比企郡(読み)ひきぐん

日本歴史地名大系 「比企郡」の解説

比企郡
ひきぐん

面積:二八一・九五平方キロ
川島かわじま町・吉見よしみ町・滑川なめがわ町・嵐山らんざん町・玉川たまがわ村・鳩山はとやま町・都幾川ときがわ村・小川おがわ

県の中央部に位置し、東松山市によって東西に二分されている。近世の郡域は現在の東松山市・川島町・嵐山町・小川町・鳩山町・滑川町・玉川村都幾川村入間いるま越生おごせ町・川越市にまたがり、北は男衾おぶすま郡・大里郡、東は横見よこみ郡・足立郡、南は入間郡、西は秩父郡に接していた。郡の西部に比企丘陵、東部に沖積平野が広がる地形となっている。なお現吉見町は近世には全域が横見郡の郡域で、同じく都幾川町の一部が秩父郡、小川町の一部は男衾郡であった。訓は「和名抄」東急本に「比支」、名博本に「ヒキ」とある。

〔古代〕

比企丘陵や東松山台地は早くから開けた地で、古墳時代前期の集落として有名な東松山市五領ごりよう遺跡・番清水ばんしみず遺跡をはじめ多くの集落跡が発掘されている。古墳も、五世紀前半の築造といわれる東松山市大谷の雷電山おおやのらいでんやま古墳(全長約八六メートル)、五世紀末頃と推定されている東松山台地上の同市野本将軍塚のもとしようぐんづか古墳(全長一一五メートル)などがあり、この地域に一つの勢力が存在していたことを物語る。しかし六世紀以降、この地域で造られた古墳はその規模を縮小する。この考古学的事実から、「日本書紀」安閑天皇元年条に伝える武蔵国造の争乱を、従来の北武蔵と南武蔵の対立ではなく、行田市の埼玉地方と当地比企地方の対立としてとらえる意見が出されている。すなわち争いに勝った笠原直使主を埼玉古墳群を築造したグループに、敗れた同族の小杵を比企地方のグループと想定する。その後、横渟よこぬ屯倉が設置されて、市野いちの川流域を割かれてその勢力をそがれたことが、比企地方の古墳の消長を反映しているという。

鳩山町・嵐山町・玉川村一帯には南比企窯跡群があり、七世紀に操業が開始され、武蔵国分寺造営期には生産規模を拡大していた。「和名抄」では郡家ぐうけ渭後ぬのしり都家つけからせの四郷がみえ、すでに奈良時代からこのような状況であったのだろう。郡衙は郡家郷に所在したと思われるが、その比定地として「大日本地名辞書」は古凍ふるこおりの字名を残す東松山市古凍にあてている。今後の発掘調査による確認が待たれる。式内社は伊古乃速御玉比売いこのはやみたまひめ神社があり、滑川町の同名社がこれに相当すると考えられている。東松山市の箭弓やきゆう稲荷神社は源頼信が長元四年(一〇三一)平忠常を追討したときに祈願したという伝承をもっている。寺院では都幾川村西平にしだいらの都幾山中腹にある慈光寺が特筆される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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