出石藩(読み)いずしはん

百科事典マイペディア 「出石藩」の意味・わかりやすい解説

出石藩【いずしはん】

但馬国出石郡出石(現・兵庫県豊岡市)を城地とした藩。1585年出石城(有子山城)5万3000石(一説に6万石)の大名に封じられた前野長康が1595年関白豊臣秀次の事件に連座して除封,替わって播磨国竜野城主小出吉政が5万3200石で入部。吉政は1604年摂津岸和田藩主に就任,跡を継いだ小出吉英(よしひさ)は有子山の山城(高城)を北麓に移し,その北側に城下町を建設。小出氏は1696年英及(ふさつぐ)の代で断絶。翌年松平(藤井)忠周(ただちか)が4万8000石で入るが,1706年信濃国上田に移り,仙石政明(まさあきら)が5万8000石で入部する。以後仙石氏が継いで8代仙石政固(まさかた)のとき廃藩置県。小出氏・仙石氏は外様大名,松平氏は譜代大名。仙石家の財政は入部以来窮乏,藩士からの上げ米を繰り返した。文政期(1818年−1830年)には財政立て直し策を巡って重臣たちが対立,御家騒動仙石騒動)に至った。これは幕府の知るところとなり,1835年3万石に減知。
→関連項目出石[町]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「出石藩」の意味・わかりやすい解説

出石藩
いずしはん

但馬(たじま)国出石郡出石(兵庫県豊岡市)を本拠とする藩。1595年(文禄4)播磨(はりま)国(兵庫県)龍野(たつの)より小出吉政(こいでよしまさ)が6万石余で入部、1604年(慶長9)嫡子吉英(よしひさ)が継ぎ、所領のうち1万石余を叔父三尹(みつまさ)に分封し5万石を領有。1613年吉英の弟、吉親(よしちか)が継いだが、19年(元和5)ふたたび吉英が岸和田(きしわだ)から戻り、吉重、英安(ふさやす)、英益(ふさえき)、英長(ふさなが)、英及(ふさつぐ)と続いたが、1696年(元禄9)英及が夭折(ようせつ)したので断絶した。翌年、松平(藤井)忠周(ただちか)が武蔵(むさし)国(埼玉県)岩槻(いわつき)から4万8000石余で入部、1706年(宝永3)仙石政明(せんごくまさあきら)が信濃(しなの)国(長野県)上田から5万8000石余で入部、所領は但馬の出石、養父(やぶ)、気多(けた)、美含(みくみ)の4郡、播磨の加東(かとう)、加西(かさい)の2郡に及んだ。政房、政辰(まさとき)、久行、久道、政美、久利(3万石に減封)、政固と継いで廃藩置県(1871)に及んだ。小出氏はもと豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、吉政は関ヶ原の戦いに徳川方に属して本領安堵(あんど)された家筋、仙石氏も秀吉に仕え、のち徳川家康に帰属した外様(とざま)大名筋であった。仙石政辰は藩政45年間、文教の普及に努め、養蚕業、絹織物業を盛んにし、ことに陶磁器の製造を奨励するなど治績をあげた反面、出石町の大火や水害を被り、治安は動揺した。政美の没後の天保(てんぽう)年間(1830~44)に、その後継をめぐって仙石騒動という御家騒動が起こった。幕府は理非をただして、主家を奪おうとした家老上席仙石左京らを罰するとともに、出石藩の石高を3万石余に半減し、明治初年に至った。

[小林 茂]

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藩名・旧国名がわかる事典 「出石藩」の解説

いずしはん【出石藩】

江戸時代但馬(たじま)国出石郡出石(現、兵庫県豊岡市出石町)に藩庁をおいた譜代(ふだい)、後に外様(とざま)藩。藩校は弘道館。1595年(文禄4)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から6万石を与えられて入封(にゅうほう)した小出吉政(こいでよしまさ)が立藩。吉政は、秀吉の従兄弟にあたり、関ヶ原の戦いで父秀政(ひでまさ)とともに西軍に加わったが、東軍(徳川方)に属した弟の秀家(ひでいえ)の戦功によって取りつぶしを免れ、所領を安堵(あんど)された。小出氏は9代にわたって出石藩を領したが、96年(元禄9)に嗣子(しし)がなく断絶。その後は松平忠周(ただちか)を経て、1706年(宝永3)に信濃(しなの)国上田藩から仙石政明(せんごくまさあきら)が5万8000石で入封、以後明治維新まで仙石氏が8代続いた。仙石氏は養蚕、絹織物、陶磁器(出石焼)の生産振興に努めたが、文政(ぶんせい)年間(1818~30年)に大火や水害などで治安が悪化、さらに藩財政が極度に窮乏し、6代政美(まさよし)の死後、その後継をめぐって仙石騒動と呼ばれる御家騒動が起きた。この騒動で3万石に半減され、明治維新に至った。1871年(明治4)の廃藩置県で出石県となり、その後、豊岡県を経て76年兵庫県に編入された。

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改訂新版 世界大百科事典 「出石藩」の意味・わかりやすい解説

出石藩 (いずしはん)

但馬国(兵庫県)出石郡出石を城地とする外様中小藩。1595年(文禄4)豊臣秀吉から6万石をあてがわれた小出吉政は,関ヶ原の戦に西軍に属したが,父秀政の功に免じて取りつぶしを免れた。1604年(慶長9)2代吉英(よしひさ)の代,有子山麓に城と城下町が建設された。4代吉英(再入封)の後は短期間に代を重ね,96年(元禄9)ついに嗣なくして断絶した。そのあと松井忠周を経て,1706年(宝永3)仙石氏が5万8000石で入封定着した。18世紀後期,養蚕,絹織物,陶磁器(出石焼)などの国産振興をはかったが,文政期(1818-30)城下の大火と相次ぐ天災で,藩財政は極度に窮乏した。その打開をめぐる対立の果てに,いわゆる仙石騒動が起きる。この騒動は大老上席仙石左京の主家乗っ取りの陰謀事件として芝居・講談などに物語化され上演されてきたが,実は財政再建をめぐる改革派と守旧派の対立抗争であった。この騒動で1835年(天保6)仙石氏は3万石に減知され,廃藩置県に至った。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「出石藩」の意味・わかりやすい解説

出石藩
いずしはん

江戸時代,但馬国 (兵庫県) 出石郡におかれた藩。小出吉政6万石に始る。慶長9 (1604) 年に吉政は父秀政の和泉 (大阪府) 岸和田を継ぐために転出し,嫡子吉英が封を継ぐ。同 18年には吉英が父吉政の和泉岸和田を継ぐことになり,出石は弟吉親2万 9000石が継ぐ。元和5 (19) 年吉親は丹波 (京都府) 園部へ転出し,岸和田の吉英が再転入。元禄9 (96) 年小出氏は悪政を理由に除封され,代って松平 (藤井) 忠周が武蔵 (埼玉県) 岩槻より4万 8000石で転入したが,宝永3 (1706) 年に信濃 (長野県) 上田の仙石政明5万 8000石と交代する。仙石氏はのちに2万 8000石に減封されて廃藩置県にいたる。外様,江戸城柳間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「出石藩」の解説

出石藩

但馬国、出石(いずし)(現:兵庫県豊岡市)を本拠地とした藩。文禄年間に小出吉政が6万石で入封。関ヶ原の戦い後も取り潰しを免れ、小出氏が9代にわたり領有。以後、松平忠周を経て、信濃国からの国替えで入封した仙石氏が藩主をつとめた。江戸時代末の御家騒動「仙石騒動」が知られる。

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世界大百科事典(旧版)内の出石藩の言及

【仙石騒動】より

…但馬国(兵庫県)出石(いずし)藩仙石氏の御家騒動。仙石氏の財政窮乏は19世紀に入って深刻化し,その立直しをめぐり大老(家老)の家筋である仙石式部家と主計(かずえ)家の対立が生じた。…

【但馬国】より

…こうして所領配置は定着期に入り,豊岡藩は杉原氏が絶家したため68年入封した京極氏で定着した。また96年(元禄9)にいたって出石藩小出が断絶したため,97年松平忠周が出石に入封している。1706年(宝永3)松平は信州上田の仙石政明と交代し,ここに出石藩は仙石氏が入封して定着した。…

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