小坂村(読み)こさかむら

日本歴史地名大系 「小坂村」の解説

小坂村
こさかむら

[現在地名]国見町小坂

北西部は山地で、その東側を上泉じようせん(旧行歩川)が、西側をたき(旧太田川)が流れる。滝川は当地の中央部扇状地において東流し、上泉川と合流する。東は上泉川に接して鳥取とつとり村・山崎やまざき村、西は泉田いずみだ村、北は仙台藩領。羽州街道が通る。近世初頭まで舞田(前田)と称したが、元和八年(一六二二)頃には小坂とよばれており(「梅津政景日記」同年七月七日条)、これよりさして古くない時期に名称が変わったものとみられる。それは出羽国の諸大名が、小坂峠を通るようになり、峠の登り口に位置する当地の重要性が増したことと関係したものとみられる。

天文七年(一五三八)の段銭古帳に、伊達西根だてにしねのうちとして「まい田」とみえ、段銭は一〇貫三四〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録では、大塚将監が舞田郷「きたの在家」「とつとり在家」を、歌丸帯刀が舞田のうち「うた丸屋敷」を与えられ、安積金四郎は同じく舞田のうち「屋敷てさく」地を安堵されている。これらから字北畠きたはたにある歌丸うたまる館跡は歌丸帯刀が、字木八丁きはつちようにある前田まえだ館跡は安積金四郎が館主であったとみられる。伊達成宗は長享元年(一四八七)に隠居し(「伊達正統世次考」同月九月二五日条)、当地の小屋こや館に移ったという。現在も館跡があり、昭和二二年(一九四七)頃の開墾により唐銭・北宋銭・須恵器などが出土した。永正年中(一五〇四―二一)成宗の子尚宗は父の菩提寺として五峯山松音しようおん寺を建立し(同書)、的全闇乍を開山とした(仙台市史)

小坂村
おさかむら

[現在地名]静岡市小坂一―三丁目・用宗もちむね一丁目・用宗巴町もちむねともえちよう大和田おおわだ用宗小石町もちむねこいしちよう青木あおき

大和田新田丸子まりこ宿の南に位置し、西は益津ましづ花沢はなざわ(現焼津市)。かつて本郷であった赤坂あかさかにある坂が日本にほん坂に対して小さいので、小坂を村名にしたという(修訂駿河国新風土記)

戦国期は長田おさだ庄のうち。正平六年(一三五一)一一月一六日、足利尊氏党軍勢は小河こがわ(現焼津市)から出陣し「小坂山」を越えたが、その際に足利直義党の長田五郎次郎を生捕り、その在所を焼払った(同年一一月日「伊達景宗軍忠状」駿河伊達文書)。小坂の瑞応ずいおう(現臨済宗向嶽寺派瑞応寺)は、天文五年(一五三六)六月六日に禁制を下され、同一二年六月一七日には無縁所として諸役を免除され、同年七月一二日には再び禁制を下された(駿河志料)。同二三年四月一〇日の後奈良天皇綸旨案(勧修寺家文書)によると、国泰が瑞応院住持に任じられた。天文五年九月一七日の今川義元判物(安養寺文書)によると、「長田庄小坂村安養寺」(現曹洞宗)の寺領などが同寺の玄徳に安堵されており、現在の字杉谷すぎやなどの小地名がみえ、寺には船二艘があり職人が属していた。

小坂村
おさかむら

[現在地名]三原市小坂町

真良しんら村の東にあり、周辺を山地で囲まれた大村。安芸国豊田郡に属した。南流する仏通寺ぶつつうじ川の支流小坂川の流域に形成された谷々に耕地が展開。「芸藩通志」によると、洪水時には北部の山地からおびただしく土砂が流出、平常は水が乏しく干損がちで、灌漑用水は池水に頼っていた。吉井よしい山と八幡はちまん山との間の狭い低地で南東の荻路おぎろ村に接する。中世には村域の南寄りを山陽道が横断。当地にあった善根ぜんこん寺は平安時代の開基と考えられ、中世には沼田ぬた小坂おさか郷の中心で、沼田小早川氏の勢力下に置かれた。

正応二年(一二八九)閏一〇月九日付の関東下知状写(小早川家文書)に小坂村とみえ、小坂村は小早川茂平から妻浄仏を経て、いったん孫福寿丸(忠茂の子)に譲られたが相論が起こり、幕府の裁決で再配分され、沼田小早川家に継承されたとみられる。

小坂村
おさかむら

[現在地名]角田市小坂

伊具いぐ郡の北端近く、北流する阿武隈川両岸にある。同川右岸亘理わたり丘陵西麓は東小坂、左岸は西小坂とよばれ、小坂渡があった。各々独立して扱われることもあった。南は江尻えじり村、東は箕輪みのわ峠を経て亘理郡神宮寺じんぐうじ(現亘理町)、北は柴田郡下名生しものみよう(現柴田町)に接する。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「おさかかう」とみえ三貫一八五文。同二二年集成の晴宗公采地下賜録では「おさかの内、一はたけ中さいけ、一すハふやしき、一別当のいり」が田手助三郎に、小坂郷内「松木内、はなさハ五郎さへもん分」「すえなかするかふん、のた六郎分両人分こ田こめ、同所すえなかするかふんはさまやしき」「ちつさいあん分長門屋しき」と小簗川方よりの買地「はたけなか屋しき」が中森紀伊守に下されている。

小坂村
おさかむら

[現在地名]伊豆長岡町小坂

狩野かの川中流の西岸に面した村で、北は古奈こな村、東対岸は田方郡南条なんじよう(現韮山町)・同郡白山堂しらやまどう(現大仁町)。北条氏所領役帳に、小田原衆布施弾正左衛門の所領として一五〇貫文「豆州小坂 元田中知行」、馬廻衆狩野泰光の所領として「買得四拾貫文 小(坂)之内 元田中知行」、小机衆北条氏秀の所領として五貫文「豆州小坂之内墹之上 元田中知行買得」とみえる。小坂が墹之上ままのうえを含み、旧知行主は田中某(五郎左衛門か)で小坂内に一九五貫文の知行を有していたことがわかる。なお「吾妻鏡」に登場する小坂太郎(正治二年九月二日条)・同弥三郎(建仁二年九月二一日条)は当地出身の武士の可能性がある。

狩野川に面した洪水常襲地で、村に残された史料が少ない。年未詳大橋海老助宛代官割状(大川家文書)によると、天正一八年(一五九〇)の伊奈忠次による検地で「小坂」は京高で五二三石余。

小坂村
おさかむら

[現在地名]別府市平道ひらみち 小坂

内竈門うちかまど村・古市ふるいち村の北、現別府市の最北端の海岸に面した台地上に位置する。北は小浦こうら(現日出町)

〔中世〕

宇佐宮神宮寺弥勒寺領の竈門庄に含まれ、豊後国弘安図田帳に「小坂村十七町 大将家法花堂別当僧都御房」とみえ、この時の領家は鷹司家の法花堂別当であった。暦応四年(一三四一)山城随心ずいしん(現京都市山科区)に「二位家法花堂領豊後国竈門庄小坂村地頭職」と「二位家・右大臣家両法花堂別当職」が与えられている(同年五月二日・同年五月一四日「高師直施行状」山城随心院文書)。この二位家は鷹司基教家、右大臣家は鷹司師平家と考えられる。

小坂村
おさかむら

[現在地名]弥栄村小坂

現弥栄村の北部に位置し、北は周布すふ川を境に長見ながみ(現浜田市)、東は門田かどた村・日高ひだか村、南は西河内にしごうち村・栃木とちぎ村、西は栃木村。中央を小坂川が南流する。津和野奥筋往還が通る。古くは木束きつか郷に属したといい、木束錦岡にしきがおか八幡宮の氏子村。近世初頭は幕府領(石見銀山領)であったが、元和三年(一六一七)津和野藩領となり幕末に至る。元和三年の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に村名がみえ、高二三七石余。寛永一四年(一六三七)の検地高六九八石余。

小坂村
こさかむら

[現在地名]金沢市小坂町・大樋町おおひまち鳴和なるわ一丁目

談議所だんぎしよ村の北、金腐かなくさり川右岸に位置。西を北陸街道が通る。明治以前は「おさか」「おっさか」ともよんだ。正保郷帳によれば高八九六石余、田方五五町六反余・畑方四町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高九六二石、免六ツ七歩、少物成は山役三九八匁・蝋役四匁(三箇国高物成帳)。安政二年(一八五五)の高八二九石、家数一一九(うち頭振四六)、人数五七六(「高免家数人数等書上」亀田文書)長屋ながや地内で金腐川から取水する七ヶ用水や中村なかむら用水によって灌漑。

小坂村
おさかむら

[現在地名]三重町小坂

広瀬ひろせ村の北東、北東流する三重川中流域の台地上にある。北東は入北いりきた村。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には小坂村の一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に小坂村とみえ、高三二三石余、門田組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一四六石余・出来高一七六石余、田方一九三石余・畑方一二九石余、日損所、雑木・柴山ありと注記される。正保郷帳では三重之庄に属した。旧高旧領取調帳には上・中・下の三ヵ村に分けて記され、上小坂村は高八四石余、中小坂村は高九三石余、下小坂村は高一四五石余。

小坂村
こさかむら

[現在地名]飯豊町小坂

高峰たかみね村の南西に位置する。おもな集落は大館おおだて(六七四・一メートル)の東麓を蛇行しながら北東流するしら川沿いに点在し、東は玉庭たまにわ(現東置賜郡川西町)。集落西方の大館山麓に御館山みたてやま館跡がある。小松こまつ(現川西町)小国おぐに(現小国町)方面を結ぶ交通の要衝に位置する山城で、安倍貞任の一族太郎松人の居館とか藤原基衡の将良元が拠ったなどの伝承がある。天正一三年(一五八五)一〇月二日の大館山禁制条々写(中津川文書)などによると「小坂」への届出なく、郷の者が節句の祝のために曲物師を入山させることを禁じている。

小坂村
こさかむら

[現在地名]小坂町小坂

南流する小坂川中流域に位置する。北上して津軽方面に抜ける道が縦断し、西方山越えに現大館市方面に至る道もある。元文三年(一七三八)の「覚」(諏訪文書)に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「小坂村 小坂筑後領知 本名秋元 館有」とあり、中世後期には開村していた。高台を利用した中世の館のうち、小坂盆地東麓の古館ふるだては地名を残すのみでほとんど破壊されている。

小坂村
おさかむら

[現在地名]岡谷市みなと 小坂

西南部は山地、東北部は諏訪湖に臨み、北西部は花岡はなおか村、南東部は有賀あるが(現諏訪市)に接する。湖岸より一段上った村中を鎌倉街道が花岡村・橋原はしばら村方面へ通じている。

村名の初見は嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「小坂鎮守、ヲタイニ鎮守花岡三ノウ」とある。小坂鎮守は村の西方山寄りの小字日影林ひかげばやしに鎮座し、祭神は下照姫命である。古くは諏訪大社上社の末社で、小坂郷の産土神として崇拝された。

小坂村
おざかむら

[現在地名]御船町小坂

御船川を隔てたじん村の東対岸にある。日向往還が上六嘉かみろつか(現嘉島町)方面から南東進し今城いまじよう村へと抜ける。慶長六年(一六〇一)閏一一月一一日の加藤清正宛行状(下川文書)によると「小坂村之内四百五拾石」が下川右衛門作に加増分として宛行われている。慶長国絵図に村名がみえる。鯰手永に属し、「国誌」に小村として向小坂が記される。近世中期は東小坂ひがしおざか村・西小坂村に分れていた(肥集録など)。文政二年(一八一九)の鯰手永略手鑑によれば高一千二一八石八斗余。明治初年の「郡村誌」によると家数一一四、男二七四・女二六一、馬一〇六、日本型船一。民業戸数は農業一〇一、染物職・大工職・木挽職各一で、物産に蚕豆・櫨実などがあった。

小坂村
こざかむら

[現在地名]福光町小坂

才川七さいかわしち村の北、小矢部おやべ川西岸にある。長享元年(一四八七)九月一二日の「常徳院殿様江州御動座当時在陣衆著到」に奉公衆五番方の一人としてみえる越中の小坂孫次郎を当地とかかわりのある武士とする説がある(越中志徴)。小坂氏は神保氏の一族とされる(梅花無尽蔵)。天正一四年(一五八六)の前田利勝寄進状(木倉氏筆写史料)では、「小坂之内」の伊勢領一二〇俵を御師堤源介に寄進するとある。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、広瀬組に属し、役家数一六。

小坂村
おさかむら

[現在地名]浮羽町流川ながれかわ

流川村の東、巨瀬こせ川左岸に位置する。正保四年(一六四七)の検地帳(浮羽町史)によると惣高三五〇石で、五人の地方抱百姓が名子・荒使子を使って耕作している。本高は一〇三石余(元禄国絵図)。元禄八年(一六九五)の庄屋百姓中銘々抱畝高並冠高相極申帳(浮羽町史)によると田方三二二石余・畝数一六町三反余、畠方八石余・畝数二町七反余、居屋敷一〇石余・畝数七反余、ほかに冠分(正保四年検地高)六石余、居屋敷冠分九斗余がある。

小坂村
おさかむら

[現在地名]山鹿市小坂

東部は西にし(六四八・三メートル)をはじめ標高五〇〇メートル以上の峰がそびえ、北部も西岳から続く標高三〇〇メートル前後の峰が連なり、南部にゆるぎ(四一六・三メートル)があり、西部を岩野いわの川が南流する。南は上吉田かみよしだ村、西は津留つる村などと接する。天正三年(一五七五)六月一八日の大友宗麟・義統の連署安堵状(立花家文書)で、戸次鑑連から娘の闇千世への譲与を安堵された地に「山鹿郡之内 小坂十二町」がある。

小坂村
こさかむら

[現在地名]西脇市小坂町

郷之瀬ごのせ村の西に位置し、村境を杉原すぎはら川が流れる。西の峰を境に加西郡木谷きだに山へ続く。「おさか」ともいう。当地春日神社の天正五年(一五七七)九月二二日付の本殿造営棟札によれば、富田とみた庄領家方の公文佐々倉長吉は小坂村に住していた。慶長国絵図に村名がみえる。江戸期の領主の変遷は大野おおの村に同じ。元和三年(一六一七)から寛永二一年(一六四四)までの免状(小坂町有文書)が残り、大部分の年に大豆約一〇石を納めており、年貢の八―一〇パーセントにあたる。

小坂村
こさかむら

[現在地名]姫路市広畑区小坂ひろはたくこさか広畑区早瀬町ひろはたくはやせちよう一―三丁目・広畑区小松町ひろはたくこまつちよう一―四丁目

飾西しきさい郡に所属。夢前ゆめさき川と大津茂おおつも川の間を流れる小河川の汐入しおいり川上流域に位置する。広畑村の北西部に隣接する微高地の上に立地し、北は則直のりなお村。慶長国絵図に「大坂村」とみえる。領主の変遷は則直村と同じ。正保郷帳に小坂村とみえ、田方三一〇石余・畠方一四石余。元禄郷帳以後の村高は三九〇石余で幕末に至る。安永四年(一七七五)以降の一橋徳川氏領村々様子大概書(一橋徳川家文書)には「ヲサカ」の読み仮名が付され、高三九〇石余のうち田方三七四石余(二二町五反余)・畑方一六石余(一町六反余)、家数一二三・人数四六一、牛一四、上荷船四艘(一ヵ年船役銀六四匁)がある。

小坂村
こさかむら

[現在地名]君津市大坂おさか

鴫畑しぎはた村の南西、小櫃おびつ川左岸に位置し、同川本流と支流に挟まれて展開する村。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三七二石。元禄郷帳では高三八八石余、天保郷帳では高四九九石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は向郷むかいごう村に同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数八四。明治八年(一八七五)鴫畑村など二村と合併して大坂村となる。

小坂村
こさかむら

[現在地名]大山町小坂

熊野くまの川支流くろ川の最上流部に位置し、小平坦地をなしている。北は折谷おりたに村、南は大清水おおしみず村。正保郷帳の高四八石余、田方一町余・畑方二町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五四石、免四ツ、小物成は山役一〇四匁・炭役五匁、炭釜役一三匁(出来)・鮎川役一匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)によれば、天明五年(一七八五)の川崩れで二九石が減石となり、草高二八石となる。文政八年(一八二五)山室組、天保一〇年以降太田組に属した。明治五年(一八七二)の戸数一三(新川県戸数表)。文久二年(一八六二)の記録(山崎家文書)によれば、小坂村四郎右衛門の肝煎選任が否決されている。

小坂村
こさかむら

[現在地名]熊野市飛鳥あすか小阪こさか

佐渡さわたり村の東にあり、大又おおまた川に沿う。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「小坂村」と記される。近世初期の家数二〇(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)。北山組に属する。寛文八年(一六六八)から享保一五年(一七三〇)にかけて新田畑の開発が行われた(「北山組之内小坂村新田畑改帳」徳川林政史蔵など)。江戸時代常に五〇頭ほどの牛が飼育され、耕作に使用されたあと熊野牛として出荷された(「地元文書写」熊野市教育委員会蔵)

小坂村
こざこむら

[現在地名]但東町小坂

なか村の南西、出石川の最上流域を占め、同川は当地のひがし谷をその源流とする。当地から南西方に向かう山道は小坂峠(直見峠)を越えて丹波国天田あまた直見のうみ(現京都府夜久野町)に通じていた。近世の領主の変遷は水石みずし村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一二〇石余。出石封内明細帳によると拝領高一〇六石余・改出高五九石余、これらの内訳は屋敷五石余・麻畑五石余・田方一三九石余・畑方一六石余。小物成として茶代米四斗余・山手米四斗余、刈畑役の小豆二斗・蕎麦九斗余・稗六斗余・粟五斗、桑代の真綿四貫三九六匁余ほかを納め、家数五四・人数二六二。

小坂村
おさかむら

[現在地名]篠山市小坂・市山いちやま

上板井かみいたい村の北に位置し、宮田みやだ川支流の小坂川が流れる。北西に夏栗なつぐり山がある。文和元年(一三五二)一二月日の宮田庄雑掌良祐申状(近衛家文書)に「小坂村」とみえる。北西の三尾みつお山に赤井刑部幸家の居城したという城跡がある。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「小坂村」とみえ、高四四三石余。正保郷帳では田高四二六石余・畠高一七石。元禄郷帳では高四四四石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では板井組のうちで、高三六一石余、家数七五・人数三二七。

小坂村
こさかむら

[現在地名]松山市小坂一―五丁目・日の出町ひのでまち

松山平野の東南平坦部に位置する農村。東は新百姓しんひやくしよう村・松末まつすえ村、西はなか村、南は尼山あまやま村、北は石手いして川を隔てて城下町に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「小坂村 小川有」とある。

昭和四八年(一九七三)に、村域内のかまくちから弥生時代の竪穴式隅丸方形住居跡一ヵ所と竪穴式楕円形住居跡二ヵ所が発掘された。

小坂村
おさかむら

[現在地名]加賀市小坂町こさかまち

二ッ屋ふたつや村の南にあり、南西は一〇〇メートル級の丘陵。近代まで「おさか」とよばれていた(元禄一四年「大聖寺領高辻帳」加越能文庫、「江沼郡誌」)。「朝倉始末記」に天文二四年(一五五五)越前朝倉勢の加賀侵入に対したちばな口に「震橋・尾坂」などの一揆衆が集結、朝倉教景千足せんぞく城攻撃のとき「菅波・尾坂ノ兵」らが籠城したとある尾坂おさかは当地のこと。

慶長三年(一五九八)八月五日の小早川秀秋宛行状(萩藩閥閲録)に小坂村のうち一八〇石を国司土佐守に領知せしめたとある。

小坂村
おさかむら

[現在地名]院内町小坂

津房つぶさ川最下流の山間部に位置し、北は現宇佐市、東はおき村、南は広瀬ひろせ村。小倉藩元和人畜改帳では高二五七石余、家数一六・人数八七(うち百姓一一・名子二)、牛一三・馬四。百姓には庄屋が三名含まれる。延宝八年(一六八〇)には香下組に所属し、人数一〇九(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高三〇二石余。中津藩郷村高帳(中津市立図書館蔵)の天保三年(一八三二)の下書では高三一七石余で、うち二二石余が新田畑とみえ、同四年の下書では高三二〇石余で、うち一八石余が改出高、四石余が永荒とある。一七世紀末と思われる寺社寄帳(庄家文書)には貴船大明神・山神・住吉大明神・小市郎宮、真言宗明王山蓮華寺がみえる。

小坂村
おさかむら

[現在地名]奈義町小坂

馬桑まぐわ村の南、馬桑川沿いに立地。正保郷帳では南の皆木みなぎ村および南東のこうぞ(現勝田町)とともに梶並西谷かじなみにしだに村に属し、田二一三石余・畑一五三石余。天保郷帳でも同村の内だが、「東作誌」では三ヵ村とも庄屋を置く独立村扱いで、旧高旧領取調帳では梶並西谷小坂村とあり、高一〇一石余。元和九年(一六二三)分村したというが(東作誌)、元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳でも梶並西谷村とみえ、改出高四七石余・開高一八石余、村位は下。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数三二(うち中小坂一六・下小坂一一など)

小坂村
こさかむら

[現在地名]洞戸村下洞戸しもほらど

現洞戸村の南東部に位置し、東は乙狩おとがり(現美濃市)、南は谷口たにぐち(現武芸川町)。当村は板取いたどり川を挟んで、右岸の上小坂・下小坂と左岸の迎島むかえじまの三組に分れ、右岸を高賀こうか街道が通る。建武四年(一三三七)四月七日の佐竹義基軍忠状写(秋田藩採集文書)に「小坂城戸口」とみえ、当地で合戦が行われた。正保四年(一六四七)の洞戸村免定(河合文書)に小坂分とみえる。元禄郷帳には洞戸小坂村と記され、高二三石余。

小坂村
こさかむら

[現在地名]鯖江市河和田かわだ

てら山の南麓にあり、別司べつし村の東に接する。当村を流れる天神てんじん川は村内の南西部で河和田川に合流する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川田かわだ庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方四七二石余・畠方一〇六石。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、享保六年(一七二一)鯖江藩の村替により小浜藩領となる。

小坂村
おつさかむら

[現在地名]栗東町高野たかの

今里いまざと村の北、野洲やす川南岸平地に立地。江戸時代初期までは今里村とともに村のうちに含まれていたが、元禄年間(一六八八―一七〇四)までに分離独立。元禄郷帳に村名がみえ高三一四石余、上野前橋藩領。以後幕末まで同藩領。享保一〇年(一七二五)石部いしべ宿(現甲賀郡石部町)に助郷高三一四石で出役(三大寺文書)

小坂村
こざかむら

[現在地名]那智勝浦町小阪こざか

妙法みようほう山の西側にある山間村。南東は平野ひらの村。「続風土記」に「村居処々に散在す、村名字の如し」と記す。享徳四年(一四五五)五月一五日付の旦那売券(米良文書)に「色川小坂」とみえる。慶長検地高目録によれば村高九八石余、小物成四・二二石。天保郷帳では一三七石余と大幅に増石。色川組に属し、和歌山藩新宮領。「続風土記」は村の東部平野村境に貝吹森かいふきのもりのあることを記し、「昔色川を責むる者ある時、此所にて遠見をなし、貝を吹き郷中村々に告しより名とす」と記す。

小坂村
おさかむら

[現在地名]牛久町小坂

小野おの川左岸に位置し、北東は久野くの村。戦国期は小田氏の一族岡見氏が愛宕あたご山に小坂城を築いて支配したといわれる。江戸初期に鳥羽藩領となるが(寛文朱印留)、延宝八年(一六八〇)下総関宿藩領となる(寛政重修諸家譜)。元禄郷帳の村高は五一五石余、幕末は関宿藩領五四一石余(各村旧高簿)。宝暦六年(一七五六)の戸数は五九(「田方小割手帳」「畑方小割手帳」斎藤家文書)、文化元年(一八〇四)には戸数四八・人数二一〇、馬六(「乍恐以書付奉願上候」同文書)

小坂村
こさかむら

[現在地名]山形村小坂

江戸時代松本藩領から高遠藩領今井いまい組に入り、のち幕府領となった村で、東は竹田たけだ村・大池おおいけ村に接する。

小坂の初見は永享一一年(一四三九)の結城陣番帳で、「永田殿・竹田殿」「大池殿・波多殿・波多中殿」「小坂殿」とあり、大池・竹田たけだ・小坂を基盤とした小領主のいたことがわかる。長享二年(一四八八)の下諏訪春秋之宮造宮之次第には小坂・大池がその若宮の造宮に奉仕した記事がある。

小坂村
おさかむら

[現在地名]日高町小坂

東高坪ひがしたかつぼ山の南麓谷間にある。北西は比井ひい浦、東は志賀しが村。南西は産湯うぶゆ浦。比井浦・産湯浦より志賀村への道が通る。「続風土記」は「東の方中志賀に至るに小さき坂を越ゆ、村名是より起るなり」と記す。慶長検地高目録によれば村高一〇八石余、小物成二斗五合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑九町五反余、家数二三で内訳は本役九・半役二・無役一〇・庄屋一・ありき一、人数九七、牛馬一〇。

小坂村
おさかむら

[現在地名]豊浦町小坂

北は荒町あらまち村、東は多斎ださい新田・赤井橋あかいばし村。古館ふるだてに中世の小坂館跡がある。慶長一五年(一六一〇)頃の新発田藩の給知方ほど役帳(新発田市史資料)によると一石二斗の炉役が六軒に課されている。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によれば川北組に属し、古館・動木橋ゆるぎばしを枝郷とした。

小坂村
こざかむら

[現在地名]田原本町大字小阪こざか

坂手さかて村の北に所在。慶長郷帳は「大坂村」と記し、村高は三八五・三七石で御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報