会津(あいづ)(読み)あいづ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「会津(あいづ)」の意味・わかりやすい解説

会津(あいづ)
あいづ

福島県のほぼ西半部の地域。行政上は会津若松喜多方(きたかた)の両市と、耶麻(やま)、河沼、大沼南会津の4郡を含む。古代から近代初期まで存在した郡名で、奈良時代初期の一時期石背国(いわせのくに)に所属した。相津(『古事記』)、安比豆(『万葉集』)、阿比豆(『和名抄(わみょうしょう)』)とも表記された。四道将軍の一人大毘古命(おおひこのみこと)が北陸からきて、東海地方からきた子の建沼河別命(たけぬまかわわけのみこと)とこの地で出会ったことから会津の称が出たといわれる(『古事記』)。また中央の会津平(だいら)で多くの川が会合して、平坦(へいたん)地をつくることから会津の名が出たともいわれる。

 平安時代には法相(ほっそう)宗の僧徳一によって磐梯山麓(ばんだいさんろく)に恵日寺(えにちじ)(慧日寺)(磐梯町)が建てられ、広大な寺領を有した。その後恵日寺は荒廃したが、会津に仏教文化が根づいたのはこの時代で、いまでも会津平には勝常(しょうじょう)寺、恵隆(えりゅう)寺、法用寺、願成(がんじょう)寺などの古寺が多い。中世には蘆名(あしな)氏が会津のほぼ全域を統一し、その後伊達(だて)氏、蒲生(がもう)氏などの支配下にあったが、1643年(寛永20)以降は保科(ほしな)氏(後の松平氏)の所領となり明治に至った。保科氏の時代、会津南部は南山御蔵入(みなみやまおくらいり)と称する幕府領であったが、永年会津藩の預(あずかり)地であった。福島県内でも中通(なかどおり)地方などと違って領主の変遷も少なく、また周囲を山に囲まれ、高い峠を越えないと他地方との往来ができないなどの地理的事情から、会津には固有の文化が発達した。会津方言はその一例である。農作業用の服装や厩中門造(うまやちゅうもんづくり)の民家の形にもその名残(なごり)をとどめている。そのうえ雪国なので、冬の用意のための食料(ニシン漬け、野菜の漬物など)では家々の伝統が現存している。藩政時代にはウルシを栽植し、蝋漆(ろうしつ)の生産を行った。米と蝋は二大産物で、現在も会津塗や絵ろうそくなどの特産がある。南山は山岳地帯であり、会津のなかでも隔絶性が高く、それだけ古い文化や民俗を残している。南山通り会津西街道)に沿う大内宿(重要伝統的建造物群保存地区に選定)、檜枝岐歌舞伎(ひのえまたかぶき)の舞台(国指定重要文化財)などは貴重な文化財であり、南会津町には奥会津博物館がある。

[安田初雄]


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