小島村(読み)こしまむら

日本歴史地名大系 「小島村」の解説

小島村
こしまむら

[現在地名]長崎市上小島かみこしま一―五丁目・中小島なかこしま一―二丁目・西小島にしこしま一―二丁目・東小島町ひがしこしままち桜木町さくらぎまち稲田町いなだまち

高野平こうやひら村の南西に位置し、玉帯たまおび川が北西流する。中世、将軍足利義輝の上使である小島備前守が当地に屋敷を構えたと伝える(長崎建立并諸記挙要)。永禄一一年(一五六八)八剣やつるぎ社が祀られたという。江戸時代ははじめ大村藩領で、慶長一〇年(一六〇五)より幕府領で長崎代官支配となる。慶長九年正覚しようかく寺が創建されている。正保国絵図に小島村として高一二〇石余。貞享四年(一六八七)「長崎小島村」で大村稗木場ひえこば(現大村市)の者が放火、火罪に処された(犯科帳)。寛延元年(一七四八)異国船来航に伴い薩摩鹿児島藩が派遣する名代が宿所に充てる用場所は小島郷の今村某掛屋敷と片淵かたふち郷の林某掛屋敷と定められた(通航一覧)

小島村
おじまむら

[現在地名]川俣町小島

広瀬ひろせ川に沿い、南は在飯坂ざいいいざか村、北は上手渡かみてど村・下手渡村・下糠田しもぬかだ(現月舘町)。永禄一一年(一五六八)四月、当地で伊達輝宗方と相馬盛胤の合戦があり、瀬上景康に戦功があったという(性山公治家記録)。なお天文七年(一五三八)の段銭古帳に当地の記載はなく、懸田氏領の小手おで八邑に含まれていたものとみられる(川俣町史)。「伊達世臣家譜」の小島家譜によれば、小島丹波は懸田氏の一族で小島城に住し、伊達政宗のときから伊達氏に属したという。「伊達天正日記」のうち天正一七年(一五八九)四月二一日の野臥日記に小島町・小島之郷とみえる。小島町は小島城の城下町と考えられており、代官源次郎のほか野伏三六人の名が記され、代官・検断が置かれた町場が形成されていた。

小島村
おじまむら

[現在地名]西尾市小島町

市の東北に位置し、矢作川と矢作古やはぎふる川の分岐点の東岸にある山裾の町。北は矢作川をもって藤井ふじい(現安城市)に対し、東と南は安藤あんどう川をもって米野こめの村・江原えはら村と境し、西は矢作古川をもって志籠谷しこや村と境する。この地は矢作川開削前は、三面が河流に囲まれ、その形が島に似ているところからこの村名が起こったといわれる。

この村から高さ三一・五センチの銅鐸が発見されている。「中頃の銅鐸」と表現される類で、近くに五砂山ごさごやま遺跡(縄文時代晩期)があり、これと関連した遺物と思われる。三河国内神名帳に「正五位下 小島之天神外弐座 坐碧海郡」とあるが、「日本地理志料」は「和名抄」に記す碧海あおみ郡一五郷のうち、呰見あざみ郷を浅井あさい郷として、小島を浅井郷に所属させている。

小島村
こじまむら

[現在地名]磐田市小島

野箱のばこ村の南にあり、南は海老島えびじま村・稗原ひえばら(現竜洋町)豊田とよだ郡に属する。慶長九年(一六〇四)伊奈忠次の検地を受けた(「御縄打水帳」堀内家文書)。正保郷帳に小島村とみえ、高六五三石余、幕府領。うち田方四四一石余・畑高一九一石余、正眼しようげん院領二〇石。日損、新田ありと注記される。寛文一二年(一六七二)村内の争論が契機となり、中泉代官による本田・新田を合せた村全体の検地が行われ、改高八五六石余となった。その際村高の一〇分の一を夫役負担の代償として年貢賦課から控除する十分一夫免が廃止された(享保一四年「村明細帳」堀内家文書)。元禄郷帳では高九〇五石余。国立史料館本元禄郷帳では浜松藩領と旗本北条領。北条氏知行分の一三五石余は上小島かみこじま村と称した(享保郷村高帳)

浜松藩領分は享保三年(一七一八)には高七二一石余、家数八八(うち本百姓七八・水呑百姓一〇)・人数四一二、馬一三。

小島村
こじまむら

[現在地名]七尾市小島町

七尾南湾に位置し、東限近くを小島川(現桜川)が北流して七尾南湾に注ぐ。文明一一年(一四七九)八月、守護畠山義統の招きで能登を訪れた歌人の招月庵正広は、九月四日七尾南湾岸の磯遊びの途次「小島の観音」を拝し、古寺残灯と題して「此浦の南の小嶋補陀羅具のはしめはこれか残るともし火」(「松下集」国会図書館蔵)を詠んでいる。

天正一七年(一五八九)九月二二日の前田利家印判状写(能登生国玉比古神社文書)の宛名に「小島所口之百姓中」とみえ、このとき当地の一部が所口ところぐち屋敷の替地として明神野めじのに移転させられた。

小島村
こじまむら

[現在地名]須坂市小島町

現須坂市北西部。東は小河原おがわら村と耕地で境。南は小河原村・沼目ぬまめ村と耕地で境。西は相之島あいのしま村と百々どど川で境。北は飯田村・大島おおじま(現上高井郡小布施町)と境する。村東南より八木沢やぎさわ川が流入、西北流して西部中央で百々川に入る。北にまつ川、西は百々川の氾濫原でやや高く東部水田地帯は窪地となっている。

集落は西南部に集まり、南端沼目村境に中村なかむら、八木沢川北に本田ほんだ、水田を隔て北に新田しんでんがある。本田は、村社豊宮とよみや神社(祭神建御名方命)の南に塊村をなす。

小島村
こじまむら

[現在地名]登米町小島

寺池てらいけ村の南西、水田に囲まれた丘陵付近にあり、南に山地が広がる。東は寺池村高梨子たかなし、西は新井田にいだ村境谷地(現中田町)、南は吉田よしだ村端郷善王寺ぜんのうじ森の腰もりのこし(現米山町)、北は新井田村境葛籠淵つづらぶち谷地境に接する。東西一七町・南北九町とある(登米藩史稿)。中世の様子は不明であるが、天正一八年(一五九〇)滅亡した葛西氏の旧臣が小島に居を構え、村を起こしたといわれる。近世に入り登米伊達氏の所領となり、寛永六年(一六二九)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)に六五貫一六三文とある。

小島村
おしまむら

[現在地名]熊本市小島上おしまかみ町・小島中おしまなか

坪井つぼい川と白川の有明海への河口にあり、両河川に挟まれて細長く延びる。東は下代しもだい村、南の白川上流は薬師町やくしまち村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方三九町一反余・畠方二七町三反余、分米六八三石八斗余とある。同一三年の検地帳では田方五三町二反余・畠方三四町五反余、分米九六三石七斗余。家数一四七、男七九・女六七のほか、せがれ一六・年寄一一・うば一三・せんもん三・さとう(座頭)一、馬三・牛一五をあげる。池田手永に属し、「国誌」に「小島町ト云小市アリ」とし、のちに城下の外港としての高橋たかはし町の地位をおびやかすことになる小島町は、まだ村の中の小市であった。

小島村
おしまむら

[現在地名]豊岡市小島

円山まるやま川河口部の西岸に位置し、対岸は気比けひ村。西は美含みくみ田久日たくい(現竹野町)。中世は気比庄(気比水上庄)に含まれ、天正九年(一五八一)二月二六日付の気比庄浦々網漁諸役書上(瀬戸区有文書)に、「一、小島之事、引あみ・てくりあみ仕候ニ付て、さいれう(菜料)やく(役)仕候事歴然候」と記される。農業のほか漁業を行い浦役を負担する漁村で、引網・手繰網という網の名称・種類が注目される。網漁は江戸時代にも行われ、寛文一三年(一六七三)には気比村との間で網引場の使用権をめぐって争論があり、通常の月は当村は一二日間と定められた(同年四月「網引場争論裁許につき申渡書」気比区有文書)

小島村
こじまむら

[現在地名]淀川区十三東じゆうそうひがし一―五丁目・十三本じゆうそうほん町二―三丁目

西流する中津川右岸にある。東は川口新家かわぐちしんけ村。当村南部中津川沿いに川口新家村の飛地があり、北の野中のなか村境を中島なかじま大水道が西流する。寛正二年(一四六一)一二月二六日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)の「中島所々年貢茶目録」に「乳牛牧并小島」とみえ、四斤八四匁の茶年貢を納めている。

小島新田村小島古堤こじまふるづつみ新田村はもと当村と一村であったが、江戸初期、浪花の人島忠次(号道悦)が村南辺を流れていた中津川の曲流を治水のため改修、村が分断されて南部は小島新田村、旧流域南岸堤防の地は小島古堤新田村として独立した。

小島村
こじまむら

[現在地名]守山市小島町

播磨田はりまだ村・今市いまいち村の東に位置。東辺を野洲やす川が北流、同川の古い分流が形成した自然堤防上に位置する。応永五年(一三九八)閏四月二日の三上みかみ(現野洲郡野洲町)河田前春簗にかかわる請文写(御上神社文書)には、小島の源五郎らの名がみえる。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「四百九拾五石壱斗三升 杉若」とみえる。慶長七年(一六〇二)の検地帳(小島共有文書)では三二町余・四六五石余、反別は田二六町余・四一〇石余、畑五町余・四六石余、屋敷七反余・八石余で、うち上田は一四町余・二三九石余。

小島村
おしまむら

[現在地名]穴吹町三島みしま

三谷みたに村・舞中島まいなかしま村の西、東流する吉野川の右岸に位置する。伊予街道が通り、南は口山くちやま村、北は吉野川を隔てて岩倉いわくら(現脇町)、西は太田おおた(現貞光町)。慶長二年(一五九七)の分限帳では稲田小八郎(示稙)知行分のうちに小島高三五三石余がみえる。また当地竹田家には寛永四年(一六二七)の検地帳のうち八〇筆・高六石七斗余・反別二町七反余分の記載が残る。正保国絵図に小島村とあり、高三五三石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田高一三〇石余・畠高二二三石余、旱損、芝山の注記がある。

小島村
こじまむら

[現在地名]妻沼町小島

利根川左岸の自然堤防上に位置し、対岸はだい村・出来島できじま村、西は上野国新田につた押切おしきり(現群馬県尾島町)。「風土記稿」によると、東は利根川の古川を隔て同国邑楽おうら古戸ふると(現同県太田市)に接している。中世の上野国新田庄小嶋郷に比定され、近世以降武蔵国幡羅はら郡に編入されたと考えられる。建保三年(一二一五)三月二二日の将軍家政所下文写(正木文書)によれば、岩松時兼は新田庄内の一二郷の地頭職に補任されており、そのなかに「小嶋郷」がみえる。

小島村
おじまむら

[現在地名]いわき市小島町・内郷うちごう小島町おじままち

夏井なつい川支流のしん川右岸にあり、北対岸は磐城平いわきたいら城下、東は谷川瀬やがわせ村、南と西は御厩みまや村。永仁五年(一二九七)八月八日の八幡宮鳥居作料等配分状案(飯野八幡宮文書)に「百卅文 白米三升 小島」とみえ、飯野いいの八幡宮の鳥居作料を負担している。応永八年(一四〇一)閏正月一五日の飯野八幡宮閏月祭礼役配分目録(同文書)好島西よしまにし庄のうちに「小島大瓶一折櫃一余不進」とみえる。年月日未詳の飯野八幡宮閏月祭礼役配分目録(同文書)に「小島 たいへい一さかつき」とある。

磐前いわさき郡に属した。近世は磐城平藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高三六五石余。

小島村
おじまむら

[現在地名]西会津町登世島とせじま

松尾まつお村の北、阿賀川の南岸に位置し、河沼郡野沢組に属した。越後街道の脇道の一、勝負沢しようぶざわ峠越が通り、阿賀川対岸北方は耶麻郡八重窪やえくぼ村。集落は本村にあたる東の上小島と西の端村下小島の二つに分れる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに小島とみえ、高七六四石余。寛文五年(一六六五)の野沢組土地帳(西会津町史編さん室蔵)では高七七七石余、家数六五、男二三三・女一九二、馬四七。「新編会津風土記」によると、かつて八重窪村の領主武藤摂津守は当村の領主成田右馬丞に娘を嫁がせた際、八重窪村と中山なかやま(現高郷村)境の戸屋峠とやとうげ山を引出物としたと伝えるが、近世、当村は八重窪村地内に入会地を有し、同村へ山年貢として金一分・銀一〇匁を支払っていた(佐藤家文書)

小島村
おじまむら

[現在地名]本庄市小島・小島一―六丁目・小島南おじまみなみ一―四丁目など

本庄台地の末端からからす川・利根川の沖積低地にかけて位置し、東の本庄宿から続く中山道が台地の末端部を通る。「和名抄」にみえる賀美かみ郡小嶋郷の遺称地とされ、中世には小嶋郷に含まれていた。村域の北部を元小山もとこやま川が東流し、北部の低地部と西の下野堂しものどう村地内に複雑な小字境界が入交じっている。下野堂村のなかに飛地がある一方、北側の低地には同村・杉山すぎやま村・新井あらい村の飛地があり、飛地の中にさらに飛地があるなど、それぞれ村の成立からみて分村を繰返した結果であると考えられる。

小島村
おしまむら

[現在地名]鹿本町小島

東は玉名たまな上梶屋かみかじや村・上中富かみなかどみ村、南は同郡中富村、西はしん町、北は上御宇田かみみうた村・下高橋しもたかはし村と接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「藤井村打出小嶋村」とあり、藤井ふじい(現山鹿市)を本村とする分村である。同帳によると田二五町七反余・畑三町余、分米三四九石二斗余、家数九・人数一八、牛馬五。近世は玉名郡中富手永に属した。寛永一六年(一六三九)の地撫帳によると、田二一町四反余・畑二町四反余、高三五三石四斗余、下田・下々田が一六町余をしめる。

小島村
こじまむら

[現在地名]長野市大字小島

千曲川左岸近くにあり、東は中俣なかまた村と八幡堰やわたせぎ川で境し、西は北尾張部きたおわりべ村・石渡いしわた村・北堀きたほり村と用水堰などで境し、南は北長池きたながいけ村、北は冨竹とみたけ村と境する。

中世は、嘉禄三年(一二二七)一〇月一〇日の鎌倉幕府が島津忠時にあてた将軍家下文(島津家文書)に、「信濃国太田庄内小島・神代、石村南・津乃已上四箇郷地頭職事」とある。また嘉暦四年(一三二九)三月の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に、「下浅野小島、大隅孫三郎入道知行分」とあるように、太田おおた庄に属し、島津氏が地頭職として鎌倉時代を通じて領知するところであった。

小島村
こじまむら

[現在地名]大島町小島

小林こばやし村の西、北高木きたたかき村の南西に位置し、村の北部を東西に草島くさじま(現富山市)への道が通る。道沿いの籠屋敷かごやしきに古い集落があったといわれる。正保郷帳に村名がみえ、高八五一石余、田方四〇町八反余・畑方一五町九反、新田高一二九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千二四石、免三ツ六歩(三箇国高物成帳)。その後延宝二年(一六七四)に畑直高四八石余が加わった(「高免等書上帳」折橋家文書)

小島村
おじまむら

[現在地名]下妻市小島

下妻町から宗道そうどう(現結城郡千代川村)に通じる道筋にあり、西は松岡まつおか村。応永二年(一三九五)一〇月一七日の足利氏満判物(安保文書)に「常陸国下妻庄内小島郷半分事」とあり、小島郷の半分が安保憲光に宛行われている。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は七五一石余。幕末は天領七〇石余、旗本朝倉・武田・小田切各氏領各一〇四石余、高城・岩瀬・佐橋・榊原・蜷川各氏領各七〇石余、城廻しろめぐり観音かんのん寺・光岸こうがん寺領各五石、同明観めいかん院領三石(各村旧高簿)。正徳三年(一七一三)の東当郷村明細帳(早川家文書)によれば、村内に東当郷ひがしとうごう村の入作地三〇石があった。

小島村
こじまむら

[現在地名]久留米市安武町武島やすたけまちたけしま

筑後川下流左岸に沿う低地に位置する。北端を金丸かなまる川が西流し、筑後川に合流する。東は安武本やすたけほん村、西は大島おおしま村。文明一九年(長享元年、一四八七)八月二七日、田原親宗に本地の一時的代替として小島一二町などが預け置かれている(「三潴郡内新給坪付」田原文書/宮崎県史 史料編中世二)。「寛文朱印留」に小島村とみえる。本高は五四八石余(元禄国絵図)

小島村
こしまむら

[現在地名]北川村小島

和田わだ村の北東、奈半利なはり川右岸に日浦ひうら、左岸にかげの集落がある。左岸北方には三つの滝の落ちる水谷みずたにがあり、磨崖仏が刻まれ、かつての山岳修行者の行場であったとされる。平家の残党仁井田某が住んだと伝え、その住居跡を御屋敷の段おやしきのだん、のちにこの地を領有した児島権之守の墓地と伝える地を仏の段ほとけのだんとよぶ。北川村の枝村。

天正一五年(一五八七)の北川之村地検帳には「是ヨリ小島之村」として「小島之村小島名」に五四筆、「日ウラ島村小島名」に一五筆記され、総計は五町二反一八代二歩。うち切畑が六反五代で、作物は蕎麦・芋など。屋敷は寺を含めて二一筆あり、うち一筆が一〇代の名本屋敷、小島村に円返(通か)寺寺中一〇代、日ウラ島村に南面なんめん寺寺中一五代が記される。

小島村
おしまむら

[現在地名]玉名市小島

菊池川河口の三角洲の北端にあり、西・北は川に半島状に突出る。東は千田河原せんだかわら村、南ははま町に接する。近世初頭の加藤清正による掘替工事以前は島であったとされる。弘治二年(一五五六)頃と推定される六月二三日の大友義鎮知行預ケ状(立花文書)に「肥後国伊倉之内小原遠江入道跡小嶋九町」とみえ、はま分などとともに戸次(立花)鑑連に預け進められている。また永禄一〇年(一五六七)一二月一四日の内田伊勢千代丸宛立花鑑連知行預ケ状写(内田文書)の「小嶋之内五町」、同年のものと推定される一二月一四日の内田典兵衛尉宛立花鑑連知行預ケ状写(同文書)の「小嶋之内三町」は、ともに立花氏から内田氏へ預けられていることから当地のことと思われる。

小島村
こじまむら

[現在地名]岐阜市一日市場ひといちば

一日市場村の南に位置し、東は長良川で限られ、南西境は川跡が池となっていた。長良川には御紅おべにの渡が置かれ、厚見あつみ鏡島かがしま村と結ばれた。現在もこの渡しは岐阜市に残る唯一の渡しとして県営で維持されている。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に北島村とみえ、高七四石余。正保郷帳には小島村とみえ、同高で畑方のみ。領主の変遷は寺田てらだ村と同じ。享保三年(一七一八)当時、則武のりたけ村などとともに中山道美江寺みえじ宿(現本巣郡巣南町)の掃除丁場村を勤めていた(「掃除丁場請帳」山本文書)。宝暦九年(一七五九)当村忠内は小船に曾我屋そがや村の米五〇俵を積み、忠節ちゆうせつ村の米屋善左衛門方に運んでいる(西川文書)

小島村
おじまむら

[現在地名]平泉町長島ながしま

長部おさべ村の南に位置し、西の北上川を越えて飛地がある。南に観音かんのん(三二五・二メートル)がそびえる。須崎すざきにある猪岡いのおか城は葛西氏家臣の居城で、「仙台領古城書上」に東城とみえ、城主は猪岡玄蕃。天正七年(一五七九)四月二日、加瀬谷源蔵は軍功によって「岩井郡小嶋村之内五千苅」を加増されている(「葛西晴信知行宛行状」東京加瀬谷文書)。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)には「にしおしまの内 ふね四そう」とある。

正保郷帳では田五八貫五二九文・畑三四貫四九〇文、ほかに四貫三一九文。「安永風土記」では田七二貫六九三文・畑五二貫二一六文。

小島村
おじまむら

[現在地名]砺波市小島

田尻たのしり村の東にあり、西方を北へ岸渡がんど川が流れる。元和五年(一六一九)の家高新帳に小島村とあり、若林わかばやしの内で役家数九。正保郷帳では高三一六石余、田方二町五反・畑方一八町六反余、新田高一四九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五七八石・免四ツ、小物成は野役二三匁・鮎役一匁・鱒役五匁。その後元禄一三年(一七〇〇)の畑直高二石余・新開高三九石余などが加わった(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には一七軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。所属組は中神なかがみ村に同じ。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では高六八一石余・免四ツ一歩。

小島村
おじまむら

[現在地名]清水市小島町・小島本町おじまほんちよう

横山よこやま村の北、南流する興津おきつ川の中流右岸に位置し、身延みのぶ(興津筋)に沿う。北は但沼ただぬま村、東は興津川を隔てて承元寺しようげんじ村など。安貞三年(一二二九)二月一三日の北条泰時御教書写(「諸家文書纂」所収興津文書)によると、「興津郷内小河内并於嶋内船太郎屋敷」が親父左衛門入道の譲状にまかせて興津虎石に安堵されている。永禄一二年(一五六九)一〇月九日穴山信君が小島郷の鳳栖院の再興を永悟に命じている(「穴山信君書状」竜雲寺文書)。寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後は幕府領。明暦二年(一六五六)ないし元禄一一年(一六九八)から旗本滝脇松平領、のち小島藩滝脇松平氏領として幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・明治四年旧桜井県事蹟取調書など)

小島村
こじまむら

[現在地名]松本市鎌田かまだ井川城いがわじよう

松本城下町をめぐる庄内しようない組の一村で、北は庄内村、東と南は出川町いでがわまち村、西は鎌田村・高宮たかみや村に接している。すすき川水系と川水系のつくる扇状地の上にあり、村の北端で両川が合流し、別に南方からの頭無ずなし川(穴田あなだ川)の湧水川とも合し、水量に恵まれた村である。小島村の名称はその地勢による。

天正検地の際の高付けは二六九石七斗三升であり、享保九年(一七二四)当時の石高は四二六石五升三勺と増加している。寛文年間(一六六一―七三)の水田は二三町四段七畝一八歩、畑地は四町九段二畝、水田面積の比率は高い。慶安検地時、本百姓一九。

小島村
こじまむら

[現在地名]福田町小島

東は太田おおた川で限られ、南は福田村。同名村が同川・天竜川の下流域に多く、当村は東小島ひがしこじま村ともよばれた(享保郷村高帳など)。正保郷帳に村名がみえ、田方二七九石余・畑方一一石余、宝鏡ほうきよう寺領二石。領主の変遷は下太しもふと村に同じ。東海道見付みつけ宿(現磐田市)の助郷も同村に同じ。正徳六年(一七一六)中島なかじま村が新田開発のために浜表に築いた堤により、洪水の際当村の田畑は水干に日数がかかるので、近隣一八村とともに堤撤去要求の出訴を行った。

小島村
こじまむら

[現在地名]上田市大字小島

塩田地区のほぼ中央から北部にかかる村。東は本郷新田ほんごうしんでん(現字下本郷)、南は五加ごか村、西は保野ほや村、北は川を隔てて福田ふくた村に接する。塩田盆地を東北に流れるさん川と川に挟まれた台地上にあり、字上小島かみこじまと字下小島に分れる。「長野県町村誌」によれば、現下小島は元和三年(一六一七)本村(現上小島)から一六戸転出し、本郷地籍の字上原うえはらの芝間を開墾し、小島村新田と名付けたという。

この地名の初見は、天正六年(一五七八)上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)に「三之御柱 小県郡塩田一二郷」の項に「小島郷六〇〇文」とある。

小島村
おじまむら

[現在地名]大刀洗町春日かすが

筑後川支流の陣屋じんや川中流右岸域に位置し、北東は本郷ほんごう町に接する。久留米藩領古図に小島村とみえる。本高は三一一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高四八〇石・役高二八二石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二八二石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では田二一町五反余・畑田四反余・畑二町八反余・居屋敷三反余。旧高旧領取調帳では高五三一石余。本郷からの松木まつのき用水が不足がちのため、享保一五年(一七三〇)上高橋かみたかはし村・平田ひらた村とともに床島とこしま用水の配水許可を受けたが、元文三年(一七三八)再び松木用水に切替えた。

小島村
おじまむら

[現在地名]菰野町小島

田光たびか川と杉谷すぎたに川が合流して、朝明あさけ川となる付近の北岸に位置する。西方には田光村がある。「神鳳鈔」に「二宮小島御厨各三石、六九十二月」と出る。天正一一年(一五八三)の内宮神領本水帳写には「壱貫文 長とく をし満」とあり、この頃まで神宮領が残存していたことが知られる。同一二年頃の織田信雄分限帳では、加藤氏が一時この地を知行していた。

江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降武蔵おし(現行田市)藩領、天保一四年(一八四三)以降幕府領として信楽しがらき(現滋賀県)代官所支配、安政元年(一八五四)より再び忍藩領。

小島村
こじまむら

[現在地名]弘前市富栄とみさかえ

弘前城下の北西にあり、東は鶴田つるた村、東南は蒔苗まかなえ村、南西は鼻和はなわ村、北東は三森みつもり村、北西は折笠おりかさ村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳に村名はないが、天保五年(一八三四)の郷村帳に村名があり、天明八年(一七八八)に二〇〇・六石、文化九年(一八一二)に一〇六・二石の新田高が書上げられ、天明八年までには立村されていたと思われる。高杉組に所属。村位は不明。「平山日記」によれば、安永四年(一七七五)小島村の長兵衛が、雀駆除のため百姓一軒当り五羽ずつ捕らえるよう申立て、同人方へ雀の足を持参するよう仰付けられているので、立村は少しさかのぼるといえよう。

小島村
こじまむら

[現在地名]山田村小島

山田川左岸にあり、なか村の北に位置し、村内を外輪野そとわの用水が流れる。字城山じようやまには神保長職が築いたといわれる小島城跡があり、上杉謙信の進撃に対して長職方の部将が防備にあたった出城であったとされる。別名大林おおばやし城といい、北の白井谷しろいだに村に物見の鐘突堂があったという(山田村史)。正保郷帳に村名がみえ、上野うわの(現婦中町)と合せて高二〇四石余、田方四町一反・畑方九町五反余。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では当村のみの村高一六四石余とある。

小島村
こじまむら

[現在地名]熊谷市小島

大里郡おし領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地上に位置し、北は荒川の旧河道を境に幡羅はら久保島くぼじま村、南は大麻生おおあそう村・広瀬ひろせ村。田園簿では田方二六三石余・畑方二一七石余、旗本水野領。国立史料館本元禄郷帳では旗本竹内・奥津の二家の相給で、以後変化なく幕末に至る(改革組合取調書など)。「風土記稿」によると家数七〇余、用水は大麻生堰を利用。天保一三年(一八四二)の熊谷宿助郷村高覚(「海駅門」熊谷市立図書館蔵)によると助郷勤高四八四石。「風土記稿」に小名としてもみえる字論面ろんめんは、免田をめぐる相論のあった地という。

小島村
こじまむら

[現在地名]岬町多奈川小島たながわこじま

谷川たながわ村の西にあり、大阪湾に臨む。村の北西部でえびす(現明神崎)が大阪湾内に突出し、小湾を形成する。海岸近くまで和泉山脈の西端部が延び、集落は小湾に沿う。建武三年(一三三六)一〇月一三日の淡輪重氏軍忠状(淡輪文書)に「於当国小島落人彦八男召取畢」とみえ、南朝方に味方する重氏が当地で落人を召捕らえたことが知られる。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえ高四三石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると五七石余、延享元年(一七四四)和泉国村高記では六四石余となり、のち大幅な変化はない。

小島村
おじまむら

[現在地名]更埴市小島

東は一重ひとえ山山系、西は杭瀬下くいせけ村、南は打沢うつさわ村に、北部は矢代やしろ村と境界を接する。口碑に古くは船山ふなやま郷に属したと伝える。村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳で、「(小)島村 高百六拾三石八斗三升」とあり、埴科はにしな郡内では小村のほうであった。

小島村
こじまむら

[現在地名]富山市水橋小島みずはしこじま

白岩しらいわ川左岸沿いに位置し、南は新堀しんぼり村。元亀元年(一五七〇)七月に神保氏春が小出こいで城を攻めたが、そのとき首将となった小島六郎の本拠と伝える(越中志徴)。正保四年(一六四七)の村立てとされる(出来新村・退転村記申帳)。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高五五石・免四ツ六分、小物成は鱒役一匁。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では免四ツ八歩、小物成として新たに鮭役一匁が課せられている(三箇国高物成帳)

小島村
こじまむら

大正一二年(一九二三)から昭和二九年(一九五四)まで存続した村。現松前町の西部に位置し、成立当時東は福山町、西から南は日本海。大正一二年四月一日根部田ねぶた札前さつまえ赤神あかがみ雨垂石あまだれいし茂草もぐさの五村が合併して二級町村として発足、五大字を編成した。同年の世帯数三二一・人口一千九七六。発足時の役場庁舎は根部田にあったが、南北に広がる五大字の南端にあり不便なため、昭和三年赤神へ移転した(松前町史)。同八年の戸数五三三・人口三千三〇九。同年の産業別戸数は水産業四六二・農業四で、その他六七であった。同年における漁獲高ではイカが圧倒的に多く、鰯がこれに次いだ。

小島村
くじまむら

[現在地名]伊仙町小島こじま

糸木名いときな村の北西に位置し、西部は海に臨む。西目にしめ間切との境を上成うわなる川が流れ、瀑布状に海に落下する辺りを小原くばると称する。地内に大道ふーみち宮里原みーざとばるなどの地名がある。面縄うんのー間切の伊仙いすいんのうちで、「三州御治世要覧」に同間切一六ヵ村のうちとして「小島村」とある。

小島村
おしまむら

[現在地名]上甑村小島

上甑島北西部に位置し、東はさと(現里村)、西は海(浦内湾)に面し、南は中甑村、北は瀬上せがみ村。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では上甑島のうち。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高二三石余。旧高旧領取調帳では高三三石余。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では家数九六。元禄国絵図浦内うらうち湾について「浦内湊口広サ拾壱町、入弐拾八町、深サ弐拾壱尋 何風ニても船懸リ自由、大船五百艘程繋ル」と記し、浦内湊から下甑島手打てうち(現下甑村)まで海上六里とする。

小島村
おじまむら

[現在地名]浜北市内野うちの

長上ながのかみ郡に所属。内野村の南、馬込まごめ川上流の右岸に位置する。内野村の枝郷で内野小島村とも記される。江戸時代の領主の変遷は内野村に同じ。元禄郷帳に内野村枝郷の注記で小島村とみえ、高三七石余。天保郷帳でも内野村枝郷の注記があり高一一一石余。しかし正徳元年(一七一一)の年貢割付帳(渡辺家文書)は小島村庄屋・百姓宛に出されており、領内においては独立村として扱われていたようである。なお同割付帳では高一〇四石余。

小島村
こじまむら

[現在地名]鳥取市馬場ばば

天王島てんのうじま村の南、大路おおろ山の南西に位置する。村名は、かつて千代川が当地付近を流れていた頃、川中の小さな島であったことによると伝える(因幡志)。拝領高は三五四石余、本免六ツ二分。安政五年(一八五八)の生高三九六石余、物成一九八石余。山役米二石余・藪役銀一匁余を課されていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。吉村氏・河毛氏・沢住氏の給地があった(給人所付帳)

小島村
こじまむら

[現在地名]吉田町小島

佐渡山さどやま村の東にあり、北は西槙にしまき新田村。大通おおどおり川が東を北流する。元和四年(一六一八)に長岡藩領となり、慶安二年(一六四九)に検地をうけた。元禄一五年(一七〇二)に幕府領、同一六年長岡藩領に復した。正保国絵図は高六九石余。文政一三年(一八三〇)の長岡領分高附録(長岡の歴史)では巻組に属し、一二五石九斗。安政五年(一八五八)の戸数は九(「旧長岡城主牧野家領地七ケ組村名・反別・戸数一覧表」同書)

小島村
こじまむら

[現在地名]小松市小島町

かけはし川下流右岸の低湿地にあり、洪水時にはわずかに小高い所が残る島集落をなし、東は上牧かみまき村・下牧村、西は安宅あたか町。正保郷帳では高五九七石余、田方二九町六反余・畑方五町四反余、新田高八二石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高八〇四石、免四ツ五分、小物成は板船櫂役一五匁(ほか一〇匁退転)、油役三匁(退転)、葭役三七〇匁(三箇国高物成帳)

小島村
こしまむら

[現在地名]屋久町小島

尾之間おのあいだ村の西にあり、西は恋泊こいどまり村。南は海に面し、北は山岳。近世には栗生くりお村の小村であった(薩藩政要録)。明暦三年(一六五七)頃の屋久島大絵図(県立図書館蔵)に村名が載り、享保一一年(一七二六)の検地帳(野村兼太郎氏収集文書)では高八石余、水田二反余があり、四家部、男二一・女一四。

小島村
こじまむら

[現在地名]京ヶ瀬村小島

阿賀野川右岸に位置し、東は寺社新じしやしん村、西は糟島かすじま村。寛文一三年(一六七三)の村上御領分組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では堀越組に属し、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高四三石六斗余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、寛政一二年(一八〇〇)の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)の村高は五六石六斗余で、水原組に属した。

小島村
こじまむら

[現在地名]柏崎市小島

東は広田ひろた村、西は平井ひらい村、南は北条きたじよう村、北は山澗やまだに村にあたり、村境は入交じる。近世の支配は北条村と同じ。正保国絵図に高九四石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高三八八石八斗余のほかに二九石七斗余の新田がある。同年の検地帳奥書(弘前市立図書館蔵)では本田二三町三反余・本畑一二町余・山三四町一反余。新田は田一町九反余・畑五反余。

小島村
こじまむら

[現在地名]那須町寺子丙てらごへい

余笹よささ川左岸に位置する。近世は黒羽藩領。同藩の「創垂可継」封域郷村誌巻二では寺子てらご組に属した。元禄郷帳では高五〇石余、天保郷帳では高九三石余。前掲郷村誌巻二によれば原街道沿いに街村をなし、田畑一分・山林九分の村方で、田方二町二反余、畑方は切替畑で反別は不明、家数五〇。街道沿いには問屋(渡辺家)が置かれ賑いをみせたが、宝暦六年(一七五六)には前年の大不作により村民が困窮し、問屋手元に徴収された荷口銭七両一分を二二名で金一分と四一八文ずつに分配し夫食の手当としている(「荷口銭分配受取覚書」渡辺太文書)

小島村
こじまむら

[現在地名]五條市小島町

吉野川の北、宇智うち川の東、合流する両川に挟まれた位置にある。崎山さきやま栄山えいさんの地で、嘉吉元年(一四四一)の僧良真水田作職売券(栄山寺文書)に「栄山庄之内小嶋」とある。南北朝時代、栄山氏が栄山(小島)城に拠り南朝側に属して戦っており、「太平記」神南こうない(現大阪府高槻市)の合戦・八尾やお(現大阪府八尾市)の合戦記事には崎山(栄山)氏の名を連ねている。

小島村
おじまむら

[現在地名]金砂郷村小島

あさ川の最下流の東岸に位置し、南を久慈川が流れる。西は中野なかの村。康安二年(一三六二)正月の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)の「久慈東大里郷地頭方大嶋」の地はこの小島に比定され、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「小島村」とみえる。

小島村
おしまむら

[現在地名]吉備町小島

有田川の南岸に近接して位置する。古代には吉備郷(和名抄)に属し、仁寿四年(八五四)六月七日の在田郡司解(東寺文書)に「吉備郷小島村」とみえる。中世には藤並ふじなみ庄に含まれた。慶長検地高目録では村高二九四石余、小物成四斗五升九合。慶長六年(一六〇一)の小島村御検地帳写(吉備町役場文書)によれば桑八三束、茶一〇斤余を産し、蜜柑木七本があった。

小島村
こじまむら

[現在地名]静岡市小島

藁科わらしな川上流に位置し、南東は鍵穴かぎあな村。もと清沢きよさわ郷の一部で、分村の経緯と領主は赤沢あかざわ村と同じ。元禄郷帳では高五〇石余。旧高旧領取調帳では幕府領五〇石余・洞泉とうせん(現曹洞宗)除地五斗。

小島村
おしまむら

[現在地名]白石町大字湯崎ゆざき字小島

湯崎村と江越えごし村に挟まれた小散村。正保絵図に村名がみえる。石高はわずか三六八石と、その範囲は狭かった。

この地域は鎌倉時代は稲佐いなさ郷の地頭日向氏(のちの白石氏)の所領であったが、室町時代の初めに平井氏のため敗北。

小島村
こじまむら

[現在地名]豊橋市小島町

上細谷かみほそや村の西に続く遠州灘沿岸の村。明治一四年(一八八一)の「五並村誌」によると、明和元年(一七六四)西大平藩領、安永元年(一七七二)相良藩領、同三年吉田藩領、文化元年(一八〇四)幕府領となって明治に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報