願成寺(読み)がんじょうじ

精選版 日本国語大辞典 「願成寺」の意味・読み・例文・類語

がんじょう‐じ グヮンジャウ‥【願成寺】

[一] 福島県いわき市にある真言宗智山派の寺。山号は菩提山。永暦元年(一一六〇)以前の創建。本堂は白水阿彌陀堂または光堂と称し、中尊寺光堂の模写で国宝。
[二] 福島県喜多方市にある浄土宗の寺。山号は叶山(加納山)。嘉祿三年(一二二七)実成が創建。開山は師の隆寛。

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日本歴史地名大系 「願成寺」の解説

願成寺
がんじようじ

[現在地名]人吉市願成寺町

球磨川北岸の台地突端部に位置する。初め山崎山、後に伝法山と号し、真言宗大覚寺派。本尊の木造阿弥陀如来坐像は国指定重要文化財で、平安末様式の作風をもつが、これは万治元年(一六五八)多良木たらき(現球磨郡多良木町)妙法みようほう寺より移したものと伝える。「求麻外史」などの近世の諸本によれば、天福元年(一二三三)相良長頼が、人吉城の丑寅の鬼門に建立し、開山は真言僧弘秀で、弘秀は長頼に従って球磨に下向したという。この後時宗となったが、永享一〇年(一四三八)須恵すえ(現球磨郡須恵村)平等びようどう(廃絶)の弘尊が住職となるに及んで、再び真言宗になったと伝え、彼を中興の祖とする。

嘉禎三年(一二三七)二月二〇日の沙弥蓮仏相良長頼寄進状案(願成寺文書)によれば、

<資料は省略されています>

とあり、相良長頼が開発した田五町余を寄進したことがわかる。さらにこの寄進行為は延応二年(一二四〇)六月日の八条院政所下文(同文書)によって領家の承認を受けている。当寺の創建は地頭相良氏の強い意志のもとに実現されたことがわかる。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]海南市別所

熊尾寺くまおじ山の東方、日方ひかた川源流近くの東岸にある。衣笠山三滝院と号し、天台宗。本尊千手観音。多田おおた(現海南市)千光せんこう(現廃寺)別当職湛慶が、久安元年(一一四五)秦宿禰守利の相伝の私領であった三上みかみ院一二郷を得て(同年一一月一日「秦宿禰守利私領売渡状案」間藤家文書)重禰しこね郷の奥山中に当寺を建立した。湛慶は近衛天皇の伯父にあたる三品安芸親王で、舎弟宗顕に私領を譲渡した保元元年(一一五六)一一月一一日の僧湛慶私領譲状案(願成寺文書)には「右件三上院、自本主散位秦宿禰守利手、僧湛慶譲得、荒野開発仕、美福門女院御願(歓)喜光院御檀供之御庄寄進畢」とあり、建久二年(一一九一)八月一五日の願成寺敷地註記(同文書)には「願成寺 待賢門院御願也 久安元年十三日建立始也」ともある。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]いわき市内郷白水町 広畑

ノ岳から太平洋に向かって東に延びる丘陵の狭間、白水しらみず川の開析低地にあり、菩提山無量寿院と号し、真言宗智山派。本尊大日如来。永暦元年(一一六〇)白水阿弥陀堂が創建された時に、別当寺として建立されたという。願成寺伝記(寺蔵)には、願成寺の前身は白水寺と称し、「後鳥羽院勅願寺頼朝帰依之伽藍也、常陸大掾国香之孫海東小太郎成衡者、当国之太守秀衡之妹を妻として五男あり、成衡五十余歳にして死す(中略)徳尼永暦元年三月十五日の暁夢想にあつて平泉の本尊阿弥陀仏を遷し、白水に阿弥陀堂を建立白水寺と云」とある。願成寺縁起(寺蔵)には「白水山四神相応地、北有高山名経塚山昔時埋経巻以致供養、徳尼君於常盤大明神勧請、成衡公於熊野権現今本堂左右安置両社是也、又南百歩有旧礎曰故味堂、按鎌倉実記所載白水寺宝蔵者是也」と境域を詳述している。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]一関市釣山

つり山の南東麓にある。白馬山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。至徳二年(一三八五)黒石正法くろいししようぼう(現水沢市)二世月泉の弟子梅栄元香の開山、開基は新山にいやま城主竹内興田盛輔という(一関村安永風土記)。はじめ前渓山と号し、享保九年(一七二四)白馬山と改めた。近世には寺領一〇石を与えられており、本寺正法寺表五ヵ院筆頭職、西磐井にしいわいの曹洞宗寺院触頭を勤めた。末寺は狐禅寺こぜんじ光西こうさい寺・前堀まえぼり長泉ちようせん院、鬼死骸おにしがい正洞しようどう(廃絶)栗原くりはら伊豆野新町いずのしんまち(現宮城県栗原郡志波姫町)龍昌りゆうしよう寺の四ヵ寺。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]喜多方市上三宮町上三宮

上三宮かみさんみや集落字籬山まがきやまにある。叶山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。浄土宗多念義派(長楽寺流)の始祖隆寛を開山とする。隆寛は藤原資隆の子で無我・皆空と号し、比叡山延暦寺で学んだのち法然の弟子となる。嘉禄三年(一二二七)讒言によって奥州(加納庄と伝える)に謫居を命ぜられた。しかし配流の途次、隆寛は護送に当たった毛利(森)入道西阿の帰依を受け、西阿の所領である相模国飯山いいやま(現神奈川県厚木市)にとどまり、配所には弟子の実成を下したという。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]加賀市大聖寺鍛冶町

大聖寺鍛冶だいしようじかじ町の南部にあり、龍谷山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もと江沼えぬま荻生おぎゆう村にあった。寺蔵の親鸞絵伝裏書に「熊坂庄内荻生」の仏乗が応永二六年(一四一九)七月二二日に下付されたとあり、仏乗は当寺系図では三世とする。「反古裏書」に応永一四年の越前藤島ふじしま(現福井市)超勝ちようしよう寺創立の際、加賀の本願寺派寺院は超勝寺与力とされたが、「萩生をきふ 願成寺」は「往古ヨリ御直参」のため例外扱いになったとみえるので、一五世紀初頭には荻生に願成寺が成立していた。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]千代田村上志筑

志筑山惣持院と号し、本尊は十一面観音。閑居山縁起(鈴木劉一氏蔵)によれば、空海が創建し、平安末期に乗海が中興。天永年間(一一一〇―一三)に願成寺の勅号を受けたという。「吾妻鏡」建保六年(一二一八)三月二三日条に「今日、常陸国志筑郷内願成寺住僧等、有参訴事、検注使以新儀可入勘寺領之由、張行云々。仍可停止之趣、右京兆下知給之云々」とあり、当寺の住僧らは、検注使が寺領を検注したことに対し、その停止を幕府に訴え、認められた。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]岐阜市大洞一丁目

権現ごんげん山の北麓にある真言宗智山派寺院。如意山と号し、本尊の十一面観音立像は県指定重要文化財。寺伝によれば、壬申の乱に功労のあった村国男依が天竺伝来の十一面観音の小像と仏舎利を与えられて芥見あくたみ山間さんげん堂を建てたのが始まりで、養老五年(七二一)越の泰澄が現在地に移し、大洞山清水せいすい寺と名付けたという。のち聖武天皇により寺号を現在のように改め、行基に三尺五寸の十一面観音を彫らせ、七堂伽藍・一二坊を整えさせた。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]武生市土山町

土山つちやまの北部山麓にある。宝土山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。応安五年(一三七二)の創立と伝える。開山芳庵祖厳は摂津国に生れ、俗姓二階堂、府中龍泉ふちゆうりゆうせん(現武生市)通幻の十哲の一人。開基は智本(一説に二階堂加賀守吉信とも)で、田地四〇〇町、山三六ヵ所を寄進して、七堂伽藍を建立したという。能登総持そうじ寺末。祖厳は応永二五年(一四一八)没したが、法嗣が一六人あり、なかでも中津原少林なかつはらしようりん寺の嫩桂祐栄春日野盛景かすがのじようけい寺の昌庵、若狭国三方みかた田上常在たがみじようざい(現福井県三方町)の竜室道泉が著名で、孫末寺を加えると全国に一〇〇ヵ寺以上を数える。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]蒲生町川合

玉緒たまお山の南麓、上本郷かみほんごうにある。川合山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。延宝二年(一六七四)成立の願成禅寺記(寺蔵)などによれば、開基は聖徳太子、のち天台寺院となり六坊を構え、河井かわい(川合)六坊とも称されたと伝え、中世には在地領主であった河井氏の保護も厚かったという。文明二年(一四七〇)一〇月日の河井頼慶等連署田地売券(今堀日吉神社文書)によれば、「河井成願寺領」であった今堀いまぼり(現滋賀県八日市市)内の田地一反が「蛇溝兵衛」に売渡されている。永禄年中(一五五八―七〇)兵火にかかって寺運は衰退し、正保年間(一六四四―四八)には観音を安置する大悲堂のみとなっていた。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]丹原町北田野

北田野きたたのの北部、旧松山道西側の天神社の西南方にある。鳳凰山と号し、臨済宗東福寺派。本尊は釈迦如来、庫裏本尊は如意輪観世音。

沿革はつまびらかでないが、寺伝によると延慶元年(一三〇八)源行の開基、天台宗寺門派に属し天門山護国院とよばれたが、文中元年(一三七二)に西園寺公俊(宇和郡松葉まつば城主)が臨済宗に改め、現寺号としたとされる。宝永七年(一七一〇)の「周布郡大手鏡」には「京東福寺末寺 禅宗鳳凰山願成寺 本尊釈迦」と記される。明治初年の「伊予国周布郡地誌」には「境内東西三拾六間、南北三拾間、面積三反一畝拾三歩、村ノ北方四町字北野ニアリ」とある。

願成寺の西南に近接して三願寺さんがんじ跡があり、ここは三願寺泉の付近といわれる。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]内子町内子 廿日市

内子町の中心街のはずれ西南台地上にある時宗寺院。山号宮床山。本尊阿弥陀如来。江戸時代初期の「願成寺相続記」(願成寺所蔵)によれば、大化年間(六四五―六五〇)越智益躬の開基。二祖智真一遍、三祖聖戒(一遍異母弟)。戦国時代三回にわたる長宗我部勢などの兵火により伽藍焼失。慶長年間(一五九六―一六一五)大洲藩主藤堂高虎が菩提寺として再興したとある。「六日市永久録」(西野氏所蔵文書)によれば、延宝三年(一六七五)遊行四四世が当寺へ参籠し、この時から時宗藤沢山遊行ゆぎよう(現神奈川県藤沢市)の末寺となったという。同書に寛政一一年(一七九九)寺社改の節、境内は東西九九間半、南北一八間半、坪数三六〇坪七合余とあり、田一町七畝二三歩、ほかに三畝ほど無竿田あり、宛米一六石二斗四升五合と畑四反四畝二三歩、ほかに正新開無竿三ヵ所があり、宛豆三石五斗四升二合が記載されている。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]韮崎市神山町鍋山

神山町鍋山かみやままちなべやま集落の東方、釜無川の右岸から神山町北宮地の武田かみやままちきたみやじのたけだ八幡宮へ向かう道沿い南側にある。鳳凰山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。古くは天台宗であったといい、開基は逸見冠者清光の子武田信義(法名願成寺殿)とされる。「甲斐国志」によれば初め隆盛であったが、信義・忠頼父子の没落により寺運も衰退し、その後武田信玄の甥俊虎が中興した。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]柳田村長尾

長尾ながお集落中央、公文くもん小路の上手にある。葦原山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、天平神護年中(七六五―七六七)泰澄が来国し、弟子願成が当地にとどまって密教の道場を開き、永禄一〇年(一五六七)慶誓が上洛して本願寺教如の弟子となり、改宗して願成寺と称したという。住職は長尾氏を名乗っている。元治元年(一八六四)の長尾村百姓中人別持高書上帳(柳田村の集落誌)によれば高三三五石、百姓数四一(そのほかに俗称百姓一・掛作百姓二)で、うち一三石余が願成寺俗称久兵衛分、これと同族の与兵衛分・和右衛門分を合せると、三人で村高の四分の一に相当する。これらのことから長尾氏の先祖は能登修験の一拠点である舞谷御前まいだにごぜん(現輪島市)で修験持呪を行い、やがて舞谷川沿いに下山して密教道場を開き、有力土豪に成長。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]加賀市勅使町

勅使ちよくし町の集落中央にあり荻生園おぎゆうぞん願成寺と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。もと荻生にあった願成寺が本願寺の東西分立によって二分したもので、一は大聖寺鍛冶だいしようじかじ町の龍谷山願成寺であるが、それぞれ由緒を異にする。当寺の寺伝では古く手取てどり川上流域にあった天台宗花山かざん千坊の一つで、花山願成寺といったがのち親鸞に帰依し、蓮如のときに住職が蓮智の名を下賜された。寺は花山(現白峰村)から荻生・しよう水田丸みずたまるの各村を経て元和年中(一六一五―二四)勅使村に移ったという。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]高萩市赤浜

赤浜あかはまの東方海岸沿いの低い台地上に松林に囲まれてある。松塚山賢能院と号し、日蓮宗。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に嘉元元年(一三〇三)日蓮の弟子日弁の開山とある。上総国鷲巣わしのす(現千葉県茂原市)鷲山じゆせん寺末であったが、徳川光圀の社寺改革により築地つきじ(現東京都)妙光みようこう寺末となり、さらに元禄一二年(一六九九)久慈郡稲木いなぎ(現常陸太田市)久昌きゆうしよう寺末となった。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]中村区高須賀町

高須賀山と号し、天台宗。本尊阿弥陀如来。春日井郡野田のた(現春日井市)密蔵みつぞう院の末寺。願成寺書上帳によれば、天平四年(七三二)聖武天皇勅願により、行基を開基とし、寺領三〇町を与えられた。「寺家十二坊堂塔悉ク備ハリ近村末寺数拾ケ寺有之」という大寺院であった(府志)。「理趣釈口決抄」の貞治三年(一三六四)写本(真福寺蔵)の奥書に「尾州愛知郡乍ノ郷高須賀大乗坊」とある大乗坊は、この一塔頭であろう。

大永七年(一五二七)没の盛海が、馬嶋大智坊重常の助けを受けて再興(寺過去帳)し、永禄年中(一五五八―七〇)の兵火を受けたものの寛永年間(一六二四―四四)澄盛により薬師堂が再興された。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]徳島市寺町

てら町のほぼ中央にある。天徳山と号し、真言宗御室派。本尊は不動明王。「阿波志」によると宥蓮の創建で古くは寺島てらしまの岩田某宅地にあったが、天正年中(一五七三―九二)に寺町に移ったという。寺島以前の寺歴は一切不明。宥蓮は元和年中(一六一五―二四)佐古さこ清水せいすい寺を再興し隠居所としているから(阿波志)、当寺の創建は蜂須賀氏入部後まもなくのことと考えることもできよう。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]延岡市新小路

大瀬おおせ川南岸、愛宕あたご山北麓に位置する。仏日山と号し、曹洞宗。本尊は観音菩薩。養老二年(七一八)の創建という(延陵旧記)。その後土持相模守栄時が再興したという(日向地誌)。寛文九年(一六六九)雲山が再興、延宝元年(一六七三)台雲だいうん寺四世実堂鎖伝が継承した(宮崎県史蹟調査)。寛文年間、延岡藩主有馬康純によって寺領一〇石を寄せられたという(国乗遺聞)

願成寺
がんじようじ

[現在地名]旭川市五条通

真宗出雲路派別格別院。本尊阿弥陀如来。明治三三年(一九〇〇)二月旭川町三条通さんじようどおり五丁目左に説教所設置の認可を受け、同三五年二月担当教師として菅野正清が任命された。同年六月四条通よじようどおり一四丁目左に移転。同四〇年七月願成寺の寺号公称を許可された。大正五年(一九一六)現在地に移転。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]西尾市巨海町 西脇

国道二四七号沿いに立つ石標から、小道を西へ入ったところに位置する。海会山と号し、臨済宗妙心寺派。もとかみ町のもと実相じつそう寺末寺。本尊阿弥陀如来。三河守足利義氏の孫にあたる満氏の母本成大姉の発願により創建。満氏が母のため元弘元年(一三三一)修理拡張を加え、大禅林とし、実相寺第三世可菴円慧を招いて開山とする。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]五泉市川瀬 上本田

川瀬かわぜの南部にある。曹洞宗、持地山と号し、本尊は延命地蔵菩薩。文亀二年(一五〇二)堅室宗玉の創立で、開基は前屋まえやの城主法名白意全教大禅定門と伝える。寺宝に奈良時代前期のものとみられる総高約三〇センチの銅造観音菩薩立像があり、県指定文化財。

願成寺
がんせいじ

[現在地名]豊田市畝部東町 中切

松泉山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。天徳二年(九五八)の創建と伝え、もと天台宗。実如の代かと推定される本尊絵像から、野寺のでら(現安城市)本証ほんしよう寺の末寺であることがわかる。なお、元亀元年(一五七〇)に始まる石山戦争には、願成寺も参戦している。

願成寺
がんじようじ

[現在地名]吉良町中野 郷中

中野なかのの集落の中、平地に位置する。幽谷山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、応仁元年(一四六七)五月、賢明の建立という。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「願成寺」の意味・わかりやすい解説

願成寺
がんじょうじ

福島県いわき市内郷(うちごう)白水(しらみず)にある新義真言宗豊山(ぶざん)派の寺。境内に白木造りの阿弥陀(あみだ)堂(国宝)があるので、俗に白水阿弥陀堂とよばれている。阿弥陀堂は、1160年(永暦1)藤原基衡(もとひら)の娘で、岩城(いわき)(平)則道(のりみち)の側室であった徳尼(とくに)御前が則道の死後その冥福(めいふく)を祈って建てたものである。平安中期以後、浄土教の隆盛とともに各地につくられた阿弥陀堂の一つで、方三間、宝形造、栩葺(とちぶ)きの堂は、当時流行の阿弥陀堂形式の代表的遺構である。堂内には極彩色で描かれた跡が残り、阿弥陀如来(にょらい)像、観音菩薩(かんのんぼさつ)像、勢至(せいし)菩薩像、多聞天(たもんてん)像、持国天(じこくてん)像が安置されており、いずれも国重要文化財に指定されている。

 なお、近年の発掘調査により、浄土式庭園を伴う伽藍(がらん)配置が明らかにされ、阿弥陀堂境域は国の史跡に指定されている。

[田村晃祐]


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改訂新版 世界大百科事典 「願成寺」の意味・わかりやすい解説

願成寺 (がんじょうじ)

福島県いわき市内郷白水町にある寺。もと天台宗,現在は真言宗智山派。白水阿弥陀堂として名高い。藤原秀衡の妹徳尼が夫(岩城則通)の菩提をとむらうために,1160年(永暦1)に創建したと伝える。阿弥陀堂(国宝)は広い浄土式庭園の中島に建つ方3間の浮御堂で,中尊寺金色堂とともに常行三昧堂の古式をのこす建築(阿弥陀堂)。本尊の木造阿弥陀三尊像,持国天・多聞天像がのこり,堂とともに平安時代後期に隆盛した浄土教美術を代表する。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「願成寺」の意味・わかりやすい解説

願成寺【がんじょうじ】

熊本県人吉(ひとよし)市にある真言宗大覚寺派の寺。本尊の平安様式を持つ木造阿弥陀如来座像(1658年球磨(くま)郡の妙法寺より移したという)は重要文化財。1233年地頭相良長頼(さがらながより)が人吉城の丑寅の鬼門に建立。江戸初期13世勢辰の時大覚寺門跡末となり,球磨郡真言宗寺の統括権を握った。相良家累代の墓地がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「願成寺」の意味・わかりやすい解説

願成寺
がんじょうじ

福島県いわき市にある浄土宗の寺。国宝指定の阿弥陀堂 (白水阿弥陀堂) は永暦1 (1160) 年の建立。岩城国守の岩城則道の夫人となった藤原清衡または藤原基衡の娘,あるいは藤原秀衡の妹ともいわれる徳姫が建立した。宝形屋根の阿弥陀堂は平安時代の典型的な阿弥陀堂建築で,堂前に池を配し橋を渡した浄土式庭園を構えている。

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世界大百科事典(旧版)内の願成寺の言及

【喜多方[市]】より

…近年は電気機器工業が大きく発展している。上三宮の願成(がんじよう)寺の木造阿弥陀如来三尊座像や慶徳の熊野神社の長床(ながとこ)(拝殿)は重要文化財となっている。市内には座敷蔵,れんが蔵など多くの蔵があり,75年ころテレビや雑誌で紹介されたのを機に〈蔵づくりの建物とラーメンの町〉として有名になった。…

※「願成寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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