引佐郡(読み)いなさぐん

日本歴史地名大系 「引佐郡」の解説

引佐郡
いなさぐん

面積:二三一・一五平方キロ(境界未定)
引佐いなさ町・細江ほそえ町・みつ

静岡県の西端部、浜名湖の北岸に位置する。郡域の南は湖西市・浜名湖、東は浜松市・浜北市・天竜市、北西は愛知県に接する。郡域北端、引佐町と愛知県南設楽みなみしたら鳳来ほうらい町の境にそびえるとび(六六九・五メートル)南麓を源流とする都田みやこだ(二級河川)は、引佐町の北東部から浜北市・浜松市を流れ、細江町井伊谷いいのや川を合流して浜名湖北東部の引佐細江に注ぎ、浜名湖を経て海に出る。この間の延長は約四九・九キロ。浜名湖岸には平地がみられるが、北西部の愛知県境は赤石山脈の支脈弓張ゆみはり山脈の山地となっている。三ヶ日町と細江町の湖岸を天竜浜名湖鉄道が走り、それに沿うように走る国道三六二号は細江町で浜松市から鳳来町へ向かう国道二五七号、三ヶ日町で新居あらい町から愛知県新城しんしろ市へ向かう国道三〇一号と交差する。

引佐郡は古代から近世まで遠江国西端部に位置し、郡域はほぼ引佐町・細江町および浜松市北部の都田地区一帯であったと考えられる。

〔古代〕

郡名は「和名抄」東急本に「伊奈佐」の訓がある。中世から近世には見付みつけ(現磐田市)および浜松城下から浜名湖北岸を通り本坂ほんざか峠へと至る本坂通(姫街道)が通過し、東海道の脇往還として重視されていた。古代でも同様の交通路が存在したと思われ、承和の変で流罪とされた橘逸勢が遠江国板築ほうづき(現三ヶ日町日比沢付近か)で没したという記事(「文徳実録」嘉祥三年五月一五日条)から、このルートが一時は駅路としても機能していたと考えられる。なお引佐町井伊谷近辺には四―五世紀代の古墳が顕著にみられ、遠江国内でも早い時期から地域権力が形成されていたと思われる。こうした点から、東西交通は古くは浜名湖北岸ルートのほうが主要道であったという考えも出されている。「万葉集」巻一四には遠江国譬喩歌として「遠江引佐細江の澪標吾を頼めてあさましものを」とあり、引佐細江は歌枕として詠まれる地であった。なお建久三年皇太神宮年中行事(続群書類従)にも、六月月次祭に歌われる歌として「トウタヲミ、ミナサノヤマノ、シイカヘタヲ、フサヲリモテバ、イマロモトル」と「みなさの山」が出てくる。「三代実録」貞観一五年(八七三)九月二五日条に引佐郡・長上ながのかみ郡に「復」(調庸免除)一年を給うという記事がある。「和名抄」には京田みやこた刑部おさかべ渭伊いい伊福いふくの四郷が記され、京田郷については浜松市城山しろやま遺跡出土木簡に「京田□□(五十カ)×」との表記がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報