宮前村(読み)みやまえむら

日本歴史地名大系 「宮前村」の解説

宮前村
みやまえむら

[現在地名]会見町宮前

天万てま村の南東、小松谷こまつだに川中流左岸、みね山北東の山麓に位置し、「みやのまえ」ともよぶ。地名の由来は集落が星川ほしかわ庄の総社とされた加茂かも大明神(現賀茂神社)の門前に発達したことによる(伯耆志)。拝領高は二一四石余、本免は三ツ九歩。藪役銀九匁六分が課せられ(藩史)、伊木氏、米子荒尾分家の荒尾氏、米子組士沢氏・大西氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二九二石余、竈数三三。「伯耆志」では家数三〇・人数一三〇、林五町一反余。享保九年(一七二四)荻名おぎな村分領大谷おおたに山の入会をめぐって寺内てらうち村など一一ヵ村と山論を起こした星川谷一〇ヵ村の一であった(在方諸事控)

宮前村
みやまえむら

[現在地名]西区平野町宮前ひらのちようみやまえ春日台かすがだい一―四丁目・同六―九丁目・樫野台かしのだい四―六丁目

明石川中流の左岸に位置し、南はしも村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方一九一石余・畑方四七石余、芝山あり。元禄郷帳に「宮ノ前村」とみえる。明石藩領押部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西四町三六間・南北一町、人数二二三・家数三一。郷蔵・池一三・小藪七・自分山九・井溝・土橋六・西大川除堤・谷川堤・井溝三。野草山は大野おおの村など八ヵ村立会山。小祠の若宮森・薬師堂・鎮守森・山神、春日神社がある。辻石つずしという地蔵を祀る辻堂があった。延享三年(一七四六)の田高一八七石余・一一町二反余、畑屋敷高四三石余・四町余、取米一二二石余・免五ツ二分、新開高一四石余・三町二反、家数三三(百姓一六・水呑一七)・人数二一三、牛一三、池六ヵ所は大畑おおはた村立会、掛樋五・伏樋二二、鉄砲一(「巡見用手鑑」大西文書)

宮前村
みやまえむら

[現在地名]杉戸町宮前

下木津内しもきづうち村の南に位置し、東は江戸川を隔てて柏寺かしわでら(現千葉県関宿町)。元禄郷帳に村名がみえ、高二九一石余。幕府領として幕末に至ったものと思われる。文化二年(一八〇五)村明細帳(石川家文書)によれば、寛文一二年(一六七二)に検地が行われ、すべて畑地であった。すなわち上畑五町九反余・五九石余(石盛一〇)、中畑七町九反余・六三石余(同八)、下畑一三町八反余・八三石余(同六)、下々畑一四町余・五八石余(同四)、屋敷二町五反余・二五石余(同一〇)、新田下々畑三反余・一石余(同三)で、ほかに安永三年(一七七四)増高の下々畑一町七反余・七石余(石盛四)があった。

宮前村
みやのまえむら

[現在地名]藤沢市宮前みやまえ村岡東むらおかひがし一―二丁目・弥勒寺みろくじ三丁目

柏尾かしお川下流の右岸に位置し、鎌倉郡に属した。北は高谷たかや村、西は弥勒寺村小塚こつか村、南は手広てびろ(現鎌倉市)に接する。小塚・弥勒寺・高谷・渡内わたうちとともに村岡郷五ヵ村と称し、寛永(一六二四―四四)の頃の分村といい、村域は相互に入組み、村名は五ヵ村の総鎮守があることによるという(風土記稿)

正保国絵図には「宮野前村」とある。正徳元年(一七一一)旗本村上二氏領・山田領の三給、文化八年(一八一一)村上二氏領は幕府直轄領となる。嘉永五年(一八五二)以降彦根藩などの預所となり、慶応三年(一八六七)再び幕府直轄領に復する。検地は貞享元年(一六八四)幕府代官国領重次が実施し、同年三月の検地帳(御霊神社文書など)によると田一四町一反余、畑一九町余。

宮前村
みやのまえむら

[現在地名]喜多方市岩月町大都いわつきまちおおつ

下岩崎しもいわざき村の北にあり、南東は田付たづき川を隔てて上岩崎村、北は天井沢あまいざわ村。もと上岩崎・下岩崎両村と一村で岩崎村と称していたが、天正一八年(一五九〇)三ヵ村となった。八幡宮(現正八幡神社)の門前に位置したことが村名の由来という。端村に太用寺門前たいようじもんぜんがある(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に宮前とみえ、高一八八石余。寛文五年(一六六五)の「小田付組土地帳」によると高一九二石余、免五ツ五分三厘一毛余、反別は田方六町三反余・畑方八町余、本村は家数一八(竈数二〇)、男五八・女五七、馬二〇、太用寺門前は家数三(竈数三)、男一〇・女六、馬一。

宮前村
みやまえむら

[現在地名]鴻巣市宮前・大間おおま一―二丁目

糠田ぬかた村の北、大宮台地最北端の南西縁にある。南半は荒川の沖積低地で、村域は東西に長い。北東境を北西へ中山道が通り、往還の長さは東片側一八町三三間、このうち一五町半余に家並がある(宿村大概帳)。村名は天長年間(八二四―八三四)開基と伝える鎮守ひじり権現社(現宮登神社)に由来するという。足立郡おし領に属した(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領在々御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、高二一六石余。田園簿では田一二〇石余・畑九六石余、旗本下山領。以後幕末まで変わらない。国立史料館本元禄郷帳では新義真言宗光徳こうとく寺領が記され、朱印高五石(旧高旧領取調帳)

宮前村
みやのまえむら

[現在地名]中島町宮前

熊木くまき川中流北岸の村。南の対岸は山戸田やまとだ村、東は谷内やち村。熊甲くまかぶと(現久麻加夫都阿良加志比古神社)の社前に発達した村で、慶長七年(一六〇二)の村井長頼田地寄進状(久麻加夫都阿良加志比古神社文書)に村名がみえる。社僧・社家多数が居住していたと伝え(能登志徴)加茂かもの垣内名、加茂原かもはら加茂橋かもはしの地名が現存する。熊甲社の社僧一乗坊が居住したと伝える辺りを一乗坊いつちよぼうとよぶ。正保郷帳によれば高一四三石余、田方七町五反余・畑方二町余。承応二年(一六五三)の役棟五(「棟役調」鹿島郡誌)

宮前村
みやまえむら

[現在地名]芦原町宮前

竹田たけだ川の南岸にあり、公文くもん村に隣接する。正保の越前国絵図によれば、当村の南方に金津かなづ宿(現金津町)三国みくに(現三国町)を結ぶ交通路が通る。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として、本庄ほんじよう郷内の一村に「社頭の前村」があるが、当村か。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図ではしん郷に含まれていた。

近世、村高は正保郷帳や元禄郷帳では二二九・四二石であったが、宝永五年(一七〇八)の検地によって二三八・六六三石(田面積二町二反余、畑・屋敷面積一七町四反余)に増加した(御前神社文書)

宮前村
みやのまえむら

[現在地名]関川村宮前

村央をおんな川が南西へ流れ、東はなか村、西は朴坂ほおざか村に接する。北の桃川ももがわ(一〇八メートル)を経て村上城下へ至る道が通る。村名は北方の河内かわうち神社に由来する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「加地色部入合宮の前村 下」とみえ、本納一四石九斗八升・縄高三九石一升、家九軒とある。近世は村上藩領。正保国絵図では一三〇石余。万治元年(一六五八)の女川組本田畑検地寄目録(平田家文書)によれば高一五〇石六斗余、田一〇町一畝余・畑屋敷二町五反二畝余。享保九年(一七二四)の村明細帳(鳥屋氏文書)では家数三三・人数一七九で、村に熊や狼・猿が出ることもあるとみえる。

宮前村
みやまえむら

[現在地名]川島町宮前

吉原よしわら村の西にあり、近世は三保谷みほのや郷九ヵ村の一。田園簿では田高一二二石余・畑高二〇石余・野高一一石余、川越藩領。慶安元年(一六四八)の検地水帳(鈴木家文書)には「川越領格組宮前村」とあり、反別は田方二六町二反余(うち上田五町一反余・中田六町九反余・下田一四町一反余)、畑方五町六反余(うち上畑二町四反余・中畑一町七反余・下畑一町五反余)。屋敷持は一七名で、屋敷総面積は九反余。名請人数は三三名のうち、所持田畑五反以下が一七名、一町五反以上は八名であった。元禄七年(一六九四)新田検地が行われた(風土記稿)。明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となったが(「川島郷土史」「風土記稿」など)、のち川越藩領となった(天保一二年「川越領村高書上」猪鼻家文書など)

宮前村
みやのまえむら

[現在地名]朽木村宮前坊みやまえぼう

ぼう村の南東、南東山中の入部谷にゆうぶだに越を越して武曾むそ(現高島町)へ出る。村名は邇々杵ににぎ神社(朽木大宮権現)の社前であることによる。文明一九年(一四八七)六月吉日の造営所当米并出挙米納帳(朽木文書)に宮前の住人数人の名があり、朽木氏より出挙米を借用している。享禄三年(一五三〇)二月二一日の御元服付御懸銭帳(同文書)では「宮前分」として一一人の名が記される。寛永石高帳に高一二四石余とあり、ほかに四二〇文。慶安高辻帳では宮之前村とあり、田方一〇六石余・畑方一八石余、ほかに小物成銭二貫四〇〇文。

宮前村
みやのまえむら

[現在地名]印南町宮ノ前

しろ(二二三・八メートル)の北西方、切目きりめ川沿いにある。南西は西野地にしのじ村。「続風土記」に「古屋村に八幡宮あり其宮の前の義なるへし」とある。慶長検地高目録によれば高五〇八石余、小物成二・六四一石。宝暦一〇年(一七六〇)の切目組大指出帳(「日高近世史料」所収)には宮ノ前・羽六はろく両村として差出され、二村の内訳を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報