上益城郡(読み)かみましきぐん

日本歴史地名大系 「上益城郡」の解説

上益城郡
かみましきぐん

面積:六六四・二六平方キロ
益城ましき町・嘉島かしま町・御船みふね町・甲佐こうさ町・矢部やべ町・清和せいわ

県の中央部に位置し、東部は阿蘇外輪山内縁部および九州山地の山岳地帯、西は緑川とその支流によって形成された狭小な低地が広がる一帯からなり、西端の一部に熊本平野の東縁部があるものの、概して山地と丘陵からなっている。東部山地の北は阿蘇外輪山で阿蘇郡と境し、広大な斜面に高千穂野たかじようや大矢野原おおやのはらの高原が続き、笹原ささわら川・御船川・矢形やかた川など多数の河川が緑川水系をなす。東は阿蘇郡と宮崎県で、大矢おおや川が西流し緑川に合流、南は大部分が下益城郡で、東部を向坂むこうざか(一六八四・四メートル)三方さんぽう(一五七七・五メートル)国見くにみ(一七三八・八メートル)を結ぶ山稜で宮崎県、国見岳・京丈きようじよう(一四七二・五メートル)で八代郡と境し、西は熊本市、北西の一部を菊池郡と接する。国道四四五号が御船インターチェンジで九州自動車道と交差して東へ進み、矢部町で下益城郡砥用ともち町からきた同二一八号に合し、さらに東へ延びて宮崎県延岡市に至る。

上益城郡の成立は近世で、益城郡が元禄(一六八八―一七〇四)頃に上中下に分れ、上益城郡に沼山津・木倉・矢部の三手永、中益城郡に鯰・甲佐両手永が属したが、享保(一七一六―三六)までの間に両郡が合併して上益城郡となった。なお清和村の大矢川以南の旧小峰おみね村は阿蘇郡菅尾手永に属していたが、昭和二二年(一九四七)上益城郡に編入された。

〔原始〕

旧石器時代の遺跡は丘陵上にあり、矢部町大矢野原遺跡、甲佐町大峯おみね遺跡・下横田しもよこた遺跡、御船町御池原おいけばる遺跡・小坂西おさかにし遺跡・久保くぼ遺跡などが知られ、大峯遺跡ではナイフ形石器や細石核が出土している。縄文時代の遺跡は丘陵上から丘陵端に立地し、御船町甘木あまぎ遺跡、嘉島町しも古閑こが遺跡、矢部町男成おとこなり遺跡・大野十三本松おおのじゆうさんぼんまつ遺跡、益城町古閑遺跡・山田やまだ遺跡などが知られ、男成遺跡は熊本県下で初めて晩期の竪穴住居跡が確認された遺跡である。また熊本平野の東縁部益城町の微高地に早期の櫛島くしじま遺跡や後期の貝塚がある。御船町甘木および嘉島町硴原かきわらの両貝塚は、現在の海岸線まで約一五キロの距離がある。弥生時代の遺跡は主として後期のもので、丘陵上に免田式土器の集中する遺跡が注目される。嘉島町二子塚ふたごづか遺跡、御船町下山神しもさんじん遺跡・上山神遺跡・岩屋堂いわやどう遺跡、矢部町大野十三本松遺跡・男成遺跡・稲生原いのばる遺跡などが代表的なものである。また中期の大型甕棺文化をもつ須玖式土器宇土うと半島から上益城郡が南限で、嘉島町上官塚じようかんづか遺跡でみつかっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android