川合村(読み)かわいむら

日本歴史地名大系 「川合村」の解説

川合村
かわいむら

[現在地名]蒲生町川合

下小房しもおぶさ村の北西、佐久良さくら川の北岸(一部南岸)に位置する。河井・川井・河合とも記した。集落は本郷ほんごう上出かみで(上本郷)東出ひがしで・西出・畑田はたけだの垣内に分れ、うち畑田はほかの垣内から離れて東方に位置する。東端を走る御代参ごだいさん街道には嘉永二年(一八四九)銘の、集落内をほぼ北西―南東に貫き日野町と八幡町を結ぶ道には嘉永元年銘の道標が建つ。また北上して八日市に通じる道沿いの沢溜さわだめ赤坂あかさかにも道標が建てられていた。古代条里の地割がよく残り、字大屋おおやにはいちつぼから四ノ坪までの坪地名もある。文明二年(一四七〇)一〇月日の河井頼慶等連署田地売券(今堀日吉神社文書)に「河井成願寺」とみえる。「成願寺」は当地の願成がんじよう寺のことか。本郷には河井氏居館跡があり、土塁・堀跡などが残る。河井氏は中世六角氏被官として一帯に勢力を有し、至徳二年(一三八五)六月晦日の斯波義将施行状(祇園社記)に山中入道浄俊らと語らって祇園社領成安なりやす保を押妨した「河井信濃」がみえるのをはじめとして、近在庄園の庄官として一族の名が散見する。永禄一一年(一五六八)二月二七日、浅井長政は「河井在所」などを与えることを約して、山中大和守俊好に与同するよう誘っている(「浅井長政申談書」山中文書)

川合村
かわいむら

[現在地名]大田市川合町川合

静間しずま川を境に吉永よしなが村の南に位置し、南は鶴府つるぶ山を境に邇摩にま忍原おしはら村。三瓶山麓の浮布うきぬの池を水源とし西流する静間川は、当村内で流れを北へ転ずる。村名は静間川と邑智おおち郡境の山嶺を源として北流する忍原川が当地で合流するところから生じたという。「和名抄」に載る安濃あの郡川合郷の遺称地とされる。「出雲国風土記」の神門かんど郡に石見国「安濃郡の川相郷に通ふは、三十六里なり。径、常にはあらず。但、政ある時に当りて、権に置くのみ」と記される。川合郷庁は当地の物部もののべ神社付近に比定される。中世は河合かわい郷に含まれた。寛永二〇年(一六四三)吉永藩が成立すると、当村に藩の御蔵が置かれ、蔵入地である川合村・志学しがく村・上山うやま村・池田いけだ村・小屋原こやはら村・多根たね村・円城寺えんじようじ村の年貢米が納められた(「吉永記」、延享二年「丸清左衛門記録」原田家文書)

川合村
かわいむら

[現在地名]上野原町川合

桂川右岸の河岸段丘上に位置し、同川の対岸北方は四方津しおつ村、西は塩瀬しおせ(現大月市)。桂川と谷田やた川の合流する地点にあたる。「甲斐国志」は枝郷として杖突つえつき千足せんぞくをあげる。本村は村の西部桂川沿いにあり、千足は本村の南東山間に、杖突は本村から二四町ばかり隔たった村の東部に位置した。本村から四方津村へは渡船があり、枝郷杖突から四方津村へは簡単な「麁朶ヲ並ベシ許リニテ」「危クシテ足モトスクミ難歩」という危険極まりない板橋で通じていた(甲斐国志)。文化三年(一八〇六)の村絵図(都留市蔵)によると、渡船場は現在の川合橋付近にあったと思われる。

川合村
かわあいむら

[現在地名]長野市真島ましま町川合

千曲川とさい川の合流点。北は犀川に面し東は千曲川に臨み、村の地字の末にはしま河原かわら川式かわしき土手合どてあいのいずれかの名がついている。両川の落合は村の北東にあたり、標高は三四二メートル。

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の乃貢未済庄々に「善光寺領阿居・馬嶋村山・吉野」とあるのが初見。諏訪御符礼之古書寛正五年(一四六四)四月の条に「川井」、同書文明五年(一四七三)には「河井」とも記す。寛正五年諏訪御符礼之古書に「宮頭、川井、下総守胤景、御符之礼百文使孫六、頭役二拾貫、御教書礼三貫三百」とある。

川合村
かわいむら

[現在地名]佐久間町川合

中部なかべ村の南西にある。村名は河合とも書き、天竜川と大千瀬おおちせ(浦川)の合流する付近に位置する所からこの名がある。大千瀬川に沿ってかみ高平たかつたいら蕨野わらびのなどの集落がある。豊田とよだ郡に属する。戦国時代末期に当地は片桐権右衛門家正の支配下に置かれたという。寛政一一年(一七九九)の由緒書(御室家文書)によれば、天正年間(一五七三―九二)徳川家康の臣として中部水巻みずまき城の奥山美濃守定茂を討った家正は、慶長年間(一五九六―一六一五)阿多古あたご(現天竜市)西手にして奥山おくやま三領の代官として大千瀬川右岸の田島たじまで御用を勤めたという。

川合村
かわいむら

[現在地名]河合町大字川合

大和川と曾我川が合流する広瀬ひろせ神社鎮座地。河合・河相とも書く。風神を祀る竜田たつた立野たつの(現生駒郡三郷町)に対し大忌神を祀った「広瀬の河曲かわわ」の地である。属邑市場いちば村は近世舟運の川港地である。応永六年(一三九九)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)に「河合郷」とみえる。

慶長郷帳・元和郷帳では「河合村」ともみえる。

川合村
かわいむら

[現在地名]亀山市川合町・みどり町・みずほだい

和田わだ村の東北に続く東海道沿いの村。中央部をむく(小田川)が貫流、村の東で鈴鹿川と合流する。「三国地志」には「河合」とある。

近世を通じて亀山藩領。寛永一四年(一六三七)の内検地では田畑合せて八八町余、村高は一千一七六石余、茶桑銭・藪年貢・新開林運上銀などの小物成を上納。助郷は亀山宿に出役し、寛文六年(一六六六)の改定以後は馬一四疋を出し、別に伝馬宿入用銭を負担した。

川合村
かわいむら

[現在地名]千倉町川合

白子しらこ村の西、瀬戸せと川左岸に位置する。戦国期には河井・川井とも記した。天正一八年(一五九〇)一〇月七日の増田長盛知行充行状(川辺裕氏所蔵文書)によると、「丸郡河井村」の一二一石余の知行が里見氏家臣石井駿河守に安堵されている。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に川井村とみえ、高一五〇石余、うち田方八二石余。里見氏給人領。同一一年の里見家分限帳には川居村とある。

川合村
かわいむら

[現在地名]可児市川合

西流する木曾川に飛騨川が合流する辺り、木曾川南岸にある。長享元年(一四八一)一二月一二日の青蓮院領荏戸上郷年貢目録写(華頂要略)に「河合村」とみえ、京都青蓮しようれん院へ納めるべき年貢は宮垣内名と中垣内名各六貫六八四文・的場名五貫九三九文・諸屋垣名四貫九四〇文・東垣内名四貫三三九文および禰宜畠一貫五〇〇文となっていた。慶長郷帳には川井村とあり高一六八石余、幕府領。元和元年(一六一五)尾張藩領となる。正保郷帳には田一一五石余・畑五三石余、ほかに小物成米野年貢四升、大川・草野がある。

川合村
かわいむら

[現在地名]静岡市川合・瀬名中央せなちゆうおう一丁目・南瀬名町みなみせなちよう瀬名川せながわ一丁目・東千代田ひがしちよだ一丁目

ともえ川沿いに位置し、北は南沼上みなみぬまがみ村。河合村とも記す。「修訂駿河国新風土記」によると、有渡うど郡に属した時期もあったらしい。戦国期には河合郷と称された。領主の変遷はいけ村と同じ。元禄郷帳では高七八一石余。旧高旧領取調帳でも高七八一石余で、ほかに玄祐げんゆう(現日蓮宗)七斗・増福ぞうふく(現曹洞宗)一斗余がある。寛政一二年(一八〇〇)の村明細帳(川合区有文書)によると、慶長検地以来高七八一石余で、田五一町四反余・畑六町九反余・屋敷一町二反余、家数七〇(本百姓五三・水呑一七)・人数二九六。

川合村
かわいむら

[現在地名]清水町川合

中原なかはら村の東に位置し、「続風土記」に「村の中間を三腰川二沢より来りて西に向ひて流る、北野川艮より来り、名子谷川巽より来りて、皆此地にて落合ふを以て川合村の名あり」とある。三腰みこし川は現四村よむら川、名子谷なこたに川は現中尾谷なかおたに川である。

慶長検地高目録には村名はなく、中原村に含まれていた。のち分村し天保郷帳では村高八五石余。慶長六年(一六〇一)の川合村御検地帳写(善福寺文書)によれば茶三四斤余を産した。屋敷数一九。文化五年(一八〇八)の川合村大指出帳(堀江家文書)では家数一六で内訳は庄屋一・肝煎一・本役七・半役六・無役一、人数五三(男二五・女二八)、牛三。文政三年(一八二〇)の山保田組在々家数人数并牛馬増減調帳(同文書)では家数一九(高持一六・無高隠居家三)、人数五二(居村稼人五〇・他領出稼人二)、牛三。

川合村
かわいむら

[現在地名]作手村白鳥しろとり

野郷のんごう村の北。北から流れるともえ川に、東西から相月あいつき川・西畑にしはた川の小流が合流する地点にあり、これが村名の起源と考えられる。現作手村中央の平坦地の南端にあたり耕地もかなり多い。近世の記録にはしばしば河合村と記す。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)より幕府領、享和二年(一八〇二)より平藩安藤対馬守領、文久二年(一八六二)幕府領に復し幕末に至る。慶応元年(一八六五)の助郷免除願書(三州長者平村所収文書)によると、高一五二石余、戸口は一七軒・七六人、馬三匹。

「三河国二葉松」に「川井村古屋鋪 二ケ所在之、奥平伝九郎或時奥平美作守美藤万五郎ト云者ヲ以テ本宮山猿カ馬場ト云所ニテ鉄砲ニテ殺ス、次阿知和七兵衛住ス」とあり、禅源ぜんげん寺の旧記では伝九郎が万五郎を討取ったともいう。

川合村
かわいむら

[現在地名]美濃加茂市川合町一―四丁目

上古井かみこび村の枝郷。本郷ほんごうの南にあたり木曾川と飛騨川の合流点に面する。北川合村ともいい、木曾川の南は可児かに郡川合村(現可児市)小山こやま村および可児郡川合村へ越す渡船場があった。「濃州徇行記」によれば尾張藩概高四二石余。農業と船稼を渡世とし、家は五〇戸ほどで川の合流点に軒を連ねる。船頭六六人、船二九艘ほどがあり、下麻生しもあそう(現加茂郡川辺町)黒瀬くろせ(現同郡八百津町)などの船荷物や薪類を積み、おもに名古屋へ運漕した。寛保元年(一七四一)船改では、黒瀬より勝山かつやま(現加茂郡坂祝町)までの一一六艘中一五艘であったが(「黒瀬湊留書」佐藤文書)、明治七年(一八七四)には一一石積鵜飼形船九三艘に達した(「上古井村船頭持船届」美濃輪文書)

川合村
かわいむら

[現在地名]鳳来町川合

南は名号みようごう村・柿平かきだいら村、西は宇連うれ(現北設楽郡設楽町)、北は三瀬みつせ(現北設楽郡東栄町)、東は池場いけば村に接する。標高一〇一六メートルの明神みようじん山の西、砥沢とざわ山から採れる砥石は、三河白として知られ、名倉なぐら(現北設楽郡設楽町)の南朝の遺臣名倉左近が発見したので名倉砥ともいう。三河に侵入した甲斐の武田氏は、この砥石山を入手。のち江戸幕府が支配した。現在も個人で採掘を続けている。

川合村
かわいむら

[現在地名]八女市川犬かわいぬ

たいら村の南西に位置する。中世は河合庄などとみえる。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に河合村とあり、新庄しんじよう村と合せて高一千一七〇石余。元禄五年(一六九二)の田三四町九反余、畑・居屋敷一八町余(「新庄組井手水掛畝高帳」矢賀部家文書)。本高は五七四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一千石・役高九三五石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高九三三石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田四〇町六反余・開田二反余・畑田三町八反余・畑一八町三反余・居屋敷八反余。

川合村
かわいむら

[現在地名]北山村大字河合かわい

北山川と小橡ことち川との合流地に立地。神河三村こうのがわさんそんのうちに成立した村。慶長郷帳には村名はみえず、村高九四五・一九七石の「北山村」の内に含まれる。寛永郷帳に初めて村名が現れ、村高四五・八〇五石、幕府領。のち延宝検地により村高七三・〇七一石となった。

元禄一一年(一六九八)三月付代官宛の和州吉野郡北山川合村という帳に、枝村として西山にしやま(高六・二三石、親村より北に当、道法一里)谷口たにぐち(高一・三六一石、親村より辰巳に当、道法三里)古川ふるかわ(高三・四五石、親村より辰巳に当、道法三里)がみえる。

川合村
かわいむら

[現在地名]大台町川合

佐原さわら村および焼飯やきい村の南、宮川の右岸にある。地名は当地で大内山おおうちやま川が宮川と合流することに由来するといわれる。大杉谷おおすぎだに(現宮川村)への参詣の道筋にあたり、野後のじり(現度会郡大宮町)から当村を経て、西の下菅しもすが・上菅へと向かっている。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「川合村」と記されている。元禄郷帳は川合村枝郷として荒堀村・小ヶ所新田・大ヶ所新田を記す。

川合村
かわいむら

大正二年(一九一三)から同一五年まで存続した中川なかがわ郡の村。同二年四月凋寒しぼさむ村を改称して成立した二級町村。同年の戸数一千四六九・人口八千四八九、うち男四千四〇一・女四千八八(道戸口表)。同四年には村役場が利別太としべつぶと市街から池田市街に移され、大字名の改正も行われた。同八年四月一級町村制を施行。この頃には利別太南二線に製紙工場、池田市街に製麻工場ができ、鉄道の機関庫設置もあって池田市街・利別市街の周辺の工業地化が進んだ。

川合村
かあいむら

[現在地名]上之保村 川合かわい

津保つぼ川とその支流小那比おなび川の合流部に位置し、西は宮脇みやわき村。村名は川が合流する地にあることに由来する(新撰美濃志)。出郷の小笹おざさ赤滑あかなべがある。慶長一〇年(一六〇五)の実蔵坊津保檀那目録案(経聞坊文書)にみえる河井孫左衛門は当地の者であろうか。

川合村
かわいむら

[現在地名]天川村大字川合かわあい

てんノ川上流、下市町に通ずる交通の要衝に立地する。河合村(寛永郷帳)とも書く。俗称大門だいもん村ともいう。天川郷のうち。慶長郷帳では三五・六五三石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により四五・四〇四石となった。

畔田伴存の「吉野郡名山図志」に「日裏村より大門(河合)村江壱里。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報