大畑村(読み)おおはたむら

日本歴史地名大系 「大畑村」の解説

大畑村
おおはたむら

[現在地名]大畑町大畑

東流する大畑川の河口右岸に位置し、大畑川下流ならびに海岸沿いに支村が散在する。津軽海峡に面し、大畑川河口には大畑湊がある。西の背後に下北山地とおそれ山火山を負い、村の南から恐山への裏参道が延びる。東南は正津川しようづがわ村、西北は下風呂しもふろ(現風間浦村)と接する。康正年間(一四五五―五七)の蠣崎の乱の頃に波多はた郷と称し、波多城があったとされるが(東北太平記)、委細不明。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に大畠村六〇石余とみえ、同年の郷村帳によれば六〇・八二八石のうち三七・一七六石が田であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高四二九・二石余、うち畑一八一石余、給地九九・七石余とあり、戸口は四〇〇軒余・一千六六六人。享和三年(一八〇三)仮名付帳では家数四九一、うち町場はひがし町四六・おお町六九・しん町一〇四・みなみ町五〇・よこ丁三〇・みなと九五で、支村は高橋川たかはしがわ五・小目名こめな二八・二枚橋にまいばし一五・釣屋浜つりやはま六・木野部きのつぷ二八・赤川あかがわ一五。田名部たなぶ通に属する。寛文七年(一六六七)難船救助など、天和二年(一六八二)切支丹禁制、貞享五年(一六八八)捨馬禁止の高札が立てられている(御領分高札集)。天和元年に酒屋が三軒あり(雑書)、享保二年(一七一七)には一三軒となった(宇曾利百話)

文禄―慶長(一五九二―一六一五)の頃より町場の形成がみられ、まず南町・ほん(大町)が成立。寛文七年湊村、延宝二年(一六七四)新町、元禄五年(一六九二)には東町が開かれた(大畑町誌)。その後横丁も成り、「大町に下も町というもいてき、東町も下た新町も年々追つて建続」(原始謾筆風土年表)と町並が広がっていった。大畑古村・大畑新町・湊村には各々肝煎が一人ずつ置かれていたが、享保八年新町は古村に合した(大畑町誌)。大畑町と称したのは延享元年(一七四四)で、検断一人、宿老数人を置き、三の日を市日と定めた(原始謾筆風土年表)。天明元年(一七八一)湊村も大畑町に合し、大畑町一検断の支配下に入った(大畑町誌)

大畑湊を擁し、藩政期を通じて檜材および海産物の産で隆盛であった。「邦内郷村志」では檜山は小目名沢・材木沢・大木沢・曾古部川・釜野沢・下釜野沢・温泉野沢・温泉又・下田ノ又・鵜喰滝・朝比奈畠・三太郎川・新右衛門川・赤滝・囲川・鍋滝・樋懸・楷子沢・上狄川・十兵衛沢・長二郎川・仁部川・椛平・太兵衛川・右衛門四郎川・弥市郎川・仁助川・上近藤川・近藤川・二階滝・烏沢川・西又・上寒水・寒水・上昼飯場・下昼飯場・葉色・添木・高橋・木和田川・佐渡ヶ平・二枚橋・川・三右衛門沢・鷲巣・大沢目・赤川の四七ヵ山を数える。

大畑村
おおはたけむら

[現在地名]平塚市岡崎おかざき・ふじみ一―二丁目

すず川がほぼ中央を東流し、西端字赤坂あかさか大根おおね川と板戸いたど川が合流する。東は矢崎やさき村、西は丸島まるしま村、北は西海地さいかち村、南は片岡かたおか村に接する。鈴川沿いに曾屋そや道が東西に通り、道沿いに集落があり、北は伊勢原台地の畑、南は鈴川を挟んで水田が広がる。南の北金目きたかなめ村・南金目村を流れる金目川から用水を引入れ、鈴川を隔てた南の耕地の用水を賄う長橋なかばし堀・大溝おおみぞ堀がある。また村内字稲荷坂いなりざかで鈴川から引入れ、矢崎村・入山瀬いりやませ村・西海地村・城所きどころ村、大句おおく(現伊勢原市)の水田に利用する五ヵ村ごヵそん堀が東流する(皇国地誌)

大畑村
おこばむら

[現在地名]人吉市大畑町・大畑麓おこばふもと町・矢岳やたけ

鳩胸はとむね川上流域、大坂間おおさかま川などの支流が合流する地点に主たる集落が位置する。北は七地ひちち村、東は田代たしろ村、西はあいだ村、南は日向領に接する。「八代日記」永禄五年(一五六二)五月一〇日条に「頼房様おこは(大畑)の城及御出張」とあり、また年未詳一月二〇日の相良頼房義陽感状(佐無田文書)に「殊於(大)畑口被遂高名候」とある。

慶長国絵図には高一四八石七斗余とある。寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳によると本田高一八八石七斗余のみで、「新田無」とされる。同一八年の検地帳による田畑構成は上田一町三反五畝余・中田一町九反余・下田四町二反二畝余、上畑二町九反五畝余・中畑八反九畝余・下畑二町四反一畝余・野畑四反一畝余・山畑なし、屋敷三町三反六畝余、合計一七町五反余、分米高一五五石四斗余の村であった。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]裾野市大畑

定輪寺じようりんじ村の北、愛鷹あしたか山の東麓に位置し、北は千福せんぷく村。集落は村の東を南に流れる黄瀬きせ川に面した平地上に広がり、同川を挟み佐野さの村と対する。「閑谷集」には作者が文治元年(一一八五)八月頃から「するかのくにおほはた」に住し、草庵を営んだことがみえ、建仁二年(一二〇二)の七庚申や建永元年(一二〇六)九月の「おほはたのあしたかの御まつり」など、当地の信仰にかかわる記述もみえる。応安六年(一三七三)一〇月二九日幕府は「駿河国大岡庄内御牧堂・浅間宮・大幡寺等」の別当職を鎌倉鶴岡八幡宮寺供僧頼印に安堵しており(「管領細川頼之奉書」尊経閣古文書纂所収宝菩提院文書)、ここにみえる「大幡寺」は当地にあった寺院と推定されている。

大畑村
おおばたけむら

[現在地名]矢吹町住吉すみよし上の前かみのまえ前久保まえくぼ・大畑・沢尻さわじり

いずみ川北部にあり、南と西は中畑なかはた村、北は須乗すのり新田。大畠とも記される。戦国期と思われる五月二五日の長泉寺他連署覚書写(浅川文書)によると、「浅川ニテ申伝之趣」として石川氏の一族浅川大和守の知行地に「浅川町・滝輪村・大畑村」などがみられる。江戸時代の写であるが、観応三年(一三五二)七月二八日の足利尊氏奥判川辺八幡宮由来書(川辺八幡神社文書)によれば、「石川郡仙石村・板橋村・大畑村・急当村・沢尻村」が、前九年の役の後川辺かわべ八幡宮(現玉川村)へ寄進されたと伝える。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]花巻市大畑・卸町おろしまち

二枚橋にまいばし村の西に位置し、北は北湯口きたゆぐち村。大畠村とも記した。西部の南東に延びる尾根上に中世の大畑館跡がある。館主は稗貫氏一族の大畑氏と伝え、「奥南盛風記」では永享七―八年(一四三五―三六)の和賀稗貫の動乱において南部勢に抗して十八さかりヶ城に立籠った軍勢に「大畑・湯本」らがみえ、「邦内郷村志」では天正(一五七三―九二)頃の館主を大畑木工允とする。

大畑村
おおはたむら

中世の由比本ゆいほん郷内にあった村で、大幡とも書く。宝生ほうしよう寺のある寺方てらかた村がかつての大幡村であると伝え、小字大幡はその名残であるという(風土記稿)。文永一一年(一二七四)八月一七日の関東御教書写(天野毛利譜録)によれば、天野某は幕府から「伊豆国見附府中上郷・参河国中条郷」の替地として、「由井本郷大畑村」などを宛行われている。同文書は検討を要するが、建長八年(一二五六)天野景経の所領として船木田ふなきた新庄由井ゆい横河よこかわ郷が安堵されており、すでに由井郷の一部は同氏領となっていた。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]春日部市大畑

大場おおば村の南東に位置する。村内を日光道中が通る。大場村から分村したというが詳細は不明。埼玉郡新方にいがた領に属した(風土記稿)。慶長一八年(一六一三)の年貢割付状(長野家文書)では田畑屋敷の取米二七石余・取永四貫余、ほかに六石余がある。田園簿では田一四七石余・畑八二石余で、ほかに野銭永一三二文がある。当初は幕府領(田園簿)。正徳五年(一七一五)一部が岩槻藩領となり、宝暦六年(一七五六)幕府領となったと伝えるが(風土記稿)、詳細は不明。その後は幕府領として幕末に至る(改革組合取調書など)。検地は元禄八年(一六九五)の実施を伝える(風土記稿)。悪水路小川会野おがわあいの川一〇ヵ村組合に属した(嘉永五年「小川会野川村々反別割議定証文」駒崎家文書)

大畑村
おおはたむら

[現在地名]豊田市大畑町

市域の北西端、伊保いぼ川と西広見にしひろみ川の合流点にある。南西には豊徳ほうとく鉱山採掘場がある。伊保川上流域には条里制の施行が推定され、三反田さんたんだの地名が残る。寛永郷帳時には幕府領であるが、元禄郷帳時には伊保藩の本多弾正少弼支配となり、寛政一二年(一八〇〇)から長沢ながさわ(現宝飯郡音羽町)陣屋の巨勢氏知行地となり明治に至る。

てら洞の白髭ぼらのしらひげ神社は猿田彦命を祀り、餅投げが行われる。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]神崎町大畑

越知おち村の北に位置し、飯盛いいもり山北西麓の越知川上流域に立地する。多可たか郡に属し、北は作畑さくはた村。中世は摂関家領大幡おおはた庄に含まれた。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は大山下おおやましも村と同じ。寛永三年(一六二六)の多可郡新検高(松井家文書)には奥畑村とみえ、高一七九石余。正保郷帳には大畑村とあり、田方九六石余・畑方二四五石余、「雑木林有・柴草山有・小物成有」と注記される。

大畑村
おおばたけむら

[現在地名]観音寺市柞田町くにたちよう

柞田川山田やまだ川の下流域に広がる平野部に位置し、南は大野原おおのはら十三塚じゆうさんづか(現三豊郡大野原町)。小地名に宝積ほうしやく・井上・神之木かみのき北屋舗きたやしきがある。寛永国絵図に大畠とみえ、高は柞田郷で一括されている。寛文四年(一六六四)の丸亀藩高辻帳に村名がみえ、朱印高(拝領高)二四二石余。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]木造町大畑

北にはやし村、東は吉水よしみず村に続き、田圃を隔てて南に土滝つちたき村、西に丸山まるやま村。

貞享元年(一六八四)の郷村帳の田舎いなか郡の新田に村名があり、村高四二〇石とある。同四年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて五五町九反三畝三歩、村高四二一・五三五石とある。うち田方四七町八反八畝一〇歩で三八四・四八七石、上田から下々田まで設定され、下田が二四町一反六畝二四歩、一六九・一七六石とあり、畑方は上畑から下々畑まで設定されたがほぼ同面積で、屋敷地を含めて合計八町四畝二三歩、三七・〇四八石とある。このほかに開発可能な田畑が支村の林村を含めて一八二町九反二畝二八歩あった。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]郡山市西田町にしたまち大田おおた

李田すももだ村の南、阿武隈高地西縁の丘陵に立地。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「六段 六百文 おふはた」とみえ、紀州熊野速玉はやたま社に年貢六〇〇文を納めていた。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「六段 四百九五文 大畑」とあり、同一八年一〇月九日の熊野新宮領差出帳(片倉文書)には「大はた分 六段 此内六百文熊野へ出る」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高四〇一石余、左馬助の知行地。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]西区平野町大畑ひらのちようおおはた春日台かすがだい一―二丁目・同七―九丁目

明石川中流の左岸に位置し、南は宮前みやまえ村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方一三四石余・畑方三六石余、「はへ山」あり。明石藩領押部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西二五間・南北三町三〇間、人数八九・家数一四。郷蔵・池一九(大才谷池など一一と竹谷池など八池は宮前村立会)・藪八・自分山一六・西大川除堤三・ウワツ井溝・向溝川井(常本村立会)・野山(宮前村立会)

大畑村
おおはたむら

[現在地名]かつらぎ町大畑

短野みじかの村の東北に位置する。中世は高野山領官省符かんしようふ庄下方に属し、室町時代初期頃と推定される高野政所下方田畠在家帳目録(又続宝簡集)に「下方山村分」として大畑がみえる。欠年の官省符下方并河南二村在家帳(同集)には在家一八宇とされる。村内の小名として椎平しいだいらがある(続風土記)。慶長検地高目録によると村高二一三石余、小物成八斗九升。丁ノ町組に属し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷正敏氏蔵)によると、家数六九、人数三三〇、井手四、寺一、堂二(阿弥陀堂・行者堂)、堂屋敷一(行者堂屋敷)、宮九、古跡五。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]那須町大畑

沓石くづいし村の南、南流する三蔵さんぞう川の小段丘上や丘陵の麓に位置し、西は蓑沢みのざわ村、南は中梓なかあずさ村、東は八溝やみぞ山塊を境に陸奥国。三蔵川沿いに関街道が通る。近世を通して旗本芦野領。慶安郷帳に村名がみえ田高六石余・畑高三石余、改革組合村では高八一石余、家数七。嘉永二年(一八四九)の覚(三森美鉦文書)では家数四・人数一五。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]浅川町東大畑ひがしおおはた

やしろ川の支流殿との川の沿岸平坦地に水田が開け、東方は山林地帯となっている。大畠とも記す。東の畑田はただ村より里に近く、地形上大きな畑を作ることができたのが村名の由来とされる(浅川史)。貞治三年(一三六四)四月二五日の結城朝常譲状(結城文書)に「たかのゝこほりのうち大はたけ」とみえ、当地が朝常から子政常に譲られているが、当時は高野たかの郡に所属していた可能性がある。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]三日月町大畑

三尾みつお村の西、大下おおさがり村の南、標高三五〇メートル級の高原台地に立地する。東大畑・西大畑の二集落がある。南は赤穂郡留万寺とどまじ村・鍋倉なべくら(現上郡町)。慶長国絵図に大畑村とみえる。江戸期の領主の変遷は細月みかづき村に同じ。正保郷帳では田方五〇石余・畠方二八石余、芝山有、小松はへ有と注記される。

大畑村
おおはたけむら

[現在地名]墨田区八広やひろ一―六丁目など

下木下川しもきねがわ村の西にあり、北は木下きのした村、西は寺島てらじま村。元禄郷帳に大畠新田村とあり、高二五〇石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以後幕末まで同領であったとみられる(旧高旧領取調帳)。「風土記稿」・天保郷帳では大畑村とある。元禄一〇年(一六九七)に検地が行われ、飛地が下木下川村内にあった。

大畑村
おおばたけむら

[現在地名]茂木町大畑

竹原たけはら村の東、那珂川右岸に位置し、集落は段丘崖を境に上・下の二組に分れて形成される。地内に下平しただいらとよぶ約一〇町歩にも及ぶ広いまとまった平地があり、広い畑のある所という意味から村名になったという。慶安郷帳では芳賀郡に記されるが、寛文四年(一六六四)の烏山藩領知目録では那須郡内とある。はじめ烏山藩領、延宝元年(一六七三)旗本依田領、元禄郷帳では幕府領、改革組合村・旧高旧領取調帳では旗本依田領。

大畑村
おおばたけむら

[現在地名]新治村大畑

西は藤沢ふじさわ村。大部分は畑地でわずかに谷津田がある。江戸時代は土浦藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「県方集覧」(酒井泉氏蔵)によれば、文禄二年(一五九三)結城秀康支配時と寛永一〇年(一六三三)藩主西尾忠照のときに検地が行われた。元禄郷帳の村高は四〇一石余。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]吉川町大畑

南大沢みなみおおそう村の西に位置し、美嚢みの川両岸と南部の丘陵地に立地する。西は鍛冶屋かじや村。慶長国絵図には「小畑村」とみえる。領主の変遷は吉谷きつたに村に同じ。正保郷帳では田方三一〇石余・畑方二四石余。天保郷帳では高三九〇石余。

大畑村
おおばたけむら

[現在地名]掛川市上西之谷かみにしのや

原野谷はらのや川の支流西之谷川上流にあり、東は栗島くりしま村。文禄二年検地高目録に「大畠」とみえ、高六石余。正保郷帳には大畑村と記され、田方三石余・畑方九石余、掛川藩領。国立史料館本元禄郷帳でも同藩領。延享三年(一七四六)幕府領、明和七年(一七七〇)掛川藩領となる(文政一二年御高等書留など)

大畑村
おおはたむら

[現在地名]三田市大畑

井草いのくさ村の南、東山ひがしやま村の南西、東山村との境界を南流する武庫むこ川の河岸段丘上に立地する。武庫川と相野あいの川に挟まれた間を丹波への道が通る。「本庄村誌」によれば、もと東山村に属し、標高一七〇メートルの台地に弘治年間(一五五五―五八)には家屋三戸があり、大田原と称していた。

大畑村
おおはたむら

[現在地名]竹田市市用いちもち

市用村の南西の台地上にある。幕末に市用村から分村し、弘化物成帳では中角組のうち、村位は中、免七ツ二分五厘、田一二七石余(一三町四反余)・畑三三石余(六町五反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田一石余(八反余)・開畑四石余(七町二反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報