上岩崎村(読み)かみいわさきむら

日本歴史地名大系 「上岩崎村」の解説

上岩崎村
かみいわさきむら

[現在地名]勝沼町上岩崎

八代郡に属し、西流する川を境に山梨郡勝沼村の南に位置する。南東端の岩崎山(九四八・三メートル)から流れ出て日川に合流する数筋の沢が形成する扇状地上に立地し、西は下岩崎村。中世は岩崎郷に含まれ、同郷は天正(一五七三―九二)末年には上・下に分立していたと推定される(天正一七年一一月一七日「伊奈忠次知行書立写」記録御用所本古文書)。慶長古高帳に上岩崎村とみえ、高五五六石余、幕府領。ほかに大明神(現氷川神社)領一石余がある。貞享二年采地簿(臆乗鈔)では旗本上田・松平・本郷領が設定されており、上田氏は寛永一二年(一六三五)、本郷氏は同一〇年に宛行われている(寛政重修諸家譜)。松平氏は不明。元禄郷帳でもこの旗本三氏領。宝永二年(一七〇五)甲府藩領、享保九年(一七二四)幕府領となり石和代官支配。延享三年(一七四六)田安家領となり、幕末に至る(田安領知村高記など)

上岩崎村
かみいわざきむら

[現在地名]喜多方市岩月町いわつきまち宮津みやつ

大沢おおさわ村の西に位置し、北東は入田付いりたづき村、西は田付川を隔てて宮前みやのまえ村。小田付組に属し、原坊はらのぼう寺窪てらくぼ長窪ながくぼ柏原かしはらの端村がある。ほかに十方之宮じつぽうのみや大沢入おおさわいりという端村があったが、両所とも寛政一〇年(一七九八)天井沢あまいざわ村の端村となった。「新編会津風土記」によると当村および下岩崎・宮前の三ヵ村はもと岩崎村と称して一村であったが、天正一八年(一五九〇)三ヵ村に分立したと伝える。永和二年(一三七六)閏七月五日の某正秀寄進状(示現寺文書)で「会津ママ摩郡岩崎村内 宇津野・坊平・水沢」の地が熱塩あつしお(現熱塩加納村)示現じげん寺に寄進されている。

上岩崎村
かみいわさきむら

[現在地名]茎崎村上岩崎

牛久うしく沼の北西に半島状に突出た台地にある。江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は四九〇石余。元禄一五年(一七〇二)の上岩崎村宗旨改人別・家別(茎崎村史)によれば、旗本上杉氏領の家数三四・人数一九八。寛政期(一七八九―一八〇一)は旗本上杉・阿部・窪田各氏が支配し(「差上申一札之事」宮本家文書)、幕末は上杉氏領二六八石余、窪田氏領一四一石余、阿部氏領八五石余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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