与力(読み)よりき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「与力」の意味・わかりやすい解説

与力
よりき

寄騎とも書く。鎌倉・室町時代に起源をもち、戦国時代に一般化し、同心(徒歩(かち))とともに侍(さむらい)大将などに付属した騎馬の士をいう。江戸幕府では諸奉行(ぶぎょう)、京都所司代(しょしだい)、留守居(るすい)、大番頭(おおばんがしら)、書院番頭、先手(さきて)頭などの配下にあって同心を指揮した。なかでも江戸、大坂その他の町奉行配下の町与力が有名である。1745年(延享2)江戸の南北両町奉行所には各25騎の与力が付属していた。この一般の与力(150~200石、御目見(おめみえ)以下、役上下(やくかみしも))のほかに公用人・目安方(めやすがた)を勤める内与力(うちよりき/ないよりき)というものがあり、これには町奉行の家臣が任命された。

 与力は奉行所の中枢を掌握する実力者であり、身分は一代限りの抱席(かかえせき)であったが、実際には譜代(ふだい)同様に世襲された。その職掌には年番(ねんばん)方(財政、人事)、吟味(ぎんみ)方(詮議(せんぎ)役)、例繰(れいぐり)方(判例の整理、調査)、赦帳撰要(しゃちょうせんよう)方、市中取締諸色調掛(しょしきしらべがかり)、町火消(まちびけし)人足改(あらため)、町会所(まちがいしょ)掛、本所見廻(みまわり)、牢屋(ろうや)見廻、養生所見廻などがあり、このほかに臨時の分掌、多くの出役(でやく)があった。年番方、吟味方などの重要な役目を担当する者は、大名、旗本、富商から公然と金品が贈られ、家計は豊かであったという。京橋八丁堀(東京都中央区)の組屋敷(250~300坪)に住み、八丁堀銀杏(いちょう)という髪型を結い、羽織に袴(はかま)を着け、八丁堀の旦那(だんな)衆といわれた。その妻女は殿様(与力はその格式にない)に対する奥様の称でよばれた。

[北原章男]

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百科事典マイペディア 「与力」の意味・わかりやすい解説

与力【よりき】

(1)本来は力を与(とも)にして加勢する人の意。寄騎とも。戦国時代には有力武将(寄親(よりおや))に加勢または付属した下級武士(寄子(よりこ))を与力,あるいは同心というようになった。→寄親・寄子(2)江戸幕府の職名。町奉行遠国奉行(おんごくぶぎょう),所司代(しょしだい),大番頭(おおばんがしら),書院番組頭(しょいんばんくみがしら),先手頭(さきてがしら)などに付属し,警察,庶務,裁判事務などを担当。町奉行支配下の町方与力が有名。町与力は八丁堀(はっちょうぼり)に組屋敷を与えられ,1719年以降南北各25騎,200石高。
→関連項目大坂定番加藤千蔭定火消

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デジタル大辞泉 「与力」の意味・読み・例文・類語

よ‐りき【与力】

(「寄騎」とも書く)室町時代、大名や有力武将に従う下級武士。戦国大名には、侍大将・足軽大将など上級家臣を寄親よりおやとし、その指揮下に属した騎馬の武士。
江戸時代、諸奉行大番がしら書院番頭などの支配下でこれを補佐する役の者。その配下にそれぞれ数人の同心をもっていた。
加勢をすること。
「―のともがら誰々ぞ」〈平家・一〉
[類語]同心岡っ引き御用聞き目明かし・下っ引き

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旺文社日本史事典 三訂版 「与力」の解説

与力
よりき

江戸幕府の下級役人
「寄騎」とも書き,中世には,大名に隷属する武士の称。江戸幕府はおもな役職に同心とともに配属し,上官の補佐にあたらせた。町奉行配下の町方与力は,町奉行を補佐し,江戸市中の行政司法・警察の任にあたった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「与力」の意味・わかりやすい解説

与力
よりき

寄騎とも書く。力を合せて加勢をする意であったが,室町時代以降には,大名や有力武士に従属する下級武士をさした。江戸時代には,町奉行の支配下で江戸の司法,警察など治安維持にあたった。一般の与力と内与力があった。

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世界大百科事典 第2版 「与力」の意味・わかりやすい解説

よりき【与力】

本来,力を与(とも)にして加勢する人を意味する語で,鎌倉時代から見られ,寄騎とも書いた。戦国時代,大名が家臣団を編成するにあたり,有力部将を寄親とし,これに寄子としてその指揮に従う武士を付属せしめ(寄親・寄子),これを寄騎(与力),同心などと称したが,このうち与力は,何騎と数えられるように騎乗の武士であり,地侍・小領主層の出身者であったと考えられている。このほか郡代,奉行などの役職にも,与力,同心が付属せしめられ,これが江戸時代の与力,同心の前身であったとされている。

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世界大百科事典内の与力の言及

【大番】より

…幕府開設後の1607年(慶長12)大御所家康の膝下駿府にまた3組が編成され,その後32年(寛永9)にさらに3組が取り立てられてつごう12組となり,以後これが定数となった。各組は大番頭1人(老中支配,菊間詰,諸大夫),大番組頭4人(頭支配,躑躅間詰,御目見以上),大番士50人(頭支配,御目見以上),与力10人(御目見以下,役上下,御抱場),同心20人(御目見以下,御抱場)で編成された。1723年(享保8)の制では,大番頭は役高5000石,大番組頭は600石,大番士は200石,与力は現米80石,同心は30俵二人扶持であり,役料は支給されず,そのかわりに在番中はそれぞれに役高の1倍の合力米が与えられた(ただし,1万石以上のものが大番頭になったときには1万石を支給する)。…

【同心】より

…もとは同意・協力する人を意味したが,戦国時代には,大名の家臣団編成において寄親たる上級家臣(部将)の組下に編入され,その指揮に従う武士を,寄騎,与力,寄子,同心などと称した。このうち同心は与力の何騎に対して何人と数えられ,主として在地の名主層出身のものであったといわれる。…

【八丁堀】より

…明治以後,堀は桜川と改称されたが,昭和40年代に一部を残して埋め立てられた。八丁堀には,元禄年間(1688‐1704)以降江戸町奉行所の与力・同心約300人の組屋敷があり,与力は〈八丁堀の旦那〉とよばれ,300坪前後の土地を拝領していた。冠木(かぶき)門などを構えて敷地の奥に住み,一部を儒者や医者に貸していた。…

【町奉行】より

…1795年(寛政7)より1811年(文化8)までの北町奉行所の1ヵ年支出平均は1991両余である。両町奉行配下の与力(200石,50騎),同心(30俵2人扶持,200人のち280人)はそれぞれ職務を分担し,18世紀以降は仕事が細分化したため,1人でいくつもの役掛を兼任した。例えば天保改革期のおもな役掛は年番,本所見廻,牢屋見廻,養生所見廻,火事場人足改,高積見廻,風烈廻,昼夜廻,吟味方,赦帳撰要方,例繰方,定橋掛,町会所掛,猿屋町会所見廻,古銅吹所見廻,市中取締掛などのほか,北町奉行所には米蔵酒宿掛,酒造調掛,町入用減少掛,十組跡調掛,南町奉行所には御肴掛,市中沽券同人別掛,諸書物編集掛などがあった。…

【寄親・寄子】より

…親子関係に擬して結ばれた保護者・被保護者の関係。戦国大名の家臣団組織の中で,寄親は指南,奏者などとも呼ばれ,寄子は与力(寄騎),同心とも呼ばれた。邦訳《日葡辞書》では,寄親を〈ある主君の家中とか,その他の所とかにおいて,ある者が頼り,よりすがる相手の人〉,寄子を〈他人を頼り,その庇護のもとにある者。…

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