邑智郡(読み)おおちぐん

日本歴史地名大系 「邑智郡」の解説

邑智郡
おおちぐん

面積:九一八・六三平方キロ
邑智おおち町・大和だいわ村・羽須美はすみ村・瑞穂みずほ町・川本かわもと町・桜江さくらえ町・石見いわみ

県のほぼ中央南部に位置し、東は飯石いいし頓原とんばら町・赤来あかぎ町、広島県双三ふたみ作木さくぎ村、南は同県高田たかた高宮たかみや町・美土里みどり町と同県山県やまがた大朝おおあさ町、西は那賀郡あさひ町・金城かなぎ町、北は江津市・大田市と邇摩にま温泉津ゆのつ町に接する。大部分は中国山地に連なる山林地帯で、江川が急斜面の谷壁を刻みながら蛇行を繰返し郡内北部を横断する。江川沿いにJR三江線が並走する。江川は先行性河川の特性から沿岸に平野を造成せず、河岸には狭小な河岸段丘と三日月形の氾濫原を交互に形成し、わずかな農業用地を提供した。「和名抄」東急本国郡部は「於保知」と訓じる。

〔古代・中世〕

平城京二条大路跡出土木簡に「邑知郡調綿」とみえる。「延喜式」民部省および「和名抄」には邑知郡、「延喜式」神名帳には邑智郡とみえる。「和名抄」は神稲くましろ邑美おおみ桜井さくらい都賀つが佐波さわの五郷を載せる。「延喜式」神名帳記載の小三座は天津神社(現邑智町吾郷の天津神社に比定)、田立建埋根命神社(現大和村宮内の田立建埋根命神社に比定)、大原神社(現石見町日貫の大原神社に比定)である。郡家は現石見町矢上やかみのうち郡山こおりやまにあったとみられている(「島根県史」ほか)

貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文によると、郡内には桜井庄(現桜江町)久永ひさなが(現石見町)高見たかみ(現瑞穂町)の三庄園(総公田一二〇町)があって、庄園と国衙領(一〇ヵ所)の公田面積比はほぼ同じであった。桜井庄は院宮家を本家、比叡山延暦寺常寿じようじゆ院・京都大覚寺僧などを領家とする庄園で、南北朝内乱期には領家自ら軍勢を率いて石見に下向した。また久永庄は源頼朝が京都上賀茂社に寄進して成立した庄園(寛元二年六月三日「六波羅下知状」賀茂別雷神社文書)出羽いずわ(現瑞穂町)と境を接しており、高見庄(庄園領主不明)とともに南北朝期には出羽氏の支配下に組込まれ、庄園としての実態を失ったようである。鎌倉時代―南北朝期以後の史料によって確認できる国衙領として、佐木さき郷・河本かわもと(現川本町)、出羽郷、佐波郷(現邑智町)都賀郷(現大和村)長田ながた別符、市木いちぎ別符(現瑞穂町)口羽くちば阿須那あすな(現羽須美村)などがある。長田別符は比定地未詳。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案(益田家文書)に「長田別符」とみえ、石見国衙在庁官人であった藤原(御神本・益田)兼栄・兼高父子の所領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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