百科事典マイペディア 「北条氏」の意味・わかりやすい解説
北条氏【ほうじょううじ】
→関連項目安東氏|内管領|小田原征伐|小田原評定|葛西御厨|神奈川|鎌倉大番役|鎌倉時代|鎌倉幕府|川越城|国富荘|椋橋荘|相模国|侍所|執権政治|摂家将軍|高萩新宿|中河御厨|南部氏|二月騒動|新田氏|糠部|禰寝院|人吉荘|平井城|藤原頼経|宝治合戦|北条時行|松山(埼玉)|厩橋|御内人|源頼朝|横田荘
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鎌倉幕府の執権であった一族。その家督を〈北条九代〉という。桓武平氏の庶流で,940年(天慶3)平将門を討った平貞盛の曾孫直方(なおつね)を始祖とする。直方は1028年(長元1)に平忠常追討を命ぜられて関東に下ったが失敗。以後5代は諸系図の異同が多く判然としないが,直方の孫時方あるいは曾孫時家が伊豆北条に土着して,在庁官人となり北条を称したらしい。以降,〈時〉を代々の通字としている。
時家の子時政の娘政子が将軍源頼朝に嫁して,2代将軍頼家,3代将軍実朝を生んだので,将軍外戚の地位を得,勢力伸張の端緒になった。1203年(建仁3)時政は将軍頼家を廃して政所別当となり,その子義時は13年(建保1)和田義盛を倒して侍所別当を兼ね,執権政治への道を開き,21年(承久3)の承久の乱で幕府の覇権を樹立した。義時死後の24年(元仁1)に起こった伊賀氏の変で,北条氏の惣領権の弱さが暴露されたが,父義時の法名〈得宗〉を権威として,公文所,家令,家法などを始めた泰時の努力によって,やがて惣領権が確立した。嫡流の家督を得宗,所領を得宗領(御内所領,御内御領),被官を得宗被官(御内人(みうちびと),御内之仁)と呼ぶ風が成立し,時政の鎌倉名越の屋地を伝領した名越氏に不穏のことがあった以外には,一門諸氏への惣領支配権は確立したといえる。とくに金沢,極楽寺-赤橋の2流の得宗家への従属協力は顕著であった。泰時,時頼,時宗の施政は善政とたたえられたが,反面,梶原,比企,畠山,和田,三浦,安達など諸族の亡滅事件から陰険な陰謀一家と見られることになった。
モンゴル襲来前後には,諸国守護職の大半を占取し,所領は増大し,得宗被官も一定の政治勢力になっていた。泰時の権力は執権職に準拠していたが,時頼は執権辞任後も幕政を掌握していたので,権力の根拠は得宗という地位にあったものと考えられ,すでに〈得宗専制〉が成立していたとみなしうる。85年(弘安8)11月弘安合戦で安達氏を中心とした外様勢力が敗退したあとは,93年(永仁1)の平禅門(へいぜんもん)の乱以後の10年余をのぞくと,内管領平頼綱,長崎高綱・高資父子が幕政を壟断(ろうだん)し,わいろ,陰謀,讒言(ざんげん),弾圧,不正裁判が渦まく腐敗政治が敷かれ,そのことが反幕勢力の決起を促した。ついに1333年(元弘3)5月22日,新田義貞軍に攻められて,高時などの北条一門与党数百人は鎌倉東勝寺に自刃した。建武政権で規矩,糸田,佐々目などが北条与党の乱を各地で起こしたが,35年(建武2)に鎌倉を奪還した高時の遺児時行も,53年(正平8・文和2)足利尊氏に捕らわれ鎌倉竜ノ口で斬られた。北条一門には,前出のほか阿曾,甘縄,伊具,江間,大仏,刈田,後閑,桜田,佐介,塩田,種子島,田伏,東漸寺,常盤,普恩寺,松崎,阿曾沼などがある。
→後北条氏
執筆者:奥富 敬之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1鎌倉の北条氏。鎌倉幕府の執権を勤めた一族。桓武平氏の一流。時政(ときまさ)の父時方が伊豆介となり,伊豆国田方郡北条(現,静岡県伊豆の国市)に住んで北条氏を称したのに始まる。時政は,源頼朝の舅(しゅうと)として鎌倉幕府創設に活躍して勢力を伸ばし,初代執権となる。以後,代々執権となり,他の有力御家人を倒して幕府の実権を掌握。嫡流得宗家は,一門を連署,六波羅・鎮西両探題,評定衆,諸国守護など重職につけ,幕政を支配。名越(なごえ)・赤橋・金沢(かねざわ)・大仏(おさらぎ)の諸氏を分出。1333年(元弘3)元弘の乱で敗れ滅亡。
2小田原の北条氏。戦国大名。鎌倉幕府執権の北条氏と区別し後北条氏ともいう。始祖早雲(伊勢宗瑞(そうずい))は,1476年(文明8)今川家の内紛に乗じて台頭。91年(延徳3)伊豆国を平定,ついで相模国を征服した。小田原城を本拠とし,2代氏綱から北条氏に改め,5代に及び関東に勢力をふるったが,1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めにより滅亡。ただし,氏綱の孫氏規(うじのり)の子孫は江戸時代に河内国狭山藩主となり,維新後,子爵。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…島津荘は一円荘として深河院,財部院,多禰島があり,半不輸領(寄郡)として横河院,菱刈郡,串良院,鹿屋院,肝付郡,禰寝北俣,下大隅郡などがあった。地頭は島津荘が守護島津忠久,正八幡宮領は中原親能であったが,島津氏は1203年(建仁3)比企氏の乱の縁座で守護職とともに同職を失い,以後北条(名越)氏が鎌倉期を通じて所有した(守護職は一時千葉氏が所持)。正八幡宮領は領家の反対で地頭職が縮小され,やがてほとんど廃止された。…
…八幡宮の東隣が源氏の居館の跡で,最初の幕府所在地,その中央背後に頼朝墓がある。北条氏が執権をつとめた時代の幕府は若宮大路の東にあったが,今は住宅が立て込んでいる。頼朝墓の東には社歴の古い荏柄(えがら)天神,1869年(明治2)創建の鎌倉宮があり,その北には覚園寺,鎌倉宮の東には二階堂永福寺跡,瑞泉寺がある。…
…これは朝興の〈他国の凶徒〉論理に対抗して相武支配の正当性を主張するための改姓とみられる。この〈北条〉は鎌倉幕府の執権北条氏によるものであるが,その系図的結びつけは現在まだ明らかでない。したがって早雲以下5代を,鎌倉時代の北条氏と区別するために後北条氏と呼ぶ。…
…成立時期については,九州における聴訴権をもつ北条兼時,同時家が九州に下向した1293年(永仁1)説と,訴訟の裁断権をもつ北条(金沢(かねさわ))実政が初めて裁許状を発給した97年説がある。実政の後も北条(金沢)政顕(まさあき),北条(阿曾)随時(ゆきとき),北条(赤橋)英時(ひでとき)と北条氏一族が任命された(政顕と随時の間に政顕の子種時を入れるかどうかで意見が分かれている)。探題の下には,裁判裁決の迅速・公正をはかるために裁判事務を行う評定衆,引付(ひきつけ)衆,引付奉行人などの職員が置かれ,その機構は1300年(正安2)7月ごろ急速に整備された。…
…早雲は相模進出後も居城とし,1519年(永正16)に同地で没した。その子氏綱以降北条氏(後北条氏)の本拠は相模小田原城に移ったが,90年(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐に際し,当城は山中城とともに小田原城防衛の最前線として重要性を再び増した。北条氏政の弟氏規以下3600の守備する同城に,3月29日から織田信雄ら4万余の豊臣方が攻撃。…
…そのため鎌倉幕府が成立すると,幕府=東国勢力の圧迫を受け,菊池氏は本領以外の大部分を奪われ,大友一族の詫磨氏などの入部を見ることになる。また広大な阿蘇本末社領については北条氏が預所兼地頭となり,球磨には遠江から相良(さがら)氏が,ややおくれて野原荘(荒尾市)には武蔵国御家人小代(しようだい)氏が地頭として入部した。 幕府を背景とする東国勢力の進出は,在地勢力との間に強い緊張関係をもたらすと同時に,新しい文化を生み出していった。…
…1247年(宝治1)6月,北条氏と三浦氏との間におこった合戦。三浦氏の乱ともいう。…
…幕府設置の職としては,このほかに北辺の津軽に蝦夷管領(えぞかんれい)というものがあった。津軽から北海道に居住する蝦夷(えぞ)(アイヌか)を統轄・支配するもので,津軽に多くの所領をもつ北条氏がその地位にあったが,現地にいる代官は被官の安藤氏(安東氏)であった。 しかし鎌倉時代の陸奥国の支配機構の根幹は,郡,荘,保を単位に任命された郡地頭である。…
※「北条氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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