中島町(読み)なかしままち

日本歴史地名大系 「中島町」の解説

中島町
なかしままち

[現在地名]博多区中洲中島町なかすなかしままち中洲なかす五丁目

河口近くで東西二流に分れる那珂なか川の東流(博多川)と西流(那珂川)に挟まれた中洲(中島)の北部に位置する。東西に走る唐津街道の両側町で、東は東流に架かる中島東橋を渡って博多の橋口はしぐち町に続き、西は西流に架かる中島西橋を渡り、福岡城下の枡形門を抜けて福岡の橋口町に続いていた(福岡博多近隣古図など)。享禄五年(一五三二)の御祓賦帳(神宮文庫蔵)に「はかた中島の五郎三郎殿」とみえ、永禄七年(一五六四)の御祓賦帳(同文庫蔵)には「いま中島の太郎五郎殿」とある。この「中島」と平安時代の「鴻臚中島館」(類聚三代格)との関連を指摘する説があり、また同館を当地に比定する説もある。元禄三年(一六九〇)の家数六三(続風土記)。明和三年(一七六六)には家数六三・間数一七四間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数八九(博多店運上帳)。産神は福岡水鏡すいきよう天満宮(続風土記拾遺)。「続風土記」は福岡城の項で慶長年間(一五九六―一六一五)黒田長政による同城および城下建設について「郭の東は那珂川をかきり、河中に中島を築て、商家のまちとし、中島の東西に、長橋を二渡して、博多につゝけり」と記している。福岡博多近隣古図には「慶長年中ヨリ町(ト)成ル、むかしハ川中の須賀也」とあり、もとは須賀(川の中の洲)であったとし、「続風土記附録」も同様に「慶長年中に始て此町を造建せらる。昔は中洲といひて人家はなかりしとかや」と記す。前掲近隣古図では町の長さ東西八七間二尺。

東西の中島橋は「中島東橋」「中島西橋」(石城志)、「東ノ御橋」「西ノ御橋」「中島両御橋」「中島橋」(津要録)などとよばれていた。

中島町
なかじままち

面積:九八・五一平方キロ

能登半島の中央部東側に位置し、東は七尾湾に臨み海を隔てて能登島のとじま町と相対する。西は富来とぎ町、南は田鶴浜たつるはま町・志賀しか町、北は穴水あなみず町と接する。西部・北部は二〇〇メートル前後の丘陵性山地で占められ、ここを水源とする熊木くまき川・日用ひよう川・笠師かさし川がそれぞれ東流して七尾湾に注ぐ。これら河川の流域に耕地が開けている。東部海岸沿いに国道二四九号がJR七尾線と並行して通り、町域の中心を東西に地方主要道中島―富来線、西北山地中腹には能登有料道路が走る。北部西岸にしぎし海岸は能登半島国定公園の景勝地として知られ、一帯の風景は「万葉集」の時代から歌に詠まれた。

中島町
なかじまちよう

面積:三八・三三平方キロ

松山市の北西海上に浮ぶ七大島と、二二の無人島からなる瀬戸内海国立公園中の町。野忽那のぐつな(一・五平方キロ)睦月むづき(三・三平方キロ)なか(二二平方キロ)怒和ぬわ(四平方キロ)津和地つわじ(三・二平方キロ)二神ふたがみ(二・八平方キロ)由利ゆり(一平方キロ)に人が住む。忽那くつな七島とよぶ時、昔は野忽那・睦月・中島・怒和・津和地・二神に山口県はしら島を入れていたが、今は柱島を除いて松山市興居ごご島を入れたり、あるいはその西にあるつる島を入れたりする。

中島町
なかじまちよう

[現在地名]高知市ほん町一―五丁目・鷹匠たかじよう町二丁目・さかい

ほん町の南にあり、東西八町二〇間(高知市沿革略志)。西は金子橋かねこばしで、東はしも町との境の大堤防。中央やや東寄りにU字型の溜池がある。これは城下町づくりの当初、かがみ川が氾濫した際の痕跡という。町名は、もと鏡川の中洲であったことにちなむという。寛文九年(一六六九)の城下町絵図に「中島町筋」とみえ、高知城南門より南に向かう筋との交差点の東南角一画に「御馬屋」がみえる。この御馬屋は延享三年(一七四六)の火災後、帯屋おびや町へ移った(高知市沿革略志)。天保一二年(一八四一)の城下町絵図には「中島(丁カ)」とみえ、中央やや東から南下する天神橋てんじんばし通の名がみえる。

中島町
なかじままち

[現在地名]金沢市昌永町しようえいまち京町きようまち

浅野川下川除あさのがわしもかわよけ町の北西に続く通りに沿う町。町名は当地にかつて浅野川の中洲であったことにちなむ(金沢古蹟志)。付近一帯は吹屋ふきや裏通うらどおりともよばれた(「又新斎日録」加賀藩史料)。二つの通りからなる。浅野川下川除町から浅野川沿いに北西へと続く南側の通りは両側町で、長さは短く中ほどに広見ひろみをもち、浅野中島あさのなかじま村へと続く。もう一方の北側の通りは広誓こうせい寺横を経て南東方向から延びる通りに続く片側町。それに沿って流れる中島用水は寛永二年(一六二五)広誓寺付近で浅野川より水の取込みを行っている(改作所旧記)。元禄九年(一六九六)の書上(「片岡孫作筆録」加越能文庫)に地子町とある。

中島町
なかじまちよう

[現在地名]伊勢市中島一―二丁目

宮川下流の右岸、辻久留つじくる町の北にあり、現伊勢市街の西端にあたる。初瀬はせ(伊勢)本街道を川端かわばた村で宮川を渡ると当町で、この渡しはやなぎの渡(上の渡)といわれ、参宮者で賑った。嘉暦元年(一三二六)以来、光明こうみよう寺の僧恵観は蔵人所供御人松王丸と吹上ふきあげ畠地などをめぐって争ったが、同二年八月日の松王丸代久季重申状案(光明寺古文書)に「恵観称号目六之中敷地二段之外者、非法常住院之間、三和嶋者岩淵二千石知行之小田并中嶋已下等、云在所、云知行之仁、不知誰人者也」と記されている。

中島町
なかじまちよう

[現在地名]江東区永代えいたい二丁目

あぶら堀枝川の大島おおしま(大横川西枝川)流入口東側に位置する町屋。町の三方を堀に囲まれる。西は富吉とみよし町・もろ町・相川あいかわ町に面し、北は北川きたがわ町、東は大島町に面する。同町との境には大島橋、富吉町との境には福島ふくしま橋が架かる(ともに御入用橋)深川中島ふかがわなかじま町とも称した。文政町方書上によれば、元禄一二年(一六九九)南小田原みなみおだわら町・南本郷みなみほんごう町・霊岸島川口れいがんじまかわぐち(現中央区)の代地として与えられた。元来江戸古町の代地であるため、深川の町の組合には加入していない。

中島町
なかじままち

[現在地名]高岡市中島町・横田よこた

高岡町の南西部、千保せんぼ川の中洲に位置する両側町(明和八年「高岡町絵図」高岡市立中央図書館蔵)。千保川本流には横田橋が架かり、西の横田町へ続く。同川支流の中島川(通称ガメ川、現在は暗渠)に架かる横田小橋(通称中島橋)を渡ると橋番はしばん町。地子町で、横田村の横田屋甚右衛門が引越して開墾したことに始まるといい(高岡町由緒聞書)、宝暦四年(一七五四)横田村より請地して町立てされた(高岡史料)

中島町
なかじまちよう

[現在地名]函館市中島町など

昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、梁川やながわ町の南、亀田かめだ川の左岸に位置し、東は千代ヶ岱ちよがたい町。それまで函館区大字亀田村かめだむらの字であった千代ヶ岱を当町を含む数町に分割し、これに字陣屋通じんやどおり・字五稜郭通ごりようかくどおりの一部を加えて町域とした(函館市字地番改正調書)。町名は箱館戦争時、弘前藩の陣屋跡にこもって戦死した元浦賀与力の中島三郎助に由来する(函館市字地番改正調書)

中島町
なかじまちよう

中京区三条通河原町東入

三条通を挟む両側町で町の東側をかも川が南流、中央を南北に木屋町きやまち通が通る。

町名は、筆描図系では寛永以後万治以前京都全図に「中嶋町」とみえる。木版図系では寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図に「中嶋」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「中嶋丁」とみえ、以後変化はない。「坊目誌」は「加茂川及び高瀬川の間に起るを以て名とす」という。

近世の諸町絵図をみると、当町は「たび人やと」(元禄四年京大絵図)、「やどや」(天保二年改正京町絵図細見大成)と記され、また「京雀跡追(延宝六年刊)に「(はたごや)たび人のやど 三条中しま」とあり、旅人相手の宿屋が集中していたことがうかがわれる。

中島町
なかじままち

[現在地名]富山市豊川町とよかわちよう

川端かわばた町の北に位置し、北は北横きたよこ町、西はたて町。東はいたち川に沿う。江戸時代の町絵図はいずれも当町付近の鼬川に橋が描かれ、対岸の上り立あがりたて町と結ばれる。田地方のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次の町割当初からの町。安永八年(一七七九)の本家数一六・貸家数二五(「町方旧記抜書」前田家文書)

中島町
なかじまちよう

[現在地名]堺市戎之えびすのひがし三―四丁

骨屋ほねや町の東にあり、樽屋町たるやちよう筋を挟む両側町。天正一七年(一五八九)一〇月一五日付の起請文(法華寺文書)に「中島町次郎五郎」とある。元禄二年(一六八九)堺大絵図に「中島町」とあり、町会所は東頬に所在。申唱之町名(「堺市史」所収)には「銀杏木」の異称を記す。

中島町
なかじまちよう

[現在地名]水口町本町ほんまち二丁目・松栄しようえい

西にし町の東、南裏通を挟んだ両側町。東端を伊賀街道が南北に通じ、北に折れるとかぎ町、北はばん町、南は蓮華れんげ寺境内など。延宝七年地子赦免帳では居屋敷二〇・番屋敷一、屋敷地の間口は最大九間二尺・最小四間二尺余。

中島町
なかじまちよう

昭和四年(一九二九)一〇月から現在の室蘭市の町名。室蘭湾奥地の陸地部北東に位置する。町名は中嶋神社(現在の宮の森町一丁目に鎮座)に由来する。もとは室蘭市大字輪西村わにしむらの一部で、チリベツ札幌通さつぽろどおりの字名があり、昭和四年一〇月に室蘭市中島町となった(「大字廃止町名及之に伴う区域設定の件」昭和一六年室蘭市史)。同三八年住居表示が実施され、現在の新日鉄社宅地(同四二年に住居表示を実施して中島本町となる)を除く地域を中島町と宮の森みやのもり町に分割し、両町に一―四丁目を設定した(第一次・第五次住居表示新旧対照表)

中島町
なかしままち

[現在地名]佐賀市呉服元町ごふくもとまち中央本町ちゆうおうほんまち

白山しらやま町から直角に南下する夕日ゆうひ町と平行して、そのすぐ東に南北に並ぶ町人町。絵図には古くから記載があるが、郷村帳では寛政年間(一七八九―一八〇一)から町名がみえる。裏町で袋小路のせいもあって竈数も少ない。嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば、実竈数一七、人口は男七九人、女七〇人で計一四九人となり、一竈当りの人数が多いのが特色である(城下の町方平均は四・八人)

中島町
なかしままち

[現在地名]八代市ほん町二―三丁目

城の南に位置する。北は役割やくわり丁・南濠端みなみほりばた丁、東は九日ここのか町、南は正教寺しようきようじ町・細工さいく町、西は細工町に接している。十一枚立の高札場(札の辻)があり、渡船場があって「札の辻渡」とよばれ、番所も置かれていた。

中島町
なかじままち

[現在地名]大館市十二所 十二所町

十二所じゆうにしよ町の北東端部に位置する町人・百姓の町。幕末期の十二所士族屋敷図に「中嶋丁」とある。鹿角かづの街道沿いに街村をなし、北を米代川が西流、南は上新かみしん町。西端部の上新町・町と交わる付近に関所があり、武士五人、足軽二人が詰めた(大館市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報