寄親・寄子(読み)よりおやよりこ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「寄親・寄子」の意味・わかりやすい解説

寄親・寄子
よりおやよりこ

近世都市の雇人(奉公人)の就職斡旋(あっせん)をめぐって生じた親方・子方関係。武家の下級奉公人(中間(ちゅうげん)など)の「武家寄子」と、一般町家の「町方寄子」に区別され、後者の伝統は特殊職人の間に昭和初期まで残っていた。寄子制の源流中世の武家団の軍陣構成にまでさかのぼりうる。戦乱にあたり臨時に招集された在郷武士は、各「部将」の下に分属して軍団を編成したが、その際の「部将」を「寄親」とし、その配下を寄騎(よりき)・寄子とよんで主従関係を結んだ。しかし武士団の専門化とその城下集住によって、古い寄親制度は消失したが、新しく都市に流入してくる武家の下級奉公人や、職人群の就職周旋とその生活保障のため、新しい「寄親・寄子」の制が広く生じた。武家の城下集住によって知行(ちぎょう)地の百姓夫役による調達は不可能になり、一方、城下町形成のため多数の職人労力の導入が必要ともなったからである。ここでの「寄親」は「人宿(ひとやど)」とよぶ人足調達請負業者で、身柄保証人として就職先を紹介し、また解職後の生活のめんどうもみた。いわゆる「寄宿(よりやど)」の施設で、その代償に「役銭」を徴し、労力奉仕もさせた。近世中期以後も武家の下級奉公人はじめ一般町家の年季奉公人などはおおむねその周旋によったが、とくに遊里の妓夫(ぎふ)、料理職人(板前)、菓子職人、湯屋男(三助)、新しい理髪職人など浮動的な職人奉公には、その伝統が明治後も強く残り、就職斡旋と仲間共済に独特の規制が生じ、反面「寄親」の収奪も厳しくなっていった。しかし大正期に入ると、公共的職業紹介機関の出現とともに衰退して、寄子制の伝統は絶えたが、なお港湾の荷役労働や露天商(的屋(てきや))仲間、あるいはヤクザ集団には類似の形が残存した。

[竹内利美]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寄親・寄子」の意味・わかりやすい解説

寄親・寄子
よりおや・よりこ

室町時代末期から戦国時代に進展した支配関係。特に戦国大名の軍事組織構成方法の一つ。これは鎌倉時代の惣領制における惣領庶子 (寄子と呼ばれた) の関係にもみられ,惣領制がくずれ大名領国制が展開して単独相続制が普遍化するにつれ,惣領に代るべき組織の必要性から生れた。大名の有力家臣には弱小武士が寄子として付属させられた。寄親・寄子とも大名の被官で,寄親と寄子の間には封建的主従関係はなく,平時は訴訟手続上寄親を媒介者とし,戦時は寄子が寄親の指揮下で統率された。寄親は指南 (しなん) ,奏者と呼ばれ,寄子は同心と呼ばれることもある。寄親・寄子関係は,日本社会に固有な擬制的血縁・家族関係の紐帯 (ちゅうたい) を家臣統制の具としたもので,こののち武士だけでなく,村や都市の雇用関係にもみられた。

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百科事典マイペディア 「寄親・寄子」の意味・わかりやすい解説

寄親・寄子【よりおや・よりこ】

身元保証のため仮の親子関係を結ぶ制度。身元を引き受ける主人や有力者を寄親,被保護者を寄子という。戦国時代には有力武将を寄親(指南・奏者とも)とし,在郷武士が寄子(与力・同心とも)として臣従。近世都市の出稼(でかせぎ)奉公人は一定の礼金を寄親に払い,親方の宿に寄居して職を求めた。農村では外来者が村の有力者を寄親,わらじ親に立て村入りする慣習があった。
→関連項目同心与力

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旺文社日本史事典 三訂版 「寄親・寄子」の解説

寄親・寄子
よりおや・よりこ

戦国大名の家臣団の統制組織
寄親(指南ともいう)と寄子(与力・寄騎・同心)の間には指揮・服従の関係はあるが,大名の同列の家臣で相互には御恩・奉公の主従関係はなかった。武田・今川・後北条氏などの戦国大名は有力な武将を寄親,在地土豪を寄子として軍事組織を編成した。近世には組頭・組下の制に吸収された。

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