東町(読み)ひがしまち

日本歴史地名大系 「東町」の解説

東町
ひがしまち

[現在地名]宮島町 おお町・さいわい西表にしおもて・幸町西浜にしはま・幸町東表ひがしおもてなど

厳島神社の東側に位置する町人町の総称。西側の西町・南町に比べ成立は遅く、史料上は、寛延四年(一七五一)閏六月の延市の願書に芝居引請けの町役人として、東町の町人三名がみえる(「厳島のび市之控」大願寺蔵)のが早い。しかし実際は西町・南町に対応する町名として相当早くから呼称されていたと思われ、天文二一年(一五五二)の陶晴賢の厳島掟に「当島見世屋敷事、当町人之外不可存知事」とあり、厳島にやってくる諸国商人が町屋敷を買うのを禁止している。また毛利氏は厳島の戦に備えて島の町人より人質をとって留置いたといわれるように、すでに陶氏の被官となった町人を中心に町中衆が結成されていたようである(吉川家中並寺社文書)

これら町人は天正一四年(一五八六)の毛利輝元厳島社頭掃除之次第(巻子本厳島文書)に「築地ぬけ候ハヽ、是又惣中うち寄つくへき也」とみえるように、惣中とよばれ、社家三方に対していちおう独立した自治的な性格をもつほどになり、年寄三名ぐらいを選出して町政運営を行っていたといわれる(吉田家文書)。ここにみられる町人の組織は、後に社家三方の三手代と対等の立場で厳島の町行政の運営にあずかる東・西・南各町の町年寄の前身を示すと思われ、東町といわないまでも、地域的なまとまりが形成されていたと考えてよい。この町人町は有浦ありのうら塔の岡とうのおかを中心とする地域で、すでに天文一〇年三月二二日の厳島屋敷打渡注文(大願寺文書)に、東町のうちの大町五軒、坂本一軒、有浦一三軒、有浦懸四軒が大願だいがん寺への新寄進としてみえるし、厳島屋敷付立(野坂文書)の文禄五年(一五九六)三月に「有浦岡小路、同薬師下」、翌慶長二年(一五九七)には存光寺ぞんこうじ町、おか町などの名がみえ、それぞれに町屋敷が形成されていた。

こうした東町形成の方向をみると大町は西町や南町と同様な発展をたどるが、東町の大部分を構成する有浦の場合は、島の商業の発展とともに急速に形成される。

東町
ひがしまち

[現在地名]博多区上呉服町かみごふくまち中呉服町なかごふくまち

御供所ごくしよ町から北に延びる南北道に沿う両側町。南から東町上・東町下が並ぶ。南はうお町中まちなか・魚ノ町上の通りを境に北船きたふね町、北は中石堂なかいしどう町・官内かんない町の通り(唐津街道)を境に浜口町上はまぐちまちかみで画される(福岡博多近隣古図)。東の蓮池はすいけ町の通り、西の呉服町の通りとの間にあり、豊臣秀吉の町割の際、最初に縄張りされた市小路いちしようじ(一小路町)の東に位置したので東町と称したと伝え、また東町下は秀吉から浜口町に屋敷地を与えられた島井宗室が取立てたので宗室町とよばれたという(石城志)。慶長一五年(一六一〇)の御祓賦日記(神宮文庫蔵)に「そうしつまち」とみえ、清水宗甚・同善四郎・長治孫七郎の名がみえる。元禄三年(一六九〇)の家数は上三三・下一九(続風土記)。明和三年(一七六六)には上の家数三三・間数一一一間余、下の家数二二・間数一一二間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数は上三四・下四〇(博多店運上帳)

石堂川と那珂なか川を結ぶ大水道が当町上の東の入口、明光みようこう寺の南東角から入り町の南境から呉服町へ通じていた(続風土記附録)

東町
あずまちよう

面積:七一・〇二平方キロ

長島のほぼ東半と北に連なる諸浦しようら島・伊唐いから島・獅子しし島からなる。西は長島ながしま町、北・東は八代海、南は東シナ海に面し、南東は黒之くろの瀬戸を挟んで阿久根市に対する。町の西部には行人ぎようにん(三九四メートル)(四〇一・九メートル)などが連なり、浦底うらそこ(北部)汐見しおみ(南部)などの小河川が流れている。浦底・三船みふね脇崎わきざき加世堂かせどうなどの浦が深く湾入し、海岸線は典型的なリアス式を呈している。集落は内陸部に発達した鷹巣たかのす川床かわとこのほかは浦や湾奥に開けている。

旧石器時代の遺跡では、いずれも内陸部に位置する尻無平しなしびら遺跡(川床)で細石刃・細石刃核・台形石器・ナイフ形石器、毎床牧場入口まいとこまきばいりぐち遺跡(同上)でナイフ形石器、山門野やまどの遺跡で細石刃・細石刃核・ナイフ形石器が出土している。

東町
ひがしちよう

[現在地名]米子市東町

五十人ごじゆうにん町・みやノ町の東にある。内堀と外堀に囲まれた武家地の東部を占め、南の深浦ふかうら沿いから北の外堀に架された横町よこまち橋まで約三〇〇間余に及ぶ(「米子御城下夫々間数」県立博物館蔵)。宝永六年(一七〇九)の伯耆国米子平図および享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(ともに同館蔵)には東町の町名は記されない。南端の西方内堀へと落ちる外堀対岸は三十人鉄砲さんじゆうにんてつぽう町とある。近世中期以降のものとみられる伯州米子之図(同館蔵)には北方寄りのほぼ南北に走る道筋に東町と記され、内堀に面した道筋には堀端ほりばた町、南端外堀対岸は三十人町となっている。

東町
ひがしまち

[現在地名]亀山市東町・ほん町・きた町・さかえ町・東御幸ひがしみゆき

亀山城の東に接する。大手門前で南から東に曲がる東海道に沿って町並は東に延び、江戸口えどぐち(明治以後東京口の字名が残る)を経て和田わだ村に達する。市町・宿場町として西にし町とともに亀山城下の中心部を構成。町の長さは東西一二町四六間、うち五町余が一―六番組で本役、三町余がしん町・なべ町で三分役を勤め、残り三町余が無役の茶屋ちやや町であった(九九五集)。寛永一四年(一六三七)に行われた内検地では町高七一八石余(田三九四石余、畑三二三石余)。年貢米はいったん町蔵に入れられ、冬のうちに御城蔵に納める定めで、金納・手形納の方法もとられた。

東町
ひがしまち

[現在地名]新湊市八幡町はちまんまち一―二丁目

荒屋あらや村の北、四十物あいもの町の東に位置し、西境は東町大通に面して鎮座する神明宮。北は富山湾で砂浜が続く。町東方に放生津ほうじようづ八幡宮が鎮座。放生津町の浜往来は八幡宮門前に面し、同社南横を通って放生津潟の北、明神新みようじんしん村へ延びていた(嘉永六年「放生津領分間絵図」新湊市教育委員会蔵)。文政一二年(一八二九)の家数は表町一〇八軒(うち開作人三軒)・裏町一九〇軒(うち開作人一軒)であった(「放生津町家数書上覚」久々江屋文書)。安政年間(一八五四―六〇)東町組は四十物町と合せて高一三〇石余、七千二〇〇歩余。

東町
ひがしまち

[現在地名]上野市東町

東西に通ずる三筋みすじ町のうち一番北側の本町ほんまち筋の東端にあり、東端に上野天神(現菅原神社)が鎮座し、その門前町の形で発展したのであろう。当町の中央部で東大手門より南進する東之立町ひがしのたてまち通が十字路をなす。天正一八年(一五九〇)から慶長一九年(一六一四)頃の西蓮さいれん寺蔵過去帳では、本町筋の町名を、上ノ(野)本町・上ノ中町・上ノ西町などと記し、東町の名称はみられない。同帳にある本町平野忠右衛門は当町の築山忠右衛門であり、同じく本町内神善右衛門は当町の内神屋一族、九品くほん寺蔵過去帳の上ノ本町伊勢屋勘兵衛は当町の広岡勘兵衛であり、当町の米問屋菅屋十兵衛も本町住と称されているなど、本町は江戸中期頃までは東町と片原かたはら町とを総称したと考えられる。

東町
ひがしまち

[現在地名]福山市東町一―三丁目・ふな町・笠岡かさおか町・御船みふね町一―二丁目・てら町・あさひ町・入船いりふね町二丁目・えびす町・大黒だいこく町・桜馬場さくらばば町・若松わかまつ町・いま

福山城の東側は、武家屋敷を一筋置き、その東は南北に長い町家地となっていたが、さらにその東、入江(浜川)の北に町家地を囲む形で武家屋敷地があり、西にし町に対して東町と称した。また東町の東部、笠岡街道に面する地域には寺院が建並んでいたため寺町とよばれた。

城下町と在方との境界には外堀から分水した溝川を東町周辺と吉津よしづ村・三吉みよし村との境に回し、寺町の東辺に出て、光明こうみよう寺西側を経て入江に流していた。入江口には御舟入をつくり藩船の係留場とした。口幅一〇・三間、奥行七四間、幅四〇間のもので、築造された当時は海岸に近かったが、深津ふかつ手城てしろ川口かわぐちと新涯が造成される度に入江は沖に延び、御舟入のさらに東に「座床ざとこ」を置いて船だまりとした。

東町
ひがしちよう

[現在地名]小松市東町・飴屋町あめやまち

西は八日市ようかいち町・三日市みつかいち町、東は土居原どいはら町に挟まれた南北通り。長さ四町三〇間・幅二間で、南の東西通りは属町の飴屋町である(皇国地誌)。他町に比して寺院が多いため、門前町として発達した。天明五年(一七八五)の小松町家数并人高調理帳(小松旧記)によれば、本町の一つで、家数一四五。曳山芝居を所有していたが焼失した。文政一三年(一八三〇)の小松城図ではのちの飴屋町は「イケタ町」、東町の南部は「ユタカ町」と記される。

東町
ひがしまち

[現在地名]米沢市大町おおまち一丁目・本町ほんちよう二―三丁目・福田町ふくだまち二丁目

大町とやなぎ町の南に位置し、板谷いたや街道・会津街道は当町で合流して大町に至るが、この要路沿いの両側に発達した商人町。板谷街道は東に折れ福田町へ出るが、同街道出口として当町境に城(木)戸・番所(屋)が置かれている。伊達氏時代成立の六町のうち。慶長二年(一五九七)当町ほか一〇町の地租と上納条件が定められている(米沢商業記録)。当時本丸に近い東側に位置したと推定されているが、慶長一四年頃までに三の丸外の現在地に移された。当町市日は二・七・一二・一七・二二の五斎市であった(米沢雑事記)

東町
ひがしまち

[現在地名]旭川市豊岡一条とよおかいちじよう一―四丁目・豊岡二条とよおかにじよう一―四丁目・豊岡三条とよおかさんじよう一―四丁目・豊岡四条とよおかよじよう一―四丁目・東光一条とうこういちじよう一―四丁目・東光二条とうこうにじよう一―四丁目・東光三条とうこうさんじよう一―四丁目・東光四条とうこうよじよう一―四丁目・東光五条とうこうごじよう一―四丁目・東光六条とうこうろくじよう一―四丁目・東光七条とうこうななじよう一―四丁目・東光八条とうこうはちじよう一―四丁目

昭和二六年(一九五一)に新設された町。明治三一年(一八九八)九月永山ながやま村から分離した東旭川村字ウシシュベツに相当する。昭和一二年一月の字名・地番変更により朝日あさひ千代田ちよだとされた。これらは同一七年九月旭川市に編入。同二六年三月の字名変更で東町一―三丁目が設定された。

東町
ひがしまち

[現在地名]水口町本町ほんまち一丁目・神明しんめい京町きようまち高塚たかつか元町もとまち

永原ながら町の東、南裏通を挟んだ両側町。町名は慶長七年(一六〇二)の水口美濃部村検地帳写(水口宿文書)にみえる。水口九ヵ村のうち東村にあたる集落を中心に町場化したものであろう。北はやなぎ町・大池おいけ町・葛籠つづら町と接し、南は野洲やす川が西流する。町並南に伊勢大路の痕跡が残る。その東端は円福えんぷく(現浄土宗)門前に至り、これより南へ野洲川の河原に出る小道がある。

東町
ひがしまち

[現在地名]津市大門だいもん・東町津

なか町筋のさらに東側にほぼ並行する町人町で、西にし町・中町とともに成立した。伊勢参宮街道に沿う主要な町筋で、北組・中組・南組に分れていた。寛永一九年(一六四二)の記録には、東町中町・東町北町の称もみえる。のち北組が東町より分立してきた町となり、寛文六年(一六六六)の記録(津市史)には東町南組・東町中組・北町とあり、北町がすでに独立している。元禄六年(一六九三)調べの津町間数調(同書)によれば、北町分八二間・東町中組分六〇間・東町南組五八間の長さであった。

東町
ひがしまち

延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図をみると、現字天神てんじん東浦ひがしうら辺り一帯とみられる。東は矢作川に接して川床が高く、西は神明しんめい町、南は大手おおて(今の南町)ほん町に接する。山定院の観音堂・子守こもり明神・陽竜ようりゆう寺がある。町の西側を採養院さいよういん川が南流する。「挙母記」によれば「白山の社ハ元東町の南石橋の際にあり、今ハ吉如山へ易地ス」とある。なお延宝元年に、三河代官鳥山牛之助により矢作川に直角に突出した曲天手かねのて堤が築かれている。

元和九年(一六二三)の挙母東町田畠名寄帳(豊田市史)によると、町は七右衛門組・七左衛門組・仁兵衛組・孫兵衛組・茂右衛門組・又八組・弥太組が各々八軒ずつ七組に分れ、それぞれの本石合計は四三〇石余となる。

東町
ひがしまち

昭和四年(一九二九)一〇月から現在の室蘭市の町名。市域陸地部の南に位置し、南は太平洋に臨む。町名の由来は当時の室蘭市の東端であったことによる。もとは室蘭市大字輪西村わにしむらの一部で、イタンキ、アルトル、ワシベツハマ、札幌通さつぽろどおりの字名があり、昭和四年一〇月に室蘭市東町となった(「大字廃止町名及之に伴う区域設定の件」昭和一六年室蘭市史)。同三八年・同三九年に住居表示を実施し、一―五丁目を設定。昭和三八年に町域の西側半分を東町・寿ことぶき町、同三九年には東側半分を日の出ひので町とし、一部をなか町に移した(第一次・第二次住居表示新旧対照表)

東町
ひがしまち

[現在地名]松本市城東じようとう一丁目

城下町の親町三町の一。ほん町の角で東に折れたなか町は、女鳥羽めとば川大橋の所で、また北に直角に曲がり北上する。

「信府統記」に「東町 南北長サ六町三拾二間半、又六町二十四間共、家数百六十五軒、幅三間半、中町境大橋ノ北際ニ同心番所アリ、大キサ二間ニ九尺、川端木戸アリ、是上土ヘノ路ナリ、筋違橋 石橋ナリ、辰巳ヨリ戌亥ヘ筋違ニ掛リ、此所町屋東西ノ側共ニ筋違ニ立ツ、町中ニ番所五ケ所アリ、番人町ヨリ勤ル、内二ケ所夜計リ、山家小路 東側ナリ、東町境ヨリ南側五十七間、北ケ輪五十二間四尺、家数二十七軒、町幅三間、昔ハ紺屋町トモ云ヒ、中比なかごろ鍛冶町ト云ヒ、今ハ山家やまべ小路ト云フ、此町ニ橋一ケ所アリ、正行寺小路 東側ニアリ、長サ五十三間二尺、幅二間、下横田町正行寺前ヘ出ル小路ノ内橋二ケ所、東町ヨリ入口ニ町番所アリ、馬出シ小路 西側ニアリ、東門ノ馬出シヨリ東町ヘ出ル小路ナル故、馬出シ小路ト云ヒナラハセリ、塩屋小路 東側ニアリ、長サ五拾間、幅三間、橋二ケ所、恵光院前ヘ出ルナリ、町番所アリ、二ツ井戸小路 西側ニアリ、長サ二十二間、幅二間、木戸アリ、番人小人此所ニ井二ツ、冷水ナリ、作左衛門小路 東側ニアリ長サ四拾六間半、内十五間ハ東町折廻シ、小路ノ内ニ橋三ケ所、町番所、昼夜共ニ町番人ヲ置ク、小路 西側ニアリ、片端ノ北端ヨリ東町ヘ出ル小路ナリ、木戸アリ、小人番ナリ」とある。

東町
ひがしのちよう

[現在地名]西宮市本町ほんまち

石在いしざい町の東に続く山陽道沿いの町。東之町とも書き、西宮町の町方一五町の一(天保九年「西宮町石高町数等書上」岡本家文書)。西宮神社表大門(赤門)前から東に延びる山陽道は、当町東端で北に折れて与古道よこみち町へと続く。寛文元年(一六六一)の西宮町検地帳写(西宮市役所蔵)に東之町として三〇人が記載され、伊勢講田の記載もみえる。東の六湛寺ろくたんじ川沿いに町民の耕作する田畑があったとみられ、延享三年(一七四六)の書上(吉井家文書)では八〇石余が東之町、八石余が同町新田分とされている。

東町
ひがしまち

[現在地名]倉吉市東町

倉吉陣屋の東に広がる江戸期の武家屋敷地。初め神坂かんざか村の一部で、のち市街化した。町名は明治初期の成立とされ、南はあおい町、西は同町とさかえ町一丁目(かつての上横町)、北は東西に走る津山往来を挟んで荒神こうじん町、東はみなと町。元禄(一六八八―一七〇四)頃と推定される倉吉古地図(倉吉町誌)によると、現在の当町南東端にある法華宗(本門流)隆泉りゆうせん寺は東西に走る通りの南側に描かれる。同寺前から丁字状に北へ延びる通りの両側は町家となっており、その西に武家屋敷地がすでに形成されている。町家の東側北端には番所がある。当町北西端に位置する曹洞宗大岳だいがく院西側を南北に走る通りが前掲古地図に描かれるが、この通りがのちの葵町との境になっていた。

東町
ひがしまち

[現在地名]江東区猿江さるえ一丁目

よこ(大横川)東岸の町屋。深川東ふかがわひがし町とも称した。西は同川を挟んで西にし町、北は御側衆小笠原若狭守下屋敷、南は猿江町・猿江村と武家地、東は猿江裏町。もと西葛西にしかさい領深川分郷六間堀ろつけんぼりの内で伊奈半左衛門代官所支配であった。文政町方書上によると、検地は元禄八年(一六九五)・享保一七年(一七三二)・寛政二年(一七九〇)に実施され、反別一町二反余。正徳三年(一七一三)より町奉行・代官の両支配。町内総間数は田舎間で一六五間余、猿江橋東側通の土地が南北間口六九間余・裏幅八〇間余、東西は裏行が南方二二間余、北方は入組みで延べ四四間余、一千八六三坪余。

東町
ひがしちよう

東山区三条通広道東入

三条通を挟んで位置。承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「丸ヤキ丁」とあり、寛文二年(一六六二)新板平安城東西南北町並洛外之図も同様である。また貞享五年(一六八八)新板平安城並洛外之図には「丸や丁」とし古称とみるべきであろう。東町の名は延宝二年(一六七四)四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)にみえ、正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(同文書)は「一、三拾四軒 同(粟田口)東町」とある。その家数は中之町に次ぎ、粟田口焼の窯業地として、中之町より当町、今道町にかけて、人家が集中したと思われる。

東町
ひがしまち

[現在地名]高梁市東町

藩主水谷勝宗時代の貞享三年(一六八六)にできた町で、城下六ヵ町の一(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)鍛冶かじ町と牢屋ろうや小路を隔てて南側に位置し、町の長さ南北一町三六間、幅三間の往来沿いに町家が並んでいた。東は原東はらひがし(松山東村)、西はみなみ町。元禄(一六八八―一七〇四)初年改では町の長さ一町二〇間、家数三八(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。延享元年(一七四四)の宗門改では人数一八八、うち男九二・女九六。町の長さ一町三六間(「松山六ヶ町差出帳」高梁市立図書館蔵)

東町
ひがしまち

[現在地名]敦賀市神楽かぐら町二丁目

一向堂いつこうどう町・中橋なかのはし町の南に位置し、西は西にし町。文明九年(一四七七)八月の沙門春痩知行目録(西福寺文書)・永禄元年(一五五八)六月五日付善妙寺領目録(同寺文書)・慶長三年(一五九八)七月の津内村検地帳(田保家文書)に各々「東町」とみえる。「敦賀志」は「此町ハ家並建揃ひて邑中第一の町がら也、豪富の者も多し」と記す。

東町
ひがしまち

昭和三年(一九二八)一月から同四七年までの町名。苫小牧市の中心部に位置し、現在の若草わかくさ町二―四丁目と同町一丁目・五丁目の一部にあたる。町名の由来は、昭和三年の町名設定当時は市街地の東端であったことによる。同年に苫小牧町大字東町が誕生し(「町名設定地番改正調書」苫小牧市立中央図書館蔵)、同一九年の大字廃止字名改称により苫小牧町東町となり(「苫小牧町字地番整理調書」同館蔵)、同二三年市制施行により苫小牧市東町となった。当初は王子製紙苫小牧工場の土場(貯木場)や畑地であったが、昭和一二年苫小牧町立中学校(現苫小牧東高、昭和四九年清水町へ移転)が開校、同一四年苫小牧コンクリート工場設置。

東町
ひがしまち

[現在地名]大畑町大畑 東町

ほん町の東に位置し、北はみなと村と接する。「原始謾筆風土年表」の元禄五年(一六九二)の項に「昆布町と申し六七軒在し東町へ新丁地面割、表口六尺五寸竿にて六間、裏行廿間(中略)六十軒割渡」とあり、同年屋敷割が行われているが、以前から昆布市が立っていた。同書の享保四年(一七一九)の項にも「八谷勘兵衛昆布買入東町ヨリ此を制セリ」などとみえる。享和三年(一八〇三)の仮名付帳には家数四六とあり、駅場とされる。「原始謾筆風土年表」の寛政一〇年(一七九八)の項によれば田名部たなぶ(現むつ市)まで三里二一町三〇間余の里程で、駄賃は本荷一四〇文、軽尻九〇文であった。

東町
ひがしまち

松前城下の一町で、大松前おおまつまえ川と伝治沢でんじさわ(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあった。享保二年(一七一七)の「松前蝦夷記」に東中ひがしなか町・東下ひがしした町とともに東町とみえる。天明八年(一七八八)の松前東西管(河野常吉資料)にも城下町名としてみえるが、寛政一〇年(一七九八)の「家中及扶持人列席調」の城下町名主の項に「東町 甚太郎」「東町 長三郎」とあるのを最後に町名として史料にみえない。

東町
ひがしまち

[現在地名]西条市東町

寛永開町当時から続いた町。西条陣屋町の中央にあり、東は朔日市ついたちいち村・大町おおまち村、南は紺屋こんや町・大町村・神拝かんばい村、西はよこ町、北は大師だいし町・朔日市村に接する。元禄一四年(一七〇一)町の東に新地が開発され、市街地六九間が東へ延長された。町内に妙昌みようしよう寺があった。

東町
ひがしまち

[現在地名]長野市長野 東町

善光ぜんこう寺八町の一、大門だいもん町の東に南北に延びる町。慶長一六年(一六一一)善光寺宿設定当時、大門町・西にし町とともに月一〇日の伝馬役を務めたが、寛永の初め月五日分務めることとなり、寛永一六年(一六三九)には大門町に伝馬役を請け負わせ、もっぱら歩行役(人足役)のみを務めた(長野市史・善光寺町宿場市場書類本書之写)

東町
ひがしまち

上京区中立売通烏丸西入

中央を東西に中立売なかたちうり(旧正親町小路)が通り、東は烏丸からすま(旧烏丸小路)

平安京の条坊では左京北辺三坊東側の地で、平安中期以降は正親町おおぎまち小路烏丸小路西の地。平安前期、町の中央以南は官衙町の「内膳院」の地(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図と宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「中立売東町」、寛永一八年以前平安城町並図では「中立売」とあり、明治維新の際現町名となった(坊目誌)

東町
ひがしちよう

上京区一条通七本松西入

北は一条いちじよう(旧一条大路)、西はしももり通。平安京一条大路の地で、大内裏北辺三門の西門「安嘉門」の跡地(「拾芥抄」宮城指図)

現町名は寛永頃に付けられたとされるが(京都府地誌市街編)、寛永一四年(一六三七)洛中絵図では野畑の中に「北野松原」とのみ記され、元禄末期洛中絵図には「左近の馬場」とある。

東町
ひがしちよう

下京区下魚棚通油小路東入

町の北側は東西に通る下魚棚しもうおのたな通に、東側は南北に通る西洞院通(旧西洞院大路)に面する。

平安京の条坊では左京八条二坊四保一六町東側にあたる。

「坊目誌」によれば、慶長七年(一六〇二)二条城築城に際し、移住してきた町で初めは「上之筋」と称し、単に「魚棚一町目」とよび、元禄の初め頃に「東町」と改められたとするが、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「東丁」とあり、寛永以後万治以前京都全図にも「東丁」とみえる。

東町
ひがしまち

[現在地名]本荘市東町

御蔵溝みくらみぞの東側に沿い、南は本田仲ほんたなか町。東小路ひがしこうじ八幡小路はちまんこうじの西側の一部が合併した町という(本荘郷土史)。下級武士および足軽の侍屋敷町であった(本荘町志)

明治二二年(一八八九)の畑段別一町五段七畝二七歩で、その修正地価金一八五円三一銭七厘、修正地租金四円六三銭三厘(本荘町志)

東町
あずままち

1996年9月1日:稲敷郡東村が町制施行
【東村】茨城県:稲敷郡

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報