原町(読み)ハラマチ

デジタル大辞泉 「原町」の意味・読み・例文・類語

はらまち【原町】

福島県北東部にあった市。平成18年(2006)1月、鹿島町・小高町と合併して南相馬市となった。→南相馬

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精選版 日本国語大辞典 「原町」の意味・読み・例文・類語

はらまち【原町】

福島県北東部の地名。太平洋に面する。浜通り北部の中心で、江戸時代陸前浜街道の宿駅として発達。電気・機械・製紙工業が盛ん。昭和二九年(一九五四)市制。

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日本歴史地名大系 「原町」の解説

原町
はらまち

[現在地名]吾妻町原町

中之条なかのじよう盆地の西南地域、吾嬬かづま連峰薬師やくし(九七四・四メートル)から岩櫃いわびつ(七九五メートル)への尾根と、吾妻川と四万しま川によって限られた台地上にある。東から西への道と四万川に沿った南北の道が通じており、北東は同川を挟んで中之条町(現中之条町)。古代は「和名抄」に載る大田おおた郷に属するといわれ、中央部に鎮座する大宮巌鼓おおみやいわつつみ神社の鎮座地大宮の地名から吾妻郡衙の所在地とする説もある。吾妻氏の後裔と称する斎藤氏が岩櫃城に拠ると字うえ宿しゆくに城下町平川戸ひらかわど宿が発達したと考えられる。永禄六年(一五六三)岩櫃城は落城し、同七年二月一四日には八須賀縫殿助に本領平川戸六貫文ほかが宛行われている(「武田家朱印状」熊谷次郎氏所蔵文書)。天正一〇年(一五八二)の武田氏滅亡後は真田昌幸利根とね・吾妻地方を支配し、同一二年一二月一六日平川戸宿の問屋業務を市場右京進に安堵した(「真田昌幸朱印状写」一場文書)。同一八年嫡子信幸は大宮巌鼓神社の太夫に「今度社領就御改、本五貫之所、七貫八百文ニ雖令検使、如前々大宮ヘ付置候者也」と宛行状(大宮神社文書)を出している。

原町
あしはらちよう

[現在地名]堺市南旅篭みなみはたご西にし三―四丁・南半みなみはん西にし三―四丁

かぎ町の西にあり、町域は南半町側にも及ぶ。京都相国寺の僧南江宗は永享四年(一四三二)「南荘葦原海浜」に草庵を結んで隠居し、自ら漁庵と号して一休に従い、多くの頌を作った(堺鑑)。また甘露寺親長は文明一三年(一四八一)四月二四日に「南庄葦原浜」で今大夫(今春か)の勧進猿楽を見物している(親長卿記)

原町
あわらちよう

面積:三七・五七平方キロ

東方に隣接する金津かなづ町とともに、福井県最北端の町。北は日本海に面し、東西七・七五キロ、南北一一・八キロ。北部は北潟きたがた湖を取巻く加越台地、南部は竹田たけだ川周辺の平野部に二分され、集落の多くは、竹田川の自然堤防上や、加越台地の南麓、北潟湖岸にある。明治一六年(一八八三)温泉発見以来、舟津ふなつ村・二面ふたおもて村・田中中たなかなか村の各地で急速に温泉の試掘がなされ、北陸有数の温泉郷として知られる。一方、農業も盛んで、米作りや酪農、野菜・果樹・茶栽培などが行われている。

原町
はらまち

[現在地名]古河市原町など

古河宿の南の入口にあたり、中の台なかのだいの茶屋や一里塚があり、土塁・木柵を構えた「原町口」より内が古河宿の町並で城下だった。日光街道の名所「中田の松原」は当地の南半まで続いていた。

「豆相記」に「永禄七年(中略)氏政在営于古河原」とあるが、この「古河原」が当地であったかどうかは未詳。天正一八年(一五九〇)九月二〇日の豊臣秀吉印判状(喜連川文書)に「古河姫君へ被遣之知行方目録事(中略)一弐百拾四石参斗 原下すわの下迄」とある。

原町
はらまち

[現在地名]上田市中央ちゆうおう三丁目

上田城追手口前で東から北に曲る北国脇往還沿いに北へ延び、上田城下の中心。宿場町・市町でもある。町の長さ四町五間(長野県町村誌)

築城後間もなく、真田氏がゆかりの深かった小県ちいさがたはら郷の住民を移してできた。元和三年(一六一七)真田信之は原町の町割を改め、柳沢与兵衛に屋敷替えを命じており(柳沢文書)、町の整えられたことがうかがえる。同四年、家造りのよい家三軒に城主の来客などの宿にすることを申し渡している(神尾史料)

原町
はらちよう

[現在地名]浜田市原町・真光町しんこうちよう

浜田八町の一で、その南西端にあたる。かどつじ町の西に延び、途中南西に折れ、原井はらい村に至る。北は檜物屋ひものや町・辻町、西は浜田浦。原井村との境には青口あおぐち番所が置かれていた。もと吹上ふきあげとよばれていたが、古く菊地氏の一族原氏が居住していたので原町とよぶようになったという(浜田町史)。門ヶ辻町境から青口番所木戸口まで一四八間余の道が延び、道幅は番所前で四間余、門ヶ辻町境で二間余で両側に一尺五寸の雨落溝があった。道の西側は町屋敷・寺領・地方、東側は町屋敷・地方であった(天明元年「浜田町浦小路竪横間数改帳」浜田市立図書館蔵)

原町
はらまち

[現在地名]砥部町麻生

宮内みやうち村と麻生あそう村との境に形成された大洲藩の在町。「予州大洲領御替地古今集」に、

<資料は省略されています>

とある。文政七年(一八二四)の町並は街道に沿い東側一二軒、西側一四軒、計二六軒で大工・樽屋・鍛冶屋などの職人のほか、酒・糀・海産物・小間物などを商い、宮内村分を上原町かみはらまち、麻生村分を下原町しもはらまちとよんでいた(砥部町誌)

原町
はらまち

[現在地名]小野田町 原町

小野田本郷のうちで、東は小野田本郷、南と西は上野目かみのめ、北は長清水ちようしみずに接する。「安永風土記」によれば、田三七貫九〇二文・畑八貫七五五文で、一円蔵入、人頭五一人(うち寺一・沽却禿九)はいずれも町住居、家数四六(うち水呑二・借屋二)、男一三九・女一二一、馬三二で、村鎮守の神明社があり、用水は八ヵ村入会の小瀬こぜ(溜高一六八貫四六六文)を利用しており、当村分溜高は三七貫四四四文であった。当村は寛永一七年(一六四〇)に立てられた原町という宿場で、町の長さ五町四八間、門沢かどさわへ一里二〇町、本荷三九文・軽尻二六文・賃夫二〇文、小野田宿へ三一町二四間、本荷二二文・軽尻一四文・賃夫一一文であった。

原町
くずはらちよう

[現在地名]大津市御幸町みゆきちよう

布施屋ふせや町の南、上東八かみひがしはつ町の東にある東西に長い町屋敷地(寛保二年町絵図)。東海道筋に近いため旅人相手の商いが多かったという。「輿地志略」に町名がみえ、慶応元年(一八六五)大津宿役を負担した役家数は四四軒であった(大津市志)。大坂堂島どうじま(現大阪市北区)の米相場を大津まで知らせるのに飛脚や伝書鳩のほか、山の頂上に人を立て手旗信号で米価の上下を送るという方法があったが、安永四年(一七七五)当町の近江屋長兵衛が御用米会所からこの役を請負った。

原町
はらまち

[現在地名]金沢市昭和町しようわまち

折違すじかい町の北西、加賀藩士菊池家下屋敷から広岡ひろおか山王社へ延びる小路入口に位置。文政六年(一八二三)に町立てされた地子町で肝煎は安左衛門(町奉行より出候町名)

原町
はらのまち

[現在地名]会津若松市大町おおまち一丁目

紺屋こんや町の北に並び、長さ二町五三間・幅四間、家数五二。昔この町を開いたとき、葭原であったので町名となったという(新編会津風土記)。天正一八年(一五九〇)蒲生氏郷に従って近江国から会津に来た刀鍛冶の国安家が住んでいた(同書)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「原町」の意味・わかりやすい解説

原町
はらまち

福島県北東部,南相馬市中部の旧市域。太平洋に臨む新田川(にいだがわ)下流域にある。1954年原町と高平村,太田村,大甕村の 3村が合体して市制。1956年石神村を編入。2006年小高町,鹿島町と合体して南相馬市となった。中心市街地の原町は陸前浜街道(国道6号線)の宿場町として栄えた。1898年日本鉄道常磐線開通により発展。相馬郡,双葉郡の行政出先機関が集まる。精密機械,電子,パルプなどの工場が進出している。周辺部は耕地が開け,米作と野菜栽培が盛ん。毎年 7月下旬雲雀ヶ原で行なわれる相馬野馬追いの行事は有名で,国の重要無形民俗文化財に指定されている。また,国の史跡の桜井古墳羽山横穴,国の重要文化財の旧武山家住宅がある。

原町
はらまち

群馬県中部,東吾妻町北部の中心集落および旧町域。吾妻川中流域に位置する。 1889年町制施行。 1955年近隣3村と合体し,1956年吾妻町に改称。 2006年村と合体して東吾妻町となった。元和年間 (1615~24) に岩櫃城の城下町であった平川戸から町人を転居させたのが町の起源。中之条盆地の西端に位置し,近世には北東約 3kmにある中之条と隔月で1,6を市日とする六斎市が立った。吾妻川流域のなかでは中之条に次ぐ商業地。国の天然記念物の大ケヤキがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「原町」の意味・わかりやすい解説

原町 (はらまち)

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世界大百科事典(旧版)内の原町の言及

【粕屋[町]】より

…多々良川本支流および須恵川の低地で占められる。南北に走るJR香椎線,東西に並走するJR篠栗線,国道201号線,さらに九州自動車道福岡インターチェンジがあり,交通の便が良いため,中心集落原町(はるまち)付近まで福岡東部の市街地が拡大・延長し,かつての水田地帯は福岡市のベッドタウンとして大きな変化を遂げた。人口も急激に増加した。…

【甲冑】より

…こうした大鎧の優品として伝存するものに,東京都御岳神社の畠山重忠寄進と伝える赤糸威鎧,広島県厳島神社の伝源頼朝奉納小桜威鎧,愛媛県大山祇神社の伝河野通信奉納紺糸威鎧などがある。
[胴丸,腹巻,腹当]
 平安時代に形成された鎧は騎乗用に整えられ,大型化しまた華麗な装飾が施されて武将の武威を表したが,徒歩の従卒用には軽快な胴丸が作り出された。脇楯を用いず胴を右脇で引き合わせ,草摺は歩行しやすいように八間と細かく分け,肩に杏葉を当てて防御した。…

※「原町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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