八幡浜市(読み)ヤワタハマシ

デジタル大辞泉 「八幡浜市」の意味・読み・例文・類語

やわたはま‐し〔やはたはま‐〕【八幡浜市】

八幡浜

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日本歴史地名大系 「八幡浜市」の解説

八幡浜市
やわたはまし

面積:九四・九一平方キロ

佐田岬さだみさき半島基部の南側を占め、リアス海岸の奥に八幡浜港を有する。平地は少なく、北西方に権現ごんげん(三六四メートル)銅が鳴どうがなる(七六七メートル)、北方に浄心じようしん(七八二メートル)出石いずし(八一二メートル)、東に夜昼よるひる峠・鞍掛くらかけ(六二九メートル)、南に大畑山(六四五メートル)鳥越とりごえ峠があり、山に囲まれる。西方は宇和海に開けている。

「愛媛面影」に「八幡大神立せるによりて八幡浜と名く」とあり、養老元年(七一七)鎮座と伝える八幡神社を地名の起源という。

〔原始・古代〕

市内には考古遺跡は少なく、弥生時代の覚王寺かくおうじ遺跡・徳雲坊とくんぼう遺跡などがあるにとどまる。

古代には、「和名抄」に喜多きた矢野やの郷がみえ、郷域は現八幡浜市・西宇和郡地域に比定される。「三代実録」によると、貞観八年(八六六)一一月、宇和郡宇和・喜多両郡に分割した時、矢野郷は喜多郡の所管となった。「八幡浜市誌」は、古代末期に矢野郷が宇和郡に再編入されたと推定している。

矢野郷には平安時代に矢野保があった。矢野保内やのほないという呼称も生じ、近世まで用いられる地名となっている。院政期には大納言平頼盛領で、その後、一時平家没官領の中に入るが、寿永三年(一一八四)源頼朝により頼盛に返還された所領三四ヵ所のうちに、「矢野領伊与」がある(西宇和郡の→矢野保。徳雲坊の忠光ちゆうこう(現梅の堂)の嘉慶二年(一三八八)の棟札(「宇和旧記」所収)に「地頭平忠清」の名があり、また日土の了月ひづちのりようげつ(能忠寺)の観音・勢至像の銘文に、文永六年(一二六九)「願主左兵衛尉平能忠」とあり、鎌倉初期に矢野領と関係ある人物と考えられる。

八幡浜市
やわたはまし

2005年3月28日:八幡浜市と西宇和郡保内町が合併
【保内町】愛媛県:西宇和郡
【八幡浜市】愛媛県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八幡浜市」の意味・わかりやすい解説

八幡浜〔市〕
やわたはま

愛媛県西部,北は伊予灘,南は宇和海に臨み,佐田岬半島の基部一帯を占める市。大島,地大島,佐島などを含む。 1935年市制。 1955年双岩村,真穴村,川上村,日土村の4村を編入。 2005年保内町と合体。中心市街地の八幡浜は,平氏全盛時代に矢野荘として開発され,江戸時代には宇和島藩の商業,交通の要地として繁栄。市街地の大部分は埋立地に立地している。伝統の製糸,綿織物工業のほか,中小型トロール漁業の基地として知られ,水産加工も発達。農村部ではミカン栽培が行なわれ,階段状のミカン畑が山頂まで続く。梅の堂には国の重要文化財である木造阿弥陀如来坐像と両脇侍がある。大島,地大島,三王島など5島付近は佐田岬半島宇和海県立自然公園に属する。 JR予讃線,国道 197号線,378号線が通じる。面積 132.65km2。人口 3万1987(2020)。

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