奥山村(読み)おくやまむら

日本歴史地名大系 「奥山村」の解説

奥山村
おくやまむら

[現在地名]引佐町奥山

神宮寺じんぐうじ川の上流に位置し、東は田畑たばたけ村・栃窪とちくぼ村、北は狩宿かりしゆく村。西は富幕とんまく(五六三・二メートル)から南のじようヶ峰(四二三・九メートル)へ延びる稜線を境とし、風越かざこし峠を経て只木たたき(現三ヶ日町)へ通じる。中世には奥山郷などともみえ、井伊氏一族の奥山氏の本拠。「太平記」巻一九(諸国宮方蜂起事)によると、建武四年(一三三七)に宗良親王を奉じた井伊直朝が「奥ノ山」に立籠っている。寛正三年(一四六二)には一二月一二日に建立された大福だいふく(現三ヶ日町)不動堂の造営にあたり、奥山の永折が一〇〇文を寄進している(「大福寺不動堂建立記」大福寺文書)。永正一〇年(一五一三)三月には斯波義達を擁した井伊直親が今川氏親と三岳みたけ城で戦い、敗れた斯波・井伊軍は「奥の山」に退いている(「宗長日記」など)。なお奥山氏は井伊氏六代良直の弟俊直を初代とし、三代までは赤佐姓を称して横尾よこお村に居住。四代朝清から奥山左衛門太郎を名乗って当村字中村なかむらに居住、朝清は正和元年(一三一二)に没したという(「奥山家古代記」龍潭寺蔵)

奥山村
おくやまむら

[現在地名]長尾町多和たわ

矢筈やはず(七八七・七メートル)女体によたい(七七三・八メートル)の山並が連なる山村。吉野よしの川支流の曾江谷そえだに川と東谷ひがしたに川に沿って狭い耕地があるのみで、ほとんどは山林。北は前山まえやま村、南は阿波国美馬みま郡。四国霊場八十八ヵ所第八八番結願所である大窪おおくぼ寺がある。近世初頭には「十一山村」と称し、元和八年(一六二二)の役枌帳(真部文書)に「十一山之内奥山分」とある。寛永五年(一六二八)の免定状(同文書)も十一山村とする。寛永国絵図の長尾庄一六ヵ村のうち中山なかやますげ(菅谷)槙川まきかわがく(額)が村域にあたる。寛永一七年の生駒領高覚帳には「後山村」とみえ高二三五石余、同一八年の阿讃国境紛争時の定覚書には「がく村」とある(長尾町史)。同一九年の免定状(真部文書)および高松領小物成帳に初めて「奥山村」と記されている。寛永一七年、三木中山みきなかやま(現木田郡三木町)で讃岐の国境見守役箭田甚四郎らと阿波方目付笠井甚兵衛らとの間に国境紛争が起こり双方に死傷者が出た。翌年、西島八兵衛が現地に赴き裁定書を作ったといわれ、それによると三木中山は阿波方に侵入されており、逆に奥山は阿波方に侵入していたようである(長尾町史)

奥山村
おくやまむら

[現在地名]出石町奥山、朝来あさご和田山わだやま朝日あさひ

弘原上ひろはらかみ村の南東に位置する。村域は奥山川の最上流域を占める奥山地区、尾根を境にその南側、円山まるやま川支流糸井いとい川の最上流域を占める朝日地区とに二分される。奥山地区には和屋わや、和屋の南に奥山、朝日地区には朝日・堀場ほつぱ下戸しもとなどの集落が散在する。奥山川に沿って南下し、和屋・奥山を経て峠越えで朝日地区に至る山道(奥山越)と、和屋でこの道から西方に分岐し、奥山川の支流和屋川沿いに進み、同じく峠越えで養父やぶ奥米地おくめいじ(現養父町)に至る山道(奥米地越)が通っていた。文禄四年(一五九五)出石城主小出吉政領(のち出石藩領)となる。元禄九年(一六九六)出石藩小出家が絶家となり、代わって松平氏が出石藩主となった際、一部(朝日地区)奥矢根おくやね(現但東町)の矢根銀山付六ヵ村(矢根組)とともに幕府領となった(引渡しは同一〇年)

奥山村
おくやまむら

[現在地名]大月市賑岡町奥山にぎおかまちおくやま

浅利あさり村の北にある。本郷(東奥山)は桂川支流葛野かずの川の右岸を占め、遅能戸おそのうと(小曾農戸などとも、現在の西奥山)中村なかむら金山かなやまなどの枝村が浅利川上流部の山間に点在する。本郷から枝村に行くためには険阻な天神峠を越えて行かなければならず、そのことなどが村名の由来という(甲斐国志)。「甲斐国志」は枝郷にヲソノヲトをあげ、天保郷帳は古くは奥山村・小曾農戸村・中村の三ヵ村であったと記す。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控では高五五石余。寛文九年(一六六九)の郡内領高辻帳では高五七石余。享保一〇年(一七二五)の郡内領郷帳によれば寛文年中とほぼ同高で、免は七ツ六分余(取米四三石余)、ほかに畑方改米一斗余・山畑大豆四石余・炭木三束半・入松三束・青草一二駄・藁五駄・薪七〇束・鍛冶炭一五俵・渋柿一升・夫金永五七四文・漆桶代大豆一石・宿役米三斗余などが課せられていた。

奥山村
おくやまむら

[現在地名]姫路市奥山

麻生あさお(小富士山)の南麓に位置し、東は見野みの村、南はつぎ村。集落は前垣内まえがいち中垣内なかがいちを中心に発達し、いちつぼつぼなどに条里の遺構が残る。慶長国絵図に「奥山村」とみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方一四六石余・畠方一七石余。天保郷帳では高二一二石余。寛延三年(一七五〇)の宇佐崎組村々明細帳(県立歴史博物館蔵)によれば高二〇四石余、反別は田方一一町五反余・畑方二町八反余、ほかに新高七石余がある。

奥山村
おくやまむら

[現在地名]邑智町奥山

吾郷あごう村の北に位置し、北西は志君しぎみ村。銀山御囲村に指定されていた。中世には佐波さわ郷に含まれていた。当地は奥山氏の所領とされ、永正二年(一五〇五)七月一四日の赤穴郡連置文(閥閲録)に「おくやま周防守」の名がみえる。天正一〇年(一五八二)一一月一四日の吉川元春袖判打渡状(藩中諸家古文書纂)市山いちやま(現桜江町)の井下左馬丞の所領として「田六町壱反 奥山大」とみえる。同一五、六年頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)には「弐百貫 奥山」とあり、元和三年(一六一七)の吉川広家功臣人数帳(同文書)のなかにも奥山とみえることから、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦まで吉川家領として存続していたのであろう。

奥山村
おくやまむら

[現在地名]三木町奥山

鹿庭かにわ村の南、小蓑こみの村の東に位置し、高仙こうぜん(六二七・一メートル)を最高所とする四〇〇―六〇〇メートル前後の山地に立地。東西に分けて高付されている場合もある。寛永国絵図に井戸いど郷内の地名としてみえる津柳つやなぎ中山なかやまは当村の集落名。寛永一九年(一六四二)の高松領小物成帳には奥山とみえ、綿五〇九匁五分・茶代銀四匁・漆代銀五分・枌四五荷を課されている。貞享高辻帳では西奥山村の朱印高五二石余、東奥山村の朱印高一二三石余。池泉合符録によると奥山村の池数四五、井関数三九二を数えるが、水掛高一〇石以上の池は三四石余の浦上池など三。井関全体の水掛高は一九七石余。天保九年(一八三八)の御領分明細記では西奥山村の高一四七石余、東奥山村の高二七一石余。

奥山村
おくやまむら

[現在地名]明日香村大字奥山

飛鳥あすか村の東北、山田やまだ(現桜井市)に通ずる街道の北側に立地する。「飛鳥古跡考」には「村ヨリ一町卯ノ方 こめ川 ヨね川といふ。此川山田村より流出。御厨子の辺を経て、末は寺川といふへ入、其辺米川谷といふ。むかし長者あり、朝夕の炊き水流せしゆへしかいふと里人申伝ふ。小川也」とみえ、当村東北方にこめ山がある。弘長元年(一二六一)六月一四日の興福寺旧蔵文書には「奥山御庄」とあり「寛文朱印留」には「興山村」と記す。

慶長郷帳では村高三七七・五石。「大和志」には「奥山属邑一」とある。近世を通じて高取藩領。域内には鎮守として春日大明神、寺院には久米くめ(浄土宗)・庵(禅宗)があった(地方蔵方寺尾勤録)

奥山村
おくのやまむら

[現在地名]大山町奥山

ひのき峠から尾根・山腹を縫いながら長棟ながと川右岸の大谷をさかのぼった標高八〇〇メートルの山腹にある。往古の道は廃絶し、現在は長棟林道から長棟川奥山発電所を経て登らなければならない。口承では源平時代の落武者によって開拓されたという。南のはるか奥地に飛越国境と藩庫を潤した長棟鉛山があったため、奥山口留番所が設けられた。奥山口留番所は長棟鉛山への出入りに関してのもので、金山奉行公用・鉛仲買人も通行手形を必要とした。新川郡奉行の支配下にあり、百姓番人で四、五人が配置された。給銀は安永五年(一七七六)当時四〇匁が与えられた(北藩秘鑑)。正保郷帳の高一五石余、田方はなく、畑方一町余。

奥山村
おくやまむら

[現在地名]利根町奥山

利根川東岸の東西に長い台地東部に所在。東は押戸おしと村。「利根川図志」によれば戦国期には布川ふかわ城の支城があり、豊島氏が拠っていたが、江戸崎城を本拠とする土岐氏に城を奪われ、足高あたか(現筑波郡伊奈村)城主岡見信貞の臣栗林義長の仲介によって回復している。当村は横須賀よこすか村から分村したといわれ、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本末高氏の知行地で、村高二二一・五五七石。泉光せんこう寺は集落西部にあり、円通山大慈院と号し真言宗豊山派

奥山村
おくやまむら

[現在地名]鋸南町奥山

大崩おくずれ村の南、佐久間中さくまなか村南部の東に位置する山村。佐久間川の源流地帯である。元和検地の際、佐久間村が分立して成立したとみられ、正保郷帳に村名がみえる。寛永一〇年(一六三三)大崩村から分村したとも伝える(鋸南町史)。田高六三石余・畑高五三石余、佐倉藩領。万治二年(一六五九)の佐倉藩勝山領取箇帳(吉野家文書)によると、高一二〇石余のうち永荒・川欠などが一石余あり、残高一一八石余。

奥山村
おくやまむら

[現在地名]篠山市奥山

市野々いちのの村の東にあり、大芋おくも川支流の奥山川が流れる。「多紀郡明細記」では福井組のうち奥山村とみえ、文政九年(一八二六)市野々村から分立したとされ、高一二九石余で山役米一石六斗、家別七・人別六三などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報