茅ヶ崎市(読み)チガサキシ

デジタル大辞泉 「茅ヶ崎市」の意味・読み・例文・類語

ちがさき‐し【茅ヶ崎市】

茅ヶ崎

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日本歴史地名大系 「茅ヶ崎市」の解説

茅ヶ崎市
ちがさきし

面積:三五・七六平方キロ

県中央の南部、相模川の河口東岸に位置し、市域はかつて高座こうざ郡に属した。南は相模湾に臨み、東は藤沢市、北は藤沢市・高座郡寒川さむかわ町、西は相模川を挟んで平塚市である。北部は相模野台地の南西端部に属し、西部は相模川の自然堤防と旧河道の交錯地、南部は海岸の砂丘地帯である。河川は北境から南西へ流れる小出こいで川と、南部を西流するせんノ川とが合流して相模川河口へ注ぐ。国道一号(旧東海道)と国鉄東海道本線が南部を東西に走り、やや北寄りを大山道が通る。

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡は約六〇ヵ所あり、芹沢せりざわに早期から後期の台田だいた遺跡、下寺尾しもてらおに前期の西方にしかた貝塚、つつみに中・後期の住居跡を有する丸山まるやま貝塚、後期前半の堤貝塚、後期の出口でぐち遺跡などが知られる。弥生時代は香川の篠山かがわのしのやま遺跡など三十数ヵ所が数えられるが、そのうち約六割が砂丘上にある。古墳時代は堤に前方後方墳と推定されるもの一基と円墳一基からなる十二天じゆうにてん古墳群、本村ほんそんに県内で最大級の石室の残る石神いしがみ古墳、香川の篠谷しのたに横穴群、甘沼あまぬま横穴群などが多数ある。

和名抄」記載の渭提いで郷・大庭おおば郷などが市域内に比定されるが、その位置は明確でない。平安時代後期に成立した伊勢神宮領大庭御厨の西部にあたる。この御厨は鎌倉権五郎景正が開墾して寄進したものである。平安中期以降の大寺院跡が下寺尾にある。

〔中世〕

懐島ふところじま郷を根拠地とする武士に大庭(懐島)景義がいる。「吾妻鏡」によれば、保元の乱に活躍したのち源頼朝の挙兵に参加し所領を安堵され、鎌倉幕府開設後は鶴岡八幡宮の奉行人として造営・警備などの任にあたった。懐島は建久元年(一一九〇)一〇月、頼朝の上洛の際には宿所となっている。同九年稲毛重成が相模川に架けた橋脚といわれるものが現存している。橋に近い懐島は宿場として交通の要衝であった。一四世紀前半には相模川の両岸に町屋が形成され「十間酒屋」と称されていた(年未詳「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」県史三)。鎌倉幕府滅亡後、懐島は足利直義の所領となり、観応の擾乱後、茂木氏に与えられたが、在地土豪萩原氏の妨害により領知は実現しなかったらしい。至徳元年(一三八四)足利氏満は父基氏の十七回忌にあたり、鶴嶺つるみね八幡社の別当坊勝福しようふく光明こうみよう院を基氏の菩提所とし、大庭御厨堤郷の田地四反を寄進している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「茅ヶ崎市」の意味・わかりやすい解説

茅ヶ崎〔市〕
ちがさき

神奈川県南部,相模川馬入川)下流の左岸にある市。北半は相模原台地の南縁,南半は湘南砂丘帯にあり,西部は相模川の沖積平野が延びる。1947年市制。1955年小出村の一部を編入。相模川支流の千ノ川が流れ,一帯にカヤ(茅)が生えていたことが地名の由来。中心市街地は南部にあり,江戸時代には南湖は東海道間の宿,柳島は河港であった。東海道本線開通後は保養地となり,第2次世界大戦後は京浜の住宅地区として人口の増加が著しく,近年では大規模住宅団地の建設も相次いでいる。北部では野菜,花卉などの施設園芸が行なわれるが,農地はしだいに宅地化している。1950年代後半から電機,輸送機器,食品などの工場の進出が著しく,京浜工業地帯の延長部として発展している。古刹浄見寺,旧相模川橋脚(国指定史跡)がある。毎年 7月の海の日に浜で行なわれる,隣接する寒川町寒川神社浜降祭は,近隣から神輿が集まって盛大である。茅ヶ崎海岸は夏季には海水浴客でにぎわう。JR東海道本線,相模線,国道1号線,134号線が通り,新湘南バイパスの茅ヶ崎中央,茅ヶ崎西,茅ヶ崎海岸インターチェンジがある。面積 35.70km2(境界未定)。人口 24万2389(2020)。

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