松尾村(読み)まつおむら

日本歴史地名大系 「松尾村」の解説

松尾村
まつおむら

[現在地名]土佐清水市松尾

足摺あしずり半島西岸の村で、伊佐いさ村の西に接する鼻前はなまえ七浦の一つ。当地には唐人駄馬とうじんだばやまかみおきだいなどの縄文遺跡が太平洋を見下ろす海岸段丘上にある。唐人駄馬・山ノ神からは、少量ながら弥生式土器片も出土している。

天正一七年(一五八九)の松尾之村地検帳によれば検地面積七町五反余、屋敷数三六うち居屋敷二五。屋敷のうちには海雲庵・光林庵・ヲドリ堂が含まれる。すべて足摺(金剛福寺)分であるが、ホノギに経塚がみえ、水主源太良・同助左衛門・同弥介・同弥藤兵衛らの居屋敷がある。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)によると伊佐・松尾両浦を統轄する刀禰がおり、天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書も両浦合せて水主数・船数を記す。江戸時代の当村は「土佐州郡志」が「松尾村南向 東西二十五六町許南北三町許、戸十六」「松尾浦南向 東限伊佐浦、西限大浜浦、東西一里南北二十町許、戸凡三十四、船十四」と記すように、郷分・浦分に分れていた。元禄地払帳によると本田高七五石余で蔵入地、新田高五三石余で貢物地。

宝永四年(一七〇七)の「亥の大変」では被害はなく(南路志)、同七年の下灘浦々縮書は以下の数値を記す。分一役所一、御米蔵一、津口一(保佐・薪少々積出)、高札場八、家数三四、人数一七四(去年より一人増)、船数四(うち廻船二・漁船二)、網数四、網代五、馬八、牛四。

松尾村
まつおむら

[現在地名]池田町松尾など

中津川なかつかわ村の南、松尾川流域に位置。東は漆川しつかわ村、西は川崎かわさき村。地名は慶長年間(一五九六―一六一五)に松尾瀬後佐古(瀬戸佐久)が開発したことにちなむという(郡村誌)。瀬戸佐久は落武者とも伝えられる。慶長二年の分限帳に松尾とみえ、一二五石が牛田掃部助の知行。慶長七年九月三日、松尾山八町のうちでの竹木伐採・殺生を禁じる禁制が下されている(阿淡年表秘録)。松尾山は当地の中津なかつ山をさすとみられる。正保国絵図には松尾山とみえ、高一二五石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳にも松尾山とあり、高一二五石すべてが畑方で芝山・小はへ山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高二〇〇石余。宝暦一一年(一七六一)の巡見村々指出(三好郡志)では高二〇五石余・物成五一石余。

松尾村
まつおむら

[現在地名]松尾村松尾

あか川の支流沿いに広がり、南は野駄のだ村、東は平館たいらだて(現西根町)、北は荒木田あらきだ(現西根町)荒屋あらや(現二戸郡安代町)。近世初期村内に金山があり、「雑書」寛永二一年(一六四四)五月二六日条に、「於松尾金山、越後之国休五郎」など四人がキリシタンとして捕らえられ、翌二七日に検使により尋問を受けている。正保国絵図に村名がみえ、高一〇〇石余。「雑書」慶安四年(一六五一)一一月二九日条に「今日御知行被遣事、岩手郡松尾・荒木田・三戸郡斗内、此三ケ村ニて弐百石、山田宗右衛門」とある。

松尾村
まつおむら

[現在地名]熊本市松尾町上松尾まつおまちかみまつお

金峰きんぼう(六六五メートル)中腹南斜面からほぼ坪井つぼい川右岸に広がり、西は坪井川河口から有明海に面し、北は五町手永の平山ひらやま村・近津ちこうづ村、南は権現ごんげん(二七三・二メートル)で下松尾村に接する。天文四年(一五三五)の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書)鹿子木西かのこぎにし庄のうちに「十二町 松尾」とある。慶長九年(一六〇四)九月の松尾村の検地帳では、田方八四町五反余・畠方七九町九反余、分米一千三七七石四斗余とある。同一三年の松尾村の検地帳では、高一千五〇四石七斗余、田畠合計一五六町八反余、家数二三六、男一〇九・女一〇一、年寄一四・せがれ三七、牛三四、桑一二・柿一〇・蜜柑五・九年母四を記す。

松尾村
まつおむら

[現在地名]関ヶ原町松尾

関ヶ原村の西に位置し、西方の藤下とうげ村境を藤古ふじこ川が南東流する。集落は中山道沿いに集まり、集落中央に高札が置かれた(中山道分間延絵図)。律令制下には村内大木戸おおきどを中心とする一帯に不破関が設置され、三関の一として重要な役割を果した。それにちなむか、当地を大関おおぜきともよぶ。岩手氏系図(美濃国諸家系譜)頼重(嘉吉三年没)の項に「美濃国不破郡岩手・府中・栗原・梅谷・荒尾・松尾・大石等略領之」とある。竹中旧記(黒田家蔵)の元亀元年(一五七〇)四月に「重治長亭軒ヘ行テ樋口ニ対面シ、信長卿ニ属セシム(中略)右長亭軒ト云ハ不破郡松尾山之事也」とみえる。

松尾村
まつおむら

[現在地名]高月町松尾

西野にしの村の東、しずたけ山系磯野いその山南麓の丘陵に立地。集落東の山畑やまばた(俗称サイト山)に古墳がある。寛永石高帳では高四〇七石余で幕府領。正保郷帳では下総古河藩領。元禄郷帳では枝村であった重則しげのり村が分離独立、高二四六石余、旗本小栗領(幕末に至る)。しかし天明村高帳・文政石高帳では重則村・松尾村を合せて四〇七石余とみえ、分村後も一村で高付されることがあった。天保八年郷帳では松尾村の高二二二石余。元禄八年(一六九五)当村は重則村と河原の田地の所有を争い、半分ずつ分けることにした。

松尾村
まつおむら

[現在地名]三重町松尾 松尾

広瀬ひろせ村の南、ほぼ北流する三重川支流松尾川流域にある。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には松尾村の一冊が含まれ、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳に松尾村とみえ、高二六二石余、門田組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方二四九石余・畑方八九石余、日損所、古城・松山ありと注記される。正保郷帳では三重之庄に属した。文政(一八一八―三〇)頃までには広瀬村・高屋たかや村の二村が分村していた。この二村が別に記される旧高旧領取調帳では当村の高一六三石余。

松尾村
まつおむら

面積:二三三・八四平方キロ

岩手郡北西部に位置し、東は西根にしね町、西は秋田県仙北せんぼく田沢湖たざわこ町、南は雫石しずくいし町および滝沢たきざわ村、北は二戸郡安代あしろ町に接する。三方を奥羽山脈に囲まれ、温泉が湧き硫黄を産し、湖沼や滝が点在する。河川は奥羽山脈に源を発しまつ川・あか川となって東流し沿岸に耕地が開ける。内陸性気候で寒暖の差がはげしく、また平野部では一〇月初旬の初霜、五月下旬の晩霜が農業に大きな影響を与えている。山岳部での積雪は三―四メートルにも及び、良質の雪質と春遅くまで使用できる気象条件とが相まって、りゆうもり八幡平はちまんたい・松川・東八幡平など村内各地にスキー場がある。

松尾村
まつおむら

[現在地名]吾妻町松谷まつや

吾妻川左岸にあり、東は岩下いわした村。吾嬬かづま(一一八一・五メートル)高間たかま(一三四一・七メートル)を結ぶ尾根の南側山麓の村。がんさわ川が吾妻川に合流する。東に続く岩下・矢倉やぐら郷原ごうばらと同じく「山代庄岩下」(神道集)とよばれていた。中世は岩櫃いわびつ城の搦手にあたり、信州方面への高間越暮坂くれさか道と、道陸神どうろくじん峠越信州道が交わる。永禄六年(一五六三)九月、岩櫃城攻略のため真田信綱は高間山から松尾に出た(加沢記)

松尾村
まつおむら

[現在地名]平村上松尾かみまつお

田代たしろ村の東に位置する。峰地みねじとよばれる高地東端の村。田代村との村境は不分明で、集落の下方は断崖をなして庄川へ落ちる。天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「下梨」の内にみえる松尾九郎左衛門尉は、同申定写(瑞願寺文書)の注によると、元禄元年(一六八八)十村役となった松尾村与次兵衛の先祖にあたるという。与次兵衛の養子長左衛門も十村になったが、不便な土地柄を避け、家高を処分して同一六年下梨しもなし村へ移住して十村役を勤めた。

松尾村
まつおむら

[現在地名]大多喜町松尾

中野なかの村の東、庄司しようじ村の北、西畑にしはた川左岸に位置する。大多喜往還と木更津への道が交差する。元禄郷帳などでは中野村枝郷として松尾村とあるが、早くから上松尾(松尾とも)・下松尾に分れていた。文禄三年(一五九四)三月七日の西之畑之内松尾村坪入改帳(松尾区有文書)では、上松尾分の永高四貫九三七文、名請人一一、屋敷地七筆で名請人七。

松尾村
まつおむら

[現在地名]栃尾市松尾

南は栗山沢くりやまざわ村、北は来伝らいでん村、北西に寒沢つめたざわ入東谷いりひがしだに地区のなかでは栗山沢村に次いで奥地に位置するいし峠の西の山麓の村。傾斜地が多く、水田は帯状に散在する。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)によると、飯沼遠江守の被官で代官の五郎右衛門および塚田右京亮分に「松尾」がみえる。明応六年(一四九七)の国衙之帳(「古文書集」所収文書)の「たかなみ之分」に「五十二文 松尾殿」とみえるほか、飯沼孫二郎殿・ミや太郎殿・松崎殿が「松尾」より役銭を納めている。

松尾村
まつおむら

[現在地名]太子町松尾

いかるが村の北東に位置する。古代から中世にかけて松尾寺があり、保延四年(一一三八)の播磨国在庁官人桑原貞助発願一日頓写大般若経(「わたりやぐら」四所収)奥書によると、松尾御堂南面や松尾寺御前で書写した巻もみえる。また正安三年(一三〇一)書写山(現姫路市)の正覚院で灌頂大法を受けた者のなかに松尾の僧がみえる(「拾集」円教寺蔵)。嘉暦四年(一三二九)四月日の鵤庄絵図(法隆寺蔵)には北部に松尾寺・松尾寺寺領畠等・松尾寺講田などの記載がある。

松尾村
まつおむら

[現在地名]国府町松尾

吉野よしの村の東に位置する。もとは吉野村に含まれたが、元禄一四年(一七〇一)同村の枝郷として分村した(「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。元禄郷帳によれば高四九石余。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳に載る高一八石余は拝領高相当分と考えられる。本免は六ツ六分。川口氏・加藤氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数一八。

松尾村
まつおむら

[現在地名]茅ヶ崎市松尾・浜見平はまみだいら柳島やなぎしま一丁目

南は柳島村、東は茅ヶ崎村に接し、北の下町屋しもまちや村に飛地がある。東境を小出こいで川が流れていたが、昭和初年の河川改修により西境に移り、旧流路は現松尾川となる。「風土記稿」は円蔵えんぞう郷と称したという。

寛永二年(一六二五)の旗本戸田氏への知行宛行状(県史八)に「町屋郷松尾村百六拾五石」とある。享保二〇年(一七三五)幕府直轄領、宝暦一二年(一七六二)より旗本岡部領。天和三年(一六八三)大通行に際し馬入ばにゆう村新田(現平塚市)内の東海道四五間分の掃除・普請を今宿いまじゆく村とともに命ぜられた(「東海道宿村道場間数高書帳」大和市史四)

松尾村
まつおむら

[現在地名]菊間町松尾

高縄たかなわ半島の北西部、菊間きくま川の上流、霧合むごう川との合流点付近にあたり、村域はほとんど丘陵地帯である。戦国期の城跡黒岩くろいわ城があり、土居どい西屋敷にしやしき的場まとばなどの地名を残している。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「松尾村 芝山有、林少有、小川有」とみえ、村高は三八二石二斗一升四合である。「野間郡手鑑」によると、享保末年から元文(一七三六―四一)頃の村は田一八町一反、畑一八町八反、新田畑七反余で、村高は二一四石余、家数五一軒、人数二六七人、嘉永三年(一八五〇)頃では家数五二軒、人数二〇六人と減少した。

松尾村
まつおむら

[現在地名]美山町大字豊郷とよさと 松尾

つるおか一九ヵ村の一。棚野たなの川の支流西にし川の左岸に開けた山間集落。川の上流(北西)名島なしま村、下流(南東)船津ふなづ村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より篠山藩領となる。

松尾村
まつおむら

[現在地名]伊自良村松尾

竜興寺りゆうこうじ(二九二メートル)南麓に集落があり、東は上願じようがん村、北はかけ村。もと伊自良村のうちで、元禄郷帳に高三七九石余とあり、旗本松平太右衛門と同押田藤左衛門との相給。明治大学刑事博物館本元禄郷帳では、押田領は三三九石余、松平領は三九石余。押田領は慶安三年(一六五〇)から、御望ごも(現岐阜市)の旗本松平領は延宝八年(一六八〇)から。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば押田領は田一〇町三反余・畑一五町六反余、家数二九、人数男八四・女六四。御望松平領は田一町二反余・畑一町九反余、家数一一、人数男三九・女二七。押田領で安政六年(一八五九)二月お鍬様騒動が起こった。

松尾村
まつおむら

[現在地名]清川村雨堤あまづつみ 松尾

宗福そうふく村の南、東流する奥岳おくだけ川北岸台地上にある。正保郷帳に村名がみえ、田高二三石余・畑高三七石余、耳忍みみしの郷に属し、柴山有と注記される。「豊後国志」に記される造士ぞうし村は当村をさすか。安永七年(一七七八)には牧組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。天保(一八三〇―四四)頃の御案内記(大久保家文書)によれば、高一二三石余・反別二一町二反余。免六ツ六分の下の村で、物成は米四〇石余・大豆六三石余、家数三〇・人数一二一、牛四八・馬一一。当村の字小迫おさこは正保郷帳に小迫村とみえ、田高六石余・畑高六石余、耳忍郷に属した。

松尾村
まつおむら

[現在地名]柵原町松尾

藤田下ふじたしも村の北、和気わけ谷筋に立地する。北東は上間うわま村。永禄六年(一五六三)五月一〇日の鷹取源右衛門宛某感状(美作古簡集)によれば「松尾」で合戦があった。正保郷帳に村名がみえ、田八一石・畑三二石。元禄二年(一六八九)の差出控(弓斎収集史料)では高一三四石余、林山三町四反余、家数一七(うち本百姓八・名子家来九)。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は下谷しもだに村と同様。寛延四年(一七五一)の村明細帳(日野田文書)によれば家数二二、男五八・女四七。農間余業に男は縄・筵・薪木などを売り、女は自分の着用分のほか商品用に木綿を紡いだとある。

松尾村
まつおむら

[現在地名]鳥羽市松尾町

鳥羽湾に流入する加茂かも川の中流、白木しらき川と松尾川の合流する小谷平野にあり、北に岩倉いわくら村、西は白木村に接する。砥石峠といしとうげ遺跡・山川やまかわ遺跡・隠田おんでんおか遺跡がある。「神鳳鈔」に「株尾御薗八反、畠二丁」とみえ、株尾御園について「志摩国旧地考」では「神鳳抄松ヲ誤テ株ニ作レリ」と記している。

近世を通じて鳥羽藩領で、答志とうし郡の小浜組に属する。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高四三九・〇〇七石のうち山年貢高三石が寛文四年(一六六四)から定引となっている。

松尾村
まつおむら

[現在地名]野津町亀甲かめこう 松尾

熊迫くまさこ村の南にあり、東は笠良木かさらぎ村。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には松尾村が塚田つかだ村など五ヵ村と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高一一七石余。中ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一〇四石余・出来高一七石余、田方六〇石余・畑方六一石余。正保郷帳では野津之院に属した。旧高旧領取調帳では高一二二石余。江戸時代後期の免は六ツ四分(「雑録」臼杵藩政史料)

松尾村
まつおむら

[現在地名]小矢部市松尾

礪波山となみやま丘陵東麓、松永まつなが村の南に位置。中世には山城国松尾まつお神社(現京都市西京区)領松永庄に含まれ、同社の分霊を勧請したことによる村名という(越中志徴)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「松の尾」とみえ、役家数一五、高木組に属する。正保郷帳では高六九九石余、田方四五町余・畑方一町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高六二八石・免五ツ三歩、小物成は山役五五匁(三箇国高物成帳)

松尾村
まつおむら

[現在地名]三瀬村大字ゆずりは字松尾・あざみ佐古さこ落合おちあい

三瀬峠に通じる三瀬山道に沿って発達し、初瀬はつせ川の右岸にあたる。正保絵図に村名がみえる。

村内に松尾山善正ぜんしよう寺があり、浄土真宗本願寺派。寺伝によればもと背振せふり千坊天台宗配下で福寿ふくじゆ寺と称し、一時曹洞宗に属したが、慶長一七年(一六一二)正竜によって再興され、転宗改号。

松尾村
まつおむら

[現在地名]岡山市松尾

佐山さやま村の西に位置し、同村とは丘陵が境をなす。西は大窪おおくぼ村、南は今岡いまおか村。集落東方の大池おおいけ北側の尾根に、大池北西おおいけほくせい古墳群がある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高三八六石余。正保郷帳では枝村に東谷ひがしだに村が載る。「備陽記」によると田畠三一町七反余。元禄(一六八八―一七〇四)頃の手鑑(則武文書)では直高三四五石余、蔵入。家数三九・人数二八八、牛二五・馬一六。

松尾村
まつおむら

[現在地名]羽黒町松尾

北流するあか川右岸、東川原ひがしかわら村・西川原村の北西に位置する。マトとも発音した(享和二年「庄内領郡村仮名付帳」酒井家文書)。用水は集落東方を北流する中川なかがわ堰の支堰の天高てんこう堰を利用した。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録では高三〇三石余、正保郷帳では田高三〇〇石余・畑高五七石余、ほかに社領(羽黒権現社領)三石余。

松尾村
まつおむら

[現在地名]山添村大字松尾

的野まとの村の北に位置する。天喜四年(一〇五六)一二月一六日付の東大寺政所下文案(東南院文書)に「新薬師寺杣水間松尾庄司」とみえる。慶長郷帳の村高一三五・五三石、御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領、のち同藩の二割半無地高増政策で村高は一六三・一六三石となる。延宝七年(一六七九)幕府領、元禄一五年(一七〇二)川越藩(柳沢吉保)領、宝永元年(一七〇四)幕府領となり、享和元年(一八〇一)再び郡山藩(柳沢保光)領となる。

松尾村
まつおむら

[現在地名]八幡浜市松柏まつかや

千丈せんじよう川中流域の村。東は下郷しもごう村、西は北茅きたかや村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「松尾村 茅山有、小川有」と記される。庄屋は八幡浜浦庄屋の兼任であった。宇和島藩領。

太閤検地の石高は一九二石六斗八升九合、耕地面積の比率は田六三パーセント、畑三七パーセントであったが、寛文検地では石高が二八パーセント減少し、田三八パーセント、畑六二パーセントとなり、畑の開発が進んでいる。

松尾村
まつおむら

[現在地名]西会津町尾野本おのもと

茅本かやもと村の北に位置し、越後街道の脇道の一、勝負沢しようぶざわ峠越が通る。河沼郡野沢組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに松尾とみえ、高五〇九石余。寛文五年(一六六五)の野沢組土地帳(西会津町史編さん室蔵)では高五一六石余、家数四二、男一五〇・女一三三、馬三一。

松尾村
まつおむら

[現在地名]園部町船岡ふなおか 松尾

北に山を負い南方に開けた村。西は藁無わらなし村、東は上河内かみこうち村、北は志和賀しわが(現日吉町)、南は千妻せんづま村。園部藩領。幕末の家数は二九、人口一二一(「口丹波風土記」所引園部藩記録)

北背後の山頂平坦部は高山たかやま城跡とよばれ、八木やぎ(跡地は現八木町)城主内藤氏の一族の居城であったと伝える。

松尾村
まつおむら

[現在地名]大洲市松尾

ひじ川の支流嵩富かさとみ川の中流域東西両岸に沿う峡谷の小村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「松尾村 茅山有」とある。大洲藩領。元禄初年、大洲三代藩主加藤泰恒が、上方から来た陶工才兵衛に命じて梁瀬やなせ山麓で藩用の陶器を焼かせた窯跡がある。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」によれば、米・大豆・薪・火縄・莚の土産がある。「寛政元年御巡見御案内ニ付手鑑」(一七八九)には、物成米一四一・四石、物成豆四五・九石、免六ツ七厘とある。

松尾村
まつおむら

[現在地名]水口町松尾

水口美濃部みなくちみのべ村の北、水口丘陵に立地し、村の中ほどをおもい川が西流する。中世は柏木かしわぎ御厨に属し、正平九年(一三五四)一〇月日の山中道俊置文案(山中文書)に「マツヲ」とある。寛永石高帳では下総古河藩領、天和二年(一六八二)水口藩領となり幕末に至る。

松尾村
まつのおむら

[現在地名]舞鶴市字松尾

青葉あおば山の南西山麓の平坦地に立地し、東は若狭国境の今寺いまでら(現福井県大飯郡高浜町)、北は杉山すぎやま村に接し、南には若狭街道が東西に通る。

慶長検地郷村帳に高九〇・六九石「松尾村」とみえ、土目録には総高九〇石余とあり、うち田方六九石余、畑方二一石余、運上として渋柿二斗五升、端折紙三束などが記される。

松尾村
まつおむら

[現在地名]今治市五十嵐 松尾

もと村と一村であったが、慶安元年(一六四八)の今治御領分新高畝村人数帳では五十嵐いかなし村と併記され、高四七三石九斗、田畑三二町六反、人数一六六人と記されている。貞享元年(一六八四)の今治藩御改革領内調書では五十嵐村と分け、高二四三石八斗、田畑一七町三反、家数三七軒(牛屋とも)、人数一三六人とある。

松尾村
まつおむら

[現在地名]竹田市下坂田しもさかだ

稲葉いなば川中流北岸にあり、対岸は下坂田村。正保・元禄・天保の各郷帳にみえない。弘化物成帳では北尾鶴組のうち、村位は下、免七ツ一分、田一八石余(二町二反余)・畑一一石余(二町二反余)・屋敷七斗余(七畝余)で、開田一斗余(一反余)・開畑四斗余(八反余)がある。

松尾村
まつおむら

[現在地名]社町松尾

加古川のつくる河岸段丘の中位に位置し、東は山国やまくに村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では幕府領、田方二六六石余・畠方一四石余。元禄郷帳・天保郷帳では高三四〇石余。寛延四年(一七五一)の酒井忠恭領知目録(酒井家史料)に村名がみえ、当時姫路藩領で、以後変化なく幕末に至ったとみられる(旧高旧領取調帳など)

松尾村
まつおむら

[現在地名]小城町大字松尾字松尾

岩蔵いわくら谷の東方への出口、祇園ぎおん川西岸の山麓に位置する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報