地方交通網の中軸である。浜通り地方では2015年に常磐自動車道が全線開通した。県内を東西に横断する交通路は単線のJR各路線が頼みであったが、1997年(平成9)に磐越自動車道が全線開通し、東北中央自動車道も部分開通している。港湾は少ないが、国際貿易港としての小名浜(おなはま)港があり、相馬港は重要港湾である。

[渡辺四郎・若林伸亮]

社会・文化

教育文化

江戸時代、福島県下には次のような藩校があった。1674年(延宝2)設立の会津藩会津講所(1803、日新館と改称)、平藩施政堂(しせいどう)(1756)、三春藩明徳堂(天明期)、白河藩立教館(1791)、二本松藩敬学館(1817)などの藩学であり、このほか私塾や寺子屋もあった。

 2014年(平成26)現在、県下には国立福島大学、福島県立医科大学、同会津大学、私立の郡山女子大学、奥羽大学、日本大学工学部、いわき明星大学、東日本国際大学、福島学院大学の9大学、会津大学短期大学部、私立の桜の聖母短期大学など6短大、国立福島工業高等専門学校などがある。博物館・美術館・資料館などは県の博物館連絡協議会加盟の館だけでも59、図書館は52ある。

 1881年(明治14)自由党員平島松尾らにより『福島日日新聞』が創刊されたが、137号で廃刊、翌年『福島自由新聞』に引き継がれたが、まもなく自由党員の一斉検挙で廃刊。1892年同じく平島らにより『福島民報』が創刊、第二次世界大戦中に県下の各紙を統合し現在に至っている。1895年創刊の『福島民友』は、のち『福島民報』に統合されたが、1946年復刊した。以上2紙が有力地方紙で朝刊・夕刊を発刊する。放送はNHK福島放送局のほか、民間放送に福島テレビ、福島中央テレビ、福島放送、テレビユー福島、ラジオ福島、エフエム福島などがある(2014)。

[渡辺四郎・若林伸亮]

生活文化

福島県は浜通り、中通り、会津と地形的に3地域に区分され、しかも江戸時代には藩領、分領、幕領などに分轄支配されたので、生活文化の地域的な差は大きい。

 浜通りでは屋敷構えは主屋(おもや)といくつかの付属家屋が独立して配置されている。旧相馬藩領には1間が5尺7~8寸の「小間造(こまづくり)」とよばれる農家がみられた。現在わずかに保存されている。屋内にはニワとよばれ、冬季に農作業を行う広い土間がある。江戸時代から続く相馬駒焼は相馬藩主の御庭(おにわ)焼から出発したものであり、相馬大堀焼は日用雑器が中心であるが、両者ともに走馬(そうま)(走り駒(はしりこま))の絵が描かれている。国指定重要文化財として、いわき市能満寺(のうまんじ)の木心乾漆虚空蔵菩薩坐像(もくしんかんしつこくぞうぼさつざぞう)は、奈良時代の様式を伝える数少ない例である。同市願成(がんじょう)寺の白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)(国宝)と内陣の木造阿弥陀如来及両脇侍(もくぞうあみだにょらいおよびりょうきょうじ)像、木造持国天・多聞天立像は、いずれも藤原期末の作である。鎌倉期の文化財としては、同市の飯野八幡宮本殿ほか、同市薬王寺(やくおうじ)の木造文珠菩薩騎獅像(もくぞうもんじゅぼさつきしぞう)と絹本著色弥勒菩薩像(けんぽんちゃくしょくみろくぼさつぞう)、同市長隆寺(ちょうりゅうじ)の木造地蔵菩薩立像、いわき市所有の銅造阿弥陀如来及両脇侍立像と絹本著色阿弥陀三尊像、南相馬市鹿島区阿弥陀寺の刺繍阿弥陀名号掛幅(ししゅうあみだみょうごうかけふく)などがある。いわき市の飯野家文書は、1247年(宝治1)を最古とする1683点の鎌倉~南北朝期の古文書群である。いわき市から双葉郡にかけては装飾横穴古墳が多い。相馬・双葉地区には田植踊(たうえおどり)が集中しているばかりでなく、獅子舞(ししまい)や獅子神楽(かぐら)があり、いわき地区には三匹獅子舞やじゃんがら念仏踊(ねんぶつおどり)・風流(ふりゅう)踊などがある。相馬市、南相馬市を中心とする「相馬野馬追」、いわき市の「御宝殿の稚児田楽・風流(ごほうでんのちごでんがくふりゅう)」、棚倉(たなぐら)町の「都々古別神社の御田植(つつこわけじんじゃのおたうえ)」は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 中通りでは、屋敷構え、屋内構造などは浜通りとほぼ同様である。隠居屋は浜通りと中通りの全域にみられるばかりでなく、旧二本松藩領であった猪苗代湖の湖南地方にまで広がっている。県北・県中のかつての養蚕地帯には養蚕のため2階建ての農家が多く、また明治以後、温暖飼育の普及に伴い、棟に煙出しの小屋根をのせた家屋もみられる。福島盆地のアズマ造とよばれる養蚕家屋も同系統である。

 衣生活では中通りは浜通りとともにモモヒキ圏に属している。また中通りと会津の婦人のかぶりものとして、2本の手拭(てぬぐい)を並べて中央部3分の1ほどを縫い合わせた二幅(ふたはば)手拭とよばれるものがある。脱穀や山仕事に多く使われているが、浜通りにはほとんどみられない。

 伊達郡の川俣町、福島市飯野町地区の絹織物業は江戸時代に農家の副業であった平絹織(ひらきぬおり)に始まり、明治20年代から輸出用軽目羽二重(かるめはぶたえ)を生産して、隆盛をみたが、現在では業界の構造的不況からほとんど行われていない。伊達市梁川(やながわ)町、同市保原(ほばら)町にも製糸、絹織物の農村工業があったが、第二次世界大戦後、桑畑が果樹園に転換されるのに伴ってニット工業が成立、発展してきた。伝統工業を土台にした近代的地場産業成立の一例といえる。

 国指定重要文化財として、福島市真浄院の鍍金金剛鈴(ときんこんごうれい)・金剛杵(こんごうしょ)は9世紀ごろチベットでつくられ、渡来後国内を転々として真浄院に納まったものである。同市大蔵寺(だいぞうじ)の木造千手観音立像は藤原前期の作であり、ほかの24体の仏像は重要美術品である。玉川村岩法寺の五輪塔には1181年(治承5)の銘があり、棚倉町馬場にある都々古別神社の赤糸威鎧残闕(あかいとおどしよろいざんけつ)は、松平定信が『集古十種』に記録したものである。考古出土品としては、1171年(承安1)に同一人が埋納した経筒(きょうづつ)3点が知られている。福島市天王寺の陶製経筒と須賀川市日枝神社の米山(べいさん)寺経塚出土品はともに重要文化財に指定され、桑折町平沢寺(へいたくじ)出土の経筒は東京・静嘉堂文庫に茶の湯水指として収蔵されている。明治の擬洋風建造物として旧福島尋常中学校本館と旧伊達郡役所がある。

 県北・県中には出雲(いずも)系神楽が濃密に分布し、田植踊は県中に多く、同種のものが県南では平鍬踊(ひらくわおどり)とよばれている。この平鍬踊は久慈川水系を北上してきた稲作文化の予祝芸能であろうといわれている。三匹獅子舞系のものは県中・県南の阿武隈高地沿いに数多く残っている。また県中には七福神とよばれる風流踊系の祝福芸能が小正月(こしょうがつ)の行事として伝えられ、二本松市石井の七福神と田植踊が国の重要無形民俗文化財に指定されている。阿武隈高地を中心として「羽山ごもり」という民間信仰が広くみられ、福島市金沢の羽山ごもりは国指定重要無形民俗文化財である。

 会津では付属家屋が少なく、中通り、浜通りにみられた隠居屋はほとんどないので、隠居制もなかったものと思われる。厩中門造(うまやちゅうもんづくり)は只見川・伊南(いな)川流域に多く、積雪量が多いため付属家屋を主屋に取り込んだので平面形が鍵(かぎ)形になったものである。屋内構造はニワに相当する部分に厩、イナベヤ、ニワベヤなどが設けられ、さらに土間の部分にも藁(わら)や莚(むしろ)を敷いて床として使用されることが多かった。

 会津には食生活の古い形態がわずかながら残っている。タンパク質の供給源は大豆と川魚であったが、イワナやヤマメを炉で焼き、火棚に吊(つ)るしたベンケイに刺して自家製の薫製をつくることは、いまでもまれにはみられるが、ほとんどは老人の記憶に残るのみとなってしまった。タラの干物である棒だらの食習は現在も祝い膳(ぜん)のなかにわずかに残っている。川魚のなれずしも、自家用はほとんどみられない。民芸陶器と思われているニシンバチは、農繁期の副食であるニシンのサンショ漬けを漬け込む容器で、現在も広く活用されている。しかしこのニシン漬けも現在では季節感の少ない食物となってしまった。山菜類の塩蔵は冬の副食物として欠かせないものであったが、現在は一部のものが商品化され、地域によっては重要な収入源となっている。ソバの栽培は現在でもみられるが、収穫量は著しく減少した。以前は水田の少ない奥会津で準主食として、また救荒作物として広く栽培されており、水田をもたない檜枝岐(ひのえまた)村では最近まで焼畑でソバがつくられていた。

 県内農村の仕事着は、上衣については地域差がほとんどみられないが、下衣については会津のサラッパカマ圏(猿袴圏)と、浜通り、中通りのモモヒキ圏との相違は明瞭(めいりょう)である。もっともサラッパカマは奥会津で、モモヒキは阿武隈山中でまれに老人が着用しているにすぎなくなった。降雪時に着用する藁、シナ皮などでつくった帽子、ミノ、ゲンベ、深沓(ふかぐつ)などは昭和30年代までは会津各地でみられたが、いまではほとんどみられなくなった。アサの栽培と麻織りは第二次世界大戦後もしばらくみられた。近年大沼郡昭和村でのカラムシ栽培とカラムシ織りの復活は、麻の系譜を引く特異な例である。

 会津本郷焼は江戸時代からの伝統をもち、日用雑器を生産している。会津漆器は江戸時代藩主の保護を受けて発展したが、明治初年に一時期崩壊の危機に直面した。昭和40年代以降プラスチック成型と化学塗料を使用した製品が大量に生産されるようになり販路を広げたが、最近の本物志向が強まるなかでその対応に苦慮している。会津桐の声価が高まったのは明治の後半である。桐製品は高級嗜好(しこう)品のため価格変動が激しく、原料としての出荷が大部分を占め、喜多方市の桐下駄も半製品として移出するものが多い。近年輸入桐材の増加に伴い、キリ栽培、キリ加工とも先細りとなりつつある。

 会津には県内の国指定重要文化財の約半数が集中していて、その内訳は建造物と彫刻の比率が高い。磐梯町恵日寺(えにちじ)の白銅三鈷杵(はくどうさんこしょ)は、奈良時代の作で徳一大師の請来品である。湯川村勝常寺の木造薬師如来及両脇侍像(国宝)・木造十一面観音立像・木造聖観音立像・木造地蔵菩薩立像(2体)・木造四天王立像・木造天部立像、計12体の仏像はすべて平安~藤原前期の作。会津坂下(ばんげ)町浄泉寺の木造薬師如来坐像、会津美里(みさと)町法用寺の木造金剛力士像、同町竜興寺の一字蓮台法華経開結共9巻(国宝)、喜多方市の熊野神社長床なども同時代とされる。鎌倉時代のものでは会津坂下町恵隆寺(えりゅうじ)の観音堂と木造千手観音立像(立木(たちき)観音)、会津美里町弘安寺の旧観音堂厨子(弁天堂)と銅造十一面観音及脇侍不動明王地蔵菩薩立像、同町法用寺の本堂内厨子及仏壇、同町法幢寺(ほうとうじ)の銅造阿弥陀如来及両脇侍立像、喜多方市勝福寺の観音堂、同市中善寺の木造薬師如来坐像、同市願成寺の木造阿弥陀如来及両脇侍坐像、福島県立博物館の絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図、会津若松市金剛寺の金銅双竜双鳥文磬(こんどうそうりゅうそうちょうぶんけい)などがある。ほかに室町期の建造物、江戸期の民家、刀剣類などがあり、有形民俗文化財は6件。民俗芸能関係では南会津町の祇園祭のおとうや行事が重要無形民俗文化財に指定されている。なお会津美里町伊佐須美神社の田植神事、会津若松市河東町冬木沢の空也念仏踊(くうやねんぶつおどり)、三島町の年中行事などに昔の様相がみられる。下郷町大内宿、南会津町前沢区、喜多方市小田付(おたづき)は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

[渡辺四郎・若林伸亮]

伝説

二本松市の阿武隈(あぶくま)川東岸、安達ヶ原(あだちがはら)に鬼女の首を埋めたという「黒塚」がある。『大和(やまと)物語』の平兼盛(かねもり)の歌に「陸奥(みちのく)の安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」とあり、京にまで聞こえた伝説であった。塚の東方、真弓山観世寺の岩窟(がんくつ)は鬼女の住処(すみか)だったといい、寺には鬼女が用いたと伝える鍋(なべ)、鍬(くわ)などがある。この伝説は謡曲『黒塚』で大成し、浄瑠璃(じょうるり)『奥州安達原』で有名になり、歌舞伎(かぶき)にもなった。「文字摺石(もじずりいし)」は福島市山口の文字摺観音堂の境内にある。源融(とおる)の「みちのくの信夫(しのぶ)文字ずり誰(たれ)ゆゑに乱れむと思ふわれならなくに」(古今集)から生まれた伝説である。毛地摺絹をすった石だといわれる。また、『新著聞集(しんちょもんしゅう)』や『南畝莠言(なんぽしゅうげん)』には、石の表面を麦の穂や草の葉でこすると、思う人のおもかげが現れると記されている。郡山市片平(かたひら)町に山の井とよぶ清水(しみず)があり、そのほとりに「采女塚(うねめづか)」がある。葛城王(かつらぎのおおきみ)(橘諸兄(もろえ))に見そめられた農婦が、夫恋しさに都から逃げ帰ったが、すでに夫は亡くなっていた。亡夫を追って山の井に身を投げた女の供養塚であるという。高倉宮の東国流浪のことは、『会津高倉宮勧進帳』や『高倉宮以仁王(もちひとのおおぎみ)御墳墓考』などに記されている。一種の貴種流離譚(たん)であるが、奥会津地方では歴史的事実と信じられており、遺跡・遺品が伝承されている。いわき市川部町の御前淵(ごぜんぶち)には「機織り淵(はたおりぶち)」伝説がある。淵や池の底で機を織る音が聞こえるとか、機を織る女がいたという伝説は全国に広く分布するが、福島県でも郡山市のおぼけ沼、川俣町の小手姫(こでひめ)池、桑折町の半田沼、南相馬市鹿島(かしま)区橲原(じきはら)の機織り淵、相馬市の機織り淵などがある。平将門(まさかど)の遺児が得度して「如蔵尼(にょぞうに)」を名のり、草庵(そうあん)に住んで父の菩提(ぼだい)を弔ったという伝説がある。尼は地蔵を信仰し、地蔵尼ともよばれて村人から深く敬愛されたといわれる。草庵は磐梯町恵日(えにち)寺の西方、松林の中にあり、小さな五輪塔3基が立っている。東北随一の長者といわれた泉長者の屋敷跡が新地(しんち)町にある。飼い牛を追って霊泉を発見し、それで酒をつくり長者になったという。源義経(よしつね)が奥州へ下向したとき、このような長者は天下の害になるとして、弁慶に命じて長者の家に火を放った。巨富はたちまち灰燼(かいじん)に帰したと伝えている。屋敷跡からいまも礎石、古瓦(がわら)、焼き米などが出土するという。

[武田静澄]

〔東日本大震災〕2011年(平成23)の東日本大震災では死者3868人・行方不明224人、住家全壊1万5435棟・半壊8万2783棟の被害を受けた(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。あわせて東京電力福島第一原子力発電所の原発事故が発生し、放射能汚染によって南相馬市、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、飯舘村、葛尾村、田村市、川俣町、川内村、広野町などに避難指示が出された(のちに避難指示解除準備区域・居住制限区域・帰還困難区域に再編)。2018年9月時点で、南相馬市、浪江町、大熊町、双葉町、富岡町、葛尾村、飯舘村の各一部が帰還困難区域、大熊町の一部が居住制限区域、大熊町、双葉町の各一部が避難指示解除準備区域に指定されている。福島第一原子力発電所周辺地域を含め、福島県の避難者数は県内1万1084人(2019年6月30日時点)、県外3万1608人(2019年6月11日時点)に上っている(福島県災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震による被害状況即報」第1755報)。また、放射能汚染の風評被害は県の農林水産業に大きな打撃を与え、2019年(令和1)7月時点で、県内の漁協は沿岸漁業や底引網漁業の操業自粛が続いている。

[編集部 2019年10月18日]

『『福島県史』全26巻(1964~1972・福島県)』『小林清治・山田舜著『福島県の歴史』(1970・山川出版社)』『『角川日本地名大辞典・福島県』(1981・角川書店)』『福島県教育委員会編『歴史の道』(1984・福島県)』『小林清治編『図説 福島県の歴史』(1989・河出書房新社)』『大石嘉一郎編『福島県の百年』(1992・山川出版社)』『『日本歴史地名大系・福島県の地名』(1993・平凡社)』『『ふくしまの文化施設』(『文化福島』1995年11月号・福島県文化センター)』『『福島県統計年鑑』(各年版)』


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