大名(読み)だいみょう

精選版 日本国語大辞典 「大名」の意味・読み・例文・類語

だい‐みょう ‥ミャウ【大名】

〘名〙
① 平安末・鎌倉時代、多くの名田(みょうでん)を所有していた者。
※新猿楽記(1061‐65頃)「三君夫出羽権介田中豊益、偏耕農為業、更無他計、数町戸主、大名田堵也」
② 大きな名田。
※金沢文庫古文書‐元徳三年(1331)一一月二一日・信濃国太田庄倉郷請料状案(七・五四〇四)「合 大名二名、小名八名、浮免二名」
③ その名がそれぞれの集団、地域でなりひびいている有勢者、分限者。「たいめい」が本来の呼称で、室町時代、有力な守護が室町幕府のもとで大名として家格化し、「だいみょう」とも称するようになった。
※吾妻鏡‐寿永三年(1184)三月一日「土佐国大名国信。国元。助光入道等所」
江戸時代、一万石以上を領有する幕府直属の武士の称。将軍家との親疎関係から親藩、譜代、外様に、所領の規模から国主(国持)・准国主・城主・城主格・無城などに区別された。三代家光以後、その数は二六〇前後あり、もっとも多いのは五万石以下の譜代大名であった。明治維新にはその家格によって華族に列した。
※御触書寛保集成・一‐慶長二〇年(1615)七月「諸大名参勤作法の事」
※雑俳・柳多留‐三二(1805)「大名のしっぽとらへどなた様」
[補注](1)「文明本節用集」「弘治二年本節用集」では、ダイメイの読みでは「守護」の意味とし、ダイミャウの読みでは「銭持」の意味とするが、「明応本節用集」「両足院本節用集」ではタイメイの読みで、「堯空本節用集」ではタイメウの読みで「守護、銭持」の意味とする。読みの相違が意味の差にどうかかわっていたのかは必ずしも明確ではない。
(2)「天正狂言本」では「大明」と表記され、「大名」の表記を避けた意図的な表記と見る立場もあるが、この資料の表記全体から見て、単純な当字とみなすのが妥当だろう。

たい‐めい【大名】

〘名〙
① 大きな名誉。すぐれた名声。
神皇正統記(1339‐43)下「又大名の下にほこる心や有けん」 〔杜甫‐詠懐古跡詩〕
※文明本節用集(室町中)「大名 タイミャウ 大名(メイ)守護大名(ミャウ)ハ銭持(ゼニモチ)

おお‐な おほ‥【大名】

〘名〙
① 事物の総称。一般名
※天理本日本書紀抄(1527)上「やまとと云は吾国の大名也」
② 町村を大分けにした区域の名。大字(おおあざ)。⇔小名(こな)

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デジタル大辞泉 「大名」の意味・読み・例文・類語

だい‐みょう〔‐ミヤウ〕【大名】

平安末・鎌倉時代、多くの名田みょうでんを所有した者。大名主だいみょうしゅ
鎌倉時代、大きな所領をもち、家の子郎等ろうどうを従えた有力な武士。
室町時代、有力な守護。守護大名。
戦国時代、諸国を支配し、家臣に知行地を与えて統轄した者。戦国大名
江戸時代、将軍に直属した1万石以上の武家。将軍との親疎関係から親藩譜代外様、領地の関係から国持准国持城主・城主格(無城だが城主と同格)・無城の別があった。
[類語]領主藩主藩侯城主殿様殿諸侯小名

たい‐めい【大名】

大きな名誉。大きな名声。
「普く天下の財貨を以ても買いがたき程の不朽の―を得たり」〈中村訳・西国立志編
だいみょう(大名)

おお‐な〔おほ‐〕【大名】

事物の総称。
村や町を大分けにした地区の名。大字おおあざ。⇔小名こな

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改訂新版 世界大百科事典 「大名」の意味・わかりやすい解説

大名 (だいみょう)

勢威ある人,または家の呼称。家格の一つ。邦訳《日葡辞書》には〈Taimei タイメイ(大名) Vôqina na(大きな名),土地を支配しているとか,行政官のようなある職務に任じているとかする大身の主君や貴人〉,また〈Daimiǒ(大名) 国の豪族あるいは貴人〉とある。これによれば大名(だいみよう)と大名(たいめい)は異なるもののようにも考えられるが,同書は諸大名(だいみよう)と諸大名(たいめい)を同義とし,また《節用集》なども一般的には両訓をのせているから,室町時代には二つのよみがあったといえる。この語は平安時代中ごろよりあらわれ,その起源としては,〈大名とは,田地の名(みよう)を多く持ちたるなるべし〉(《貞丈雑記》)という,大きな名(みよう)の持主説が通説となっているが,史料上で名田所有者をさす大名の名称は確認されない。平安・鎌倉時代では,〈大名一人と申すは,せいのすくないぢやう,五百騎にをとるは候はず〉(《平家物語》)とあるように,有勢者の呼称として用いられるのが一般的で,中国の唐六典などにみられる大名(たいめい)(大いなる名誉,またその者)の用法の系統をひく語と思われ,タイメイが本来のよみであったと思われる。

 このように大名は一般呼称として用いられたから,それぞれの地域・集団に大名・小名とよばれるものが存在した。鎌倉幕府御家人では,北条氏,千葉氏,畠山氏などの勢威ある御家人が大名とよばれたが,諸国には別の基準にもとづく土豪・豪族など有勢者としての大名・小名がいたのである。室町時代になり,《明応本節用集》に〈大名 タイメイ 守護之儀,銭持之義〉とあるように,幕府構成集団における武士の大名は,一種の家格化して主として守護をさす語となり,いっぽうでは都市・農村など民間の分限者をさす語となった。江戸時代の1万石以上を領有する幕府直属の武士をさす語としての大名は前者の系譜につながり,狂言などにみられる大名・小名は後者に属するものといえよう。
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南北朝から室町時代にかけては,守護が領国を拡大して大名領を形成したところから守護大名とよばれるが,守護に代わって新しく台頭し,在地土豪の掌握を通じて一円知行化を推進した戦国時代の大名は戦国大名とよばれる。こうして形成された大名は,江戸時代に入って近世大名となり,大名領を完成,幕府を頂点とする幕藩体制を完成した。江戸時代の大名は,1万石以上の領主(藩主)をいい,将軍に対して直接奉公の義務をもつ者をさした。一般に大名という場合は,この江戸時代の大名を意味する。これに対して,1万石以下の領主を旗本御家人(ごけにん),給人あるいは地頭などと称した。また大名の家臣は,たとえ1万石以上であっても大名の資格を有しなかった。これを将軍の立場から陪臣(ばいしん)とよんだ。又者(またもの)あるいは又家来という意味である。

大名は,その経歴,取立てによって旧族大名,織豊大名,徳川系大名(徳川一門=親藩,譜代大名)に分類される。旧族大名は戦国大名から近世大名に転化したもの。津軽,南部,伊達,佐竹,上杉,毛利,鍋島,松浦,大村,宗,相良,島津氏らで,東北,九州など辺境地帯の大大名が多い。織豊大名は織豊両氏の家臣から近世大名に取り立てられたもの。丹羽,前田,藤堂,仙石,池田(岡山,鳥取),浅野,蜂須賀,山内,黒田,有馬,細川氏らで(福島,加藤,京極,生駒氏らは改易(かいえき)),北陸,中国,四国,九州に多い。徳川系大名は徳川氏の一門,家臣から近世大名に取り立てられたもので,さらに親藩譜代大名に分かれる。親藩には尾張,紀伊,水戸の三家および田安,一橋,清水の三卿をはじめ,越前,松江,高松,会津の各松平および久松氏ら,譜代大名には井伊,酒井,本多,榊原,大久保,土井,水野,戸田,小笠原,牧野,内藤,稲葉,久世,堀田,阿部,柳沢,間部,田沼氏らおよび家康以前に分かれた傍系松平一族がある。関東から東海,畿内にかけての中央地帯に多く,5万石以下の小大名が多い。さらにこれを将軍との親疎関係によって分類する場合は,三家,三卿,家門,譜代,外様に分けるが,家門は三家,三卿以外の親藩およびその分家をさし,旧族大名と織豊大名を徳川系大名に対して外様に一括する。

 また領国や居城の規模によって,国主(国持),准国主,城主,城主格,無城に分け,あるいは江戸城中の詰間(つめのま)によって,大廊下,溜間(たまりのま),大広間,帝鑑間(ていかんのま),柳間,雁間(かりのま),菊間に分け,さらに官位によって,侍従以上,四品(しほん)(四位),諸大夫(五位)に分け,石高によって,10万石以上,5万石以上,1万石以上に分ける場合もある。大名はこれらの組合せによって複雑多岐な格式序列がつくられたが,このことは大名(藩)の存在形態がきわめて多様であったことを示している。大名の数は,初期3代の将軍による強力な大名統制によって,その数も安定しなかったが,その後しだいに固定し,中期以降には260家前後となった。そのなかで最も多かった大名は5万石以下の譜代大名である。

幕府の大名統制の基本は改易と転封(てんぽう)(国替(くにがえ))である。徳川家康は覇権確立後,関ヶ原の戦後処理を通じて西軍にくみした外様大名を大規模に改易し,その所領を没収するとともに,これらの没収地を東軍に属して功労のあった外様大名に配分して転封する一方,直轄領(天領)に編入しあるいは親藩,譜代大名の取立てにあてた。こうして豊臣時代の大名配置は大きく変化したが,とりわけ東海,東山およびその周辺諸国は大きく変化した。家康はこれらの地域に配置されていた多くの豊臣大名を改易あるいは辺境地帯に転封して,新たに親藩,譜代大名を配置した。ここに徳川氏を中心とする新しい大名配置ができあがり,幕藩体制の大枠がつくられた。

 戦後処理後の家康は幕府を創設する一方,法の制定と制度の整備・運用を通じて大名統制を強化したが,対豊臣政策を戦略の中心にすえた。豊臣氏の討滅-大坂落城後はその勢いにのって1615年(元和1),〈一国一城令〉につづいて大名統制の基本法をなす〈武家諸法度〉を制定するとともに,畿内を掌中に収め,大坂およびその周辺諸国に譜代大名を配置した。2代将軍秀忠は大坂の陣で諸大名に示した軍役規定を明文化(元和軍役令)する一方,畿内とその周辺諸国および対東北政策を戦略の中心にすえた。それによって,譜代大名は大坂周辺に集中配置されるとともに東北進出が積極化した。ついで3代将軍家光は九州を中心とする対西国政策に戦略の中心をすえたため,これまで比較的変化が少なかった西国の大名配置はここで大きく変化した。こうして東西九州に譜代大名が集中配置される一方,この過程で中国,四国においては,先に成立した三家につづいて松山,松江,高松の各松平家,および東北の会津松平家が成立し,この期に徳川系大名の配置は全国に拡大した。さらに家光は軍役規定を改訂・整備(寛永軍役令)する一方,参勤交代を制度化し,鎖国体制を完成した。ここで法と制度運用による大名統制はいっそう強化され,幕府権力の基礎は確立・安定した。

 以上,初期3代の将軍による大名統制によって実に224名(うち徳川系大名49名)の大名が改易され,これに代わって延べ172名(改易を含まず)の親藩,譜代大名が創出・配置されて,幕府権力を支える強力な基盤となった。譜代大名はその後5代将軍綱吉によって統制をうけるが,6代将軍家宣以降は外様,譜代とも改易,転封が減少し,ほぼこの時代の大名数が固定したままで幕末に至った。

大名の統制・創出策によって外様大名はしだいに辺境地帯に移され,代わって親藩,譜代大名が中央地帯に配置されていった。その後徳川系大名の配置は全国に拡大したが,とくに譜代大名の集中配置の地域は直轄領,旗本領とともに中央地帯にあり,しかもこれら3者間において所領の著しい統廃合,切替えが行われたため,中央地帯における譜代大名領は著しく分散知行化(非領国型)するに至った。以上に対して,旧領に定着した旧族外様大名や,早期に定着した豊臣系外様大名の多い辺境地帯および中間地帯は,領国の固定化によって一円的所領をたもち(領国型),両者の所領構造は大きく異なったのである。しかも,それは単に所領構造の相違にとどまらず,藩制の成立に異なった様相を与えた。概していえば,東北北部や九州など辺境地帯における旧族居付の外様大名が,最も独自な藩制を形成していった。

 しかし,諸大名は幕府の統制下にあって,共通に軍役を負担し,幕藩体制の諸原則をそれぞれの領内に実施していった。兵農分離による家臣団の城下町集住策,検地の実施による小農民の創出と維持策,生産力の増強と貢租の増徴のための各種の勧農策,城下町の興隆と市場統制のための各種の流通策がそれである。初期の大名領は諸大名の直轄地(蔵入地)と家臣団の知行地(地方知行)に分かれていたが,諸大名は知行地の割替・分散化を通じて家臣団の知行権を制限し,あるいは蔵米で支給する俸禄制に切り替えて,大名権力の基礎を強化していった。それと同時に,家中法(藩法)を制定して家臣統制を強化する一方,藩の制度・機構を整備して,家老城代,奉行以下の行政諸役を分掌させた。版籍奉還後,大名は公卿とともに華族となり,知藩事に任ぜられたが,廃藩置県の結果,知藩事は廃止された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大名」の意味・わかりやすい解説

大名
だいみょう

大名とは、本来私田の一種である名田(みょうでん)の所有者をいい、名田の大小によって大名・小名に区別された。すでに平安末期からその名がみえ、鎌倉時代には、大きな所領をもち多数の家子(いえのこ)・郎党(ろうとう)を従えた有力な武士を大名と称した。南北朝から室町時代にかけて、守護が領国を拡大して大名領を形成したところから守護大名とよばれたが、守護にかわって新しく台頭し、在地土豪の掌握を通じて一円知行(いちえんちぎょう)化を推進した戦国時代の大名は戦国大名とよばれた。こうして形成された大名は、江戸時代に入って近世大名となり、大名領を完成、幕府を頂点とする幕藩体制を完成した。江戸時代の大名は、1万石以上の領主(藩主)をいい、将軍に対して直接奉公の義務をもつ者をさした。一般に大名という場合は、この江戸時代の大名を意味する。これに対して、1万石以下の領主を旗本、御家人(ごけにん)、給人あるいは地頭(じとう)などと称した。また大名の家臣は、たとえ1万石以上であっても大名の資格を有しなかった。これを将軍の立場から陪臣(ばいしん)とよんだ。又者(またもの)あるいは又家来(またげらい)という意味である。

[藤野 保]

大名の類別

大名は、その経歴・取り立てによって旧族大名、織豊(しょくほう)大名、徳川系大名(徳川一門=親藩、譜代(ふだい)大名)に分類される。旧族大名は戦国大名から近世大名に転化したもの。津軽、南部、伊達(だて)、佐竹、上杉、毛利、鍋島(なべしま)、松浦(まつら)、大村、宗(そう)、相良(さがら)、島津氏らで、東北、九州など辺境地帯の大大名が多い。織豊大名は織田(おだ)・豊臣(とよとみ)両氏の家臣から近世大名に取り立てられたもの。丹羽(にわ)、前田、藤堂(とうどう)、仙石(せんごく)、池田(岡山、鳥取)、浅野、蜂須賀(はちすか)、山内、黒田、有馬、細川氏らで、北陸、中国、四国、九州に多い。徳川系大名は徳川氏の一門、家臣から近世大名に取り立てられたもの。さらに親藩、譜代大名に分かれる。親藩には尾張(おわり)、紀伊、水戸の御三家(ごさんけ)および田安(たやす)、一橋(ひとつばし)、清水(しみず)の御三卿(ごさんきょう)をはじめ、越前(えちぜん)、松江、高松、会津の各松平(まつだいら)および久松松平氏ら、譜代大名には井伊、酒井、本多、榊原(さかきばら)、大久保、土井、水野、戸田、小笠原(おがさわら)、牧野、内藤、稲葉、久世(くぜ)、堀田、阿部、柳沢、間部(まなべ)、田沼氏ら、および家康以前に分かれた傍系松平一族がある。関東から東海、畿内(きない)にかけての中央地帯に多く、5万石以下の小大名が多い。さらにこれを将軍との親疎関係によって分類する場合は、御三家、御三卿、御家門、譜代、外様(とざま)に分けるが、御家門は御三家、御三卿以外の親藩およびその分家をさし、旧族大名と織豊大名を徳川系大名に対して外様として一括する。

 また領国や居城の規模によって、国主(国持(くにもち))、準国主、城主、城主格、無城に分け、あるいは江戸城中の詰間(つめのま)によって、大廊下、溜間(たまりのま)、大広間、帝鑑間(ていかんのま)、柳間、雁間(かりのま)、菊間に分け、さらに官位によって、侍従(じじゅう)以上、四品(しほん)(四位)、諸大夫(しょだいぶ)(五位)に分けた。大名の数は、初期3代の将軍による強力な大名統制によって、その数も安定しなかったが、その後しだいに固定し、中期以降には260家前後となった。そのなかでもっとも多かった大名は5万石以下の譜代大名である。

[藤野 保]

大名統制

幕府の大名統制の基本は改易(かいえき)と転封(てんぽう)(国替(くにがえ))である。徳川家康は覇権確立後、戦後処理を通じて、西軍にくみした外様大名を大規模に改易し、その所領を没収するとともに、これらの没収地を、東軍に属して功労のあった外様大名に配分して転封する一方、直轄領(天領)に編入し、あるいは親藩・譜代大名の取り立てにあてた。こうして、豊臣時代の大名配置は大きく変化したが、とりわけ東海、東山およびその周辺諸国は大きく変化した。家康は、これらの地域に配置されていた多くの豊臣大名を、改易しあるいは辺境地帯に転封して、新たに親藩・譜代大名を配置した。ここに徳川氏を中心とする新しい大名配置ができあがり、幕藩体制の大枠がつくられた。

 戦後処理後の家康は、幕府を創設する一方、法の制定と制度の整備・運用を通じて大名統制を強化したが、対豊臣政策を戦略の中心に据えた。豊臣氏の討滅―大坂落城後は、その勢いにのって、1615年(元和1)、「一国一城令」に続いて大名統制の基本法をなす「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定するとともに、畿内を掌中に収め、大坂およびその周辺諸国に譜代大名を配置した。2代将軍秀忠(ひでただ)は、大坂の陣で諸大名に示した軍役規定を明文化(元和(げんな)軍役令)する一方、畿内とその周辺諸国および対東北政策を戦略の中心に据えた。それによって、譜代大名は大坂周辺に集中配置されるとともに、東北進出が積極化した。ついで3代将軍家光(いえみつ)は、九州を中心とする対西国政策に戦略の中心を据えたため、これまで比較的変化が少なかった西国の大名配置は、ここで大きく変化した。こうして、東西九州に譜代大名が集中配置される一方、中国、四国においては、先に成立した御三家に続いて、松山、松江、高松の各松平家が成立し、東北においては会津松平家が成立して、この期に徳川系大名の配置は全国に拡大した。さらに家光は軍役令を改訂・整備(寛永(かんえい)軍役令)する一方、参勤交代を制度化し、鎖国体制を完成した。ここで法と制度運用による大名統制はいっそう強化され、幕府権力の基礎は確立・安定した。

 以上、初期3代の将軍による大名統制によって、実に224名(うち徳川系大名49名)の大名が改易され、これにかわって延べ172名(改易を含まず)に及ぶ親藩・譜代大名が創出・配置されて、幕府権力を支える強力な基盤となった。

[藤野 保]

大名領の構造

以上の大名の統制・創出策によって、外様大名はしだいに辺境地帯に移され、かわって親藩・譜代大名が中央地帯に配置されていった。その後、徳川系大名の配置は全国に拡大したが、とくに譜代大名の集中配置の地域は、直轄領、旗本領とともに中央地帯にあり、しかも、これら三者間において所領の著しい統廃合・切り替えが行われたため、中央地帯における譜代大名領は著しく分散知行化(非領国型)するに至った。以上に対して、旧領に定着した旧族外様大名や、早期に定着した豊臣系外様大名の多い辺境地帯および中間地帯は、領国の固定化によって一円的所領を保ち(領国型)、両者の所領構造は大きく異なったのである。しかも、それは単に所領構造の相違にとどまらず、藩制の成立に異なった様相を与えた。

 しかし、諸大名は幕府の統制下にあって、共通に軍役を負担し、幕藩体制の諸原則を、それぞれの領内に実施していった。兵農分離による家臣団の城下町集住策、検地の実施による小農民の創出と維持策、生産力の増強と貢租の増徴のための各種の勧農策、城下町の興隆と市場統制のための各種の流通策がそれである。初期の大名領は、諸大名の直轄地(蔵入地(くらいりち))と家臣団の知行(ちぎょう)地(地方(じかた)知行)に分かれていたが、諸大名は知行地の割替・分散化を通じて家臣団の知行権を制限し、あるいは蔵米(くらまい)で支給する俸禄(ほうろく)制に切り替えたりして、大名権力の基礎を強化していった。それと同時に、家中法(藩法)を制定して、家臣統制を強化する一方、藩の制度・機構を整備して、家老、城代、奉行(ぶぎょう)以下の行政諸役を分掌させた。1869年(明治2)版籍奉還後、大名は一時知藩事(ちはんじ)になったが、71年廃藩置県の結果廃止され、家格によって華族となった。しかし、これも第二次大戦後廃止された。

[藤野 保]

『藤野保著『新訂幕藩体制史の研究』(1975・吉川弘文館)』『金井圓著『藩政』(1962・至文堂)』

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百科事典マイペディア 「大名」の意味・わかりやすい解説

大名【だいみょう】

江戸時代,1万石以上の所領をもち,将軍と直接の主従関係にあった武士。本来は大きな名田の所有者という意味だが,のち有力武士をさすようになった。南北朝・室町時代の守護大名,守護大名を倒した戦国大名を経て,豊臣秀吉の政権下でほぼ原型ができ,江戸幕府によって制度化された。自己の領地に独自の政治経済機構を有し,家臣団を従えて領民支配を行ったが,幕藩制の成立期には厳重な統制を受け,改易国替(くにがえ)が頻繁(ひんぱん)に行なわれた。17世紀中ごろからほぼ安定し,その数は260〜270家。加賀の前田氏120万石余が最高で1万〜3万石の小大名が大部分。親藩譜代大名外様(とざま)大名の区別があった。1869年版籍奉還で消滅,知藩事となり,華族として再編。
→関連項目出石藩入鉄砲に出女御家騒動奥女中御目見寛政重修諸家譜給地交代寄合参勤交代地方知行直臣城代大名行列大名屋敷知行転封陪臣旗本武鑑分知

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大名」の意味・わかりやすい解説

大名
だいみょう

平安時代から戦国時代にかけて,当初は大きな名田 (みょうでん) を領有するもの,やがて家子郎党 (いえのころうとう) を養って在地支配の力をもつ武士をいったが,江戸時代には1万石以上の武家で,将軍に臣属する者をさした。徳川氏は慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦い以後,大名を徳川氏との親近度によって親藩譜代外様の3つに分類した。親藩は家康の子孫を封じた3家 (→御三家 ) および御三卿と越前,会津2松平家および家門 (御三家,越前家,会津家から分家した大名) をいい,特に御三家の支流を連枝と呼んだ。譜代は徳川氏が三河を領していた当時の家臣で大名となった者。外様は関ヶ原の戦い前後に徳川氏に臣従した者。その他,領地の大小によって,国主 (国持) ,準国主,城主 (城持) ,城主格,領主に分類する分け方もある。大名の領地を領分,家臣を家中と称したが,これらを藩と総称することが多い。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大名」の解説

大名
だいみょう

古代においては大規模な名田をもつ者をさしたが,中世になりしだいに有力な武家の領主をさすようになった。幕府から現地の守護に任じられた者は守護大名とよばれ,戦国期には実力で地方の最有力武家領主となった戦国大名もうまれた。たんに大名というときは江戸時代の大名をさし,幕府将軍から直接に領地を与えられた者で1万石以上の者である。総数は約260~270。規模によって国持・国持並・城持・城持並・無城の区別があり,また将軍との親疎により,親藩(御三家・家門)・譜代・外様などの区別もあった。これらの区別にもとづき,官位・江戸城内での詰席,その他さまざまな格式が定められた。江戸時代の大名の統治組織および領地は藩ともよばれ,かなりの程度自立性をもっていたが,一方で将軍に対する参勤交代や軍役の負担が義務づけられ,また除封・転封などにより,その知行権は一定の制限をうけた。ただし幕府と大名の関係は,国持と譜代小藩などの場合ではかなり異なる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大名」の解説

大名
だいみょう

江戸時代,将軍から領地を与えられた1万石以上の武士
もと大名田堵または大名主 (だいみようしゆ) から出た語。室町時代の守護大名,戦国時代の戦国大名の意にも用いる。江戸時代,将軍から知行地を与えられ,武家諸法度を守り,参勤交代,妻子江戸居住,戦時の軍役負担などの義務を負担した。徳川氏との関係から親藩・譜代・外様に分かれ,約270家。城を有するものは城持大名と呼ばれた。領国を藩といい家臣をもち一部に知行地を与え城下町に集住させて支配した。幕府の要職は親藩・譜代から選ばれた。また大名の監視は大目付があたった。明治維新後,華族となり廃藩置県で東京居住を命じられた。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

普及版 字通 「大名」の読み・字形・画数・意味

【大名】たいめい

名声。〔史記、陳渉世家〕壯士、死せずんば則ち已(や)む。死せばち大名を擧げんのみ。

字通「大」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の大名の言及

【大名】より

…家格の一つ。邦訳《日葡辞書》には〈Taimei タイメイ(大名) Vôqina na(大きな名),土地を支配しているとか,行政官のようなある職務に任じているとかする大身の主君や貴人〉,また〈Daimiŏ(大名) 国の豪族あるいは貴人〉とある。これによれば大名(だいみよう)と大名(たいめい)は異なるもののようにも考えられるが,同書は諸大名(だいみよう)と諸大名(たいめい)を同義とし,また《節用集》なども一般的には両訓をのせているから,室町時代には二つのよみがあったといえる。…

【江戸時代】より

…そのため独自の発展をとげた経済・文化は,開国後にヨーロッパの近代文明を取り入れる基盤となるとともに,近来の日本人論で指摘されているような日本人に固有な思考慣習や気風の源として現代の日本文化にも深い影響を及ぼしている。
【政治史の概観】
 豊臣政権下において,関東8ヵ国240万石の物質的基盤と軍事力を持った家康は,大名中群を抜く存在として五大老筆頭の位置にあったが,1600年関ヶ原の戦で事実上公儀を運営する地位に就いた。家康は3年後の将軍宣下をてことしながら諸大名との間に主従関係を成立させ,以降2代将軍秀忠,3代家光に至る半世紀足らずの間に,江戸幕府は朝廷,寺社,大名,農民に対する一連の諸政策を打ち出し,次いで鎖国を完成してその権威をゆるぎないものにした。…

【江戸幕府】より

…このように私的に発生した武力を全国的規模において公的に組織した権力という鎌倉幕府の基本的性格は,室町幕府を経て江戸幕府にも受け継がれている。近世においては,大名,旗本あるいはその家臣たちの所領支配と武力の私的性格は極限的にまで失われていたが,彼らはなお独立した戦闘単位としての性格を保存しており,彼らを公的な軍隊に編成・統制するところに江戸幕府の将軍権力の本質があった。 次に頼朝が直接動員しえたのは彼と主従関係を結んだ御家人だけであり,当時の社会には朝廷,寺社,国衙などと結ぶ諸勢力が広範かつ強固に存在し,武士であっても頼朝と主従関係にない非御家人は幕府の統制外にあった。…

【官位】より

…将軍および世子以下の官位昇進の次第は3代家光時代にその例規が定まり,将軍宣下とともに正二位内大臣となり,のち従一位左大臣に進み,正一位太政大臣を追贈され,世子は従二位権大納言となり右大将を兼ねるのを例とした。御三家,万石以上の大名の官位もその地位の高下,家格によって定まっていて,尾張・紀伊両家の従二位権大納言,水戸家,御三卿の従三位権中納言,加賀前田家の従三位参議を最高とし,以下従五位下まで数等に分かれ,城主格以上の大名は従五位下の国守に叙任されるのを例とした。いわば官位は家格と一体のものとして扱われ,その高下は江戸城中の座席や礼法等の差異にもあらわれた。…

【寛文印知】より

…江戸幕府の4代将軍徳川家綱の領知判物(はんもつ)・朱印状が1664年(寛文4)諸大名に,翌65年公家・寺社に一斉に発給されたことをいう。家康・秀忠・家光3代にわたり区々に発給されていたものが統一的・同時に発給され,大名領知権が将軍の全国的支配権に完全に包含されたことで,将軍権力の強化・確立をもたらしたといえる。…

【近世社会】より

…豊臣家の直轄地(太閤蔵入地)を畿内に集中し,さらに全国各地に兵を動かすさいの兵糧集積の要地や,金・銀山およびその周辺の地を直轄領としたのである。徳川氏は江戸を支配の拠点としたので,関東の江戸周辺を直轄領(天領)および三河以来の譜代旗本の知行地とし,さらに摂津・河内・和泉にも直轄領と旗本知行地を置き,全国各地の外様大名領の周辺に直轄地を置き,代官陣屋を設けた。また東海・関東に譜代大名領を多く配置するなどの家臣団の所領配置に,全家臣団統制の配慮をみることができる。…

【自分仕置令】より

…1697年(元禄10)江戸幕府が諸大名に公布した法令で,大名が刑罰権を行使しうる範囲について規定したもの。内容は,(1)その大名の領分や家臣だけに関する(一領一家中限りの)事件については,逆罪,付火(放火)のごとき最も重い刑罰(磔(はりつけ),火罪(かざい)=火焙(ひあぶり))を科さるべき重罪であろうとも,大名が審理・科刑しうる(自分仕置を行いうる)こと,(2)しかし他領他支配と関連する事件については,大名は自分仕置権を持たず,月番老中にうかがう,すなわち奉行所吟味願を出して事件を幕府に移すことが必要とされること,を基本とし,ほかに(3)自分仕置を行うにあたっては幕府刑法に準ずべきこと,(4)幕府法上,遠島を科すべき場合,領分内に島がなければ,永牢もしくは親類預(あずけ)などで代替すべきこと,を定めている。…

【知行】より

…このように俸禄と知行が結びついたのは,武士の身分が近世になると権益と切りはなされ,請負的性格を失って,ほぼ純粋に職務ないし職分として観念され,〈自分のものにする〉対象ではなくなり,職務に対する報酬たる俸禄だけが〈自分のものにする〉対象として残ったことを示している。ただ大名の地位だけは,領地・領民を平穏に統治すべき職務とそこから徴収する権益とが結びついているという意味で,若干中世と似た構造が残っていたが,大名の領国支配については領掌と知行が結びついた〈領知〉という言葉が用いられ,知行はほとんど用いられていない。中世までは支配秩序の上下を通じてみられた請負的性格のゆえに,どの職についても共通に知行もしくは領掌が用いられたのに対し,近世ではわずかにその性格を残す大名については〈領知〉,官職的性格を強くした一般武士については俸禄の〈知行〉,というように用語が分化し,さらに農民の土地支配についてはまったく別系統の〈所持〉が用いられるようになった。…

【中世社会】より

…これらの領主連合としての一揆は,族縁的結合原理を断ち切り,自主的に公共の場をつくりだした点など大きな意義が認められるが,その紛争解決を一揆の裁定にゆだねるなど,個々の領主の自立性,自力救済の観点からいえば,それは自己否定の過程ともいえる。 このような武士を地域権力として家臣化していったのが大名であり,在地から遊離し,しだいに自立性を失いつつある武士の家に主人権をとおして大名の力が及ぶようになった。家の相続,従者の決定などにも大名の意志が入りこむとともに,所領も貫高(かんだか),石高(こくだか)とよばれる単なる収益をもとに定量的に把握され,それに見合った軍役が賦課される体制がつくりあげられたのである。…

【妻】より

…こうして,戦国時代に作成された《世鏡抄》が記したように,妻は夫の子ども(後継者)を生むための道具としてしか観念されなくなっていくわけである。【鈴木 国弘】
[近世大名の妻]
 近世大名は妻を公家から迎えることもあったが,相応の大名家と縁組することが多く,同じ家と何度も婚姻関係を結ぶことすらあった。両家の同意のうえ,幕府旗本の先手頭をおもに仲介として将軍の許可を得て結婚するが,むろん離婚することも可能であった。…

【幕藩体制】より

…御料は幕府直轄領(天領)であり,佐渡,足尾,石見などの主要鉱山や,大坂,京都,江戸,長崎などの主要都市もその中に含まれていた。私領は公儀と主従関係にある部将に預けられた知行地で,その部将の公儀との間の位階制的序列によって,大名領(大名),旗本領(旗本)に区分された。約270にのぼる大名の中にも,加賀前田氏のような100万余石の国持大名から,1万石前後までの小大名があり,また,三家以下,譜代,外様などの格による区別もあったが,それらの大名は,みずからの家臣団を抱え,その家臣=給人(きゆうにん)に,位階制的な主従関係に基づいて知行=給人知行を与えた。…

【藩】より

…江戸時代,将軍より1万石以上の領地を与えられた大名の所領,あるいは,その所領支配の組織・機構を藩と呼ぶ。藩の呼称は,江戸幕府の大名領に対する公称ではなく,当時は〈領知〉あるいは〈知行所〉と呼ばれていた。…

【藩政改革】より

…さて,藩政改革は以上の諸前提のうえに成立してくるが,ここでは,17世紀後半から廃藩置県に至る時代を4期に分けて,藩政改革の推移と実態をみてゆくことにする。
[前期――給人地方支配の廃止と俸禄制への転換]
 領知規模1万石以上を大名と呼び,その大名の所領高合計が全体の4分の3に達しているなかで,徹底しきれないいくつかの藩があったにせよ,大名家臣団が地方(じかた)支配(地方知行)から俸禄制(蔵米(くらまい)知行)に変わったことは,藩政にとっても大きな変化であったといえよう。信濃国の譜代小藩諏訪藩におけるこの政策の実施過程に出された〈郷中申渡〉8ヵ条は,第3代藩主諏訪忠晴が1675年(延宝3)閏4月に出したもので,その冒頭の条に,藩が給所百姓を大名直轄の百姓に切り替えてゆく理由を明記している。…

【武鑑】より

…江戸時代,諸大名の氏名,本国,居城,石高,官位,家系,相続,内室,参勤交代の期日,献上および拝領品目,家紋,旗指物,重臣などを掲載した小型本。寛永年間(1624‐44)の《治代普顕記》所収の〈日本六十余州知行高一万石以上〉の一編が先蹤であるが,形態が整ったのは《正保武鑑》(1647)で,《大名武士鑑》(1651年,江戸日本橋中野仁兵衛刊),《知行附》(1656年,伊勢屋刊),《江戸鑑》(1659)などが早いものである。…

【武家諸法度】より

…天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…

【譜代大名】より

…江戸時代における大名類別の一つ。譜代とは系図正しく,その家を継承してきた者の意。…

【分知】より

…所領の一部を親族に分与することを指し,分地とも書く。ことに,江戸時代の武士は上級領主(将軍または大名)より所領を宛行(あてが)われたが,500石位以上の所領を有する武士は家名永続のため分家を創出するのが一般的であった。その際自己の所領の一部を分与し,独立した武士として幕府や藩に仕えさせるが,この分家を分知配当による分家という。…

【用人】より

…江戸時代,大名・旗本の家臣で,家政の中枢に位置した役人。財務,礼式,記録などを管理し,諸役人に法令を伝達し,近習,小姓,医師,儒者,右筆などを支配した。…

※「大名」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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