本荘城下(読み)ほんじようじようか

日本歴史地名大系 「本荘城下」の解説

本荘城下
ほんじようじようか

子吉こよし川下流南岸に位置し、その西の海岸線を秋田から庄内しようない(現山形県)を経て越後へつながる北国道ほつこくどう(酒田街道)が走る。北国道と羽州街道をつなぐ数本の街道が分岐し、水陸両面での交通の要衝である。由利郡は狭隘な川沿いの盆地、海岸沿いの平地が多いが、本荘地域は平地が最も広く、由利郡支配の核心の地ともいえる。

〔城下の形成〕

中世までの様相は明らかではないが、この地の経済的・軍事的重要性に着目し、城を築いたのは最上義光の臣楯岡豊前守満茂であった。満茂は由利郡支配のため、当初赤尾津あこうづ(現由利郡岩城いわき亀田かめだに入ったが、慶長一五年(一六一〇)この地の尾崎おざき山に築城を開始し、同一七年完成して本城ほんじよう城と名付け入城した。命名の由来は楯岡氏の本姓である「本城」を取ったという。元和八年(一六二二)最上氏が改易され、楯岡氏の本城城も取りこわされた。その後本多正純の移封を経て、翌九年六郷兵庫頭政乗が二万石で入部し、明治維新まで六郷氏の本荘藩支配が続いた。

六郷氏は破却された本城城を改修し、本荘(庄)城と改めたといわれる。当初の城下町の規模は不明だが、幕末期と思われる本荘城下絵図(秋田県史)では城の北と東に侍町・足軽町を配置し、その東端に寺を置き、北は社寺を隔てて子吉川となる。侍町のほぼ北西部に商人町を置き、その南西端から北国道へつながる道があった。町人町である外町とまちは東西の四本の通りで構成され、北西のはずれに古雪ふるゆき湊があり、その地を古雪町と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報