三田市(読み)サンダシ

デジタル大辞泉 「三田市」の意味・読み・例文・類語

さんだ‐し【三田市】

三田

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日本歴史地名大系 「三田市」の解説

三田市
さんだし

面積:二一〇・二二平方キロ

県の南東部に位置し、北は篠山市、東は川辺かわべ猪名川いながわ町、宝塚市、南は神戸市、西は美嚢みのう吉川よかわ町、加東かとう東条とうじよう町・やしろ町に接する。北部から東部にかけて標高五〇〇―七〇〇メートルの山々が連立し、南部および西部は三〇〇メートル以下の丘陵台地が延びる。この間を武庫むこ川が北西から南東にかけて羽束はつか川・山田やまだ川・くろ川・青野あおの川などを集めて貫流し、南東部の三田盆地に肥沃な穀倉地帯を形成している。

〔原始〕

市域は青野ダム建設や北摂ほくせつニュータウン建設などに伴う遺跡の発掘調査が実施されている。旧石器時代の遺跡は溝向みぞむかい遺跡・溝口みぞぐち遺跡などがある。広範囲な調査が実施された溝口遺跡では旧石器時代層位からほぼ原位置に近い出土状況が確認されている。縄文時代の遺跡は約一〇遺跡が知られている。竪穴住居跡の発見はないが、川端かわばた遺跡で後期の埋甕、北台きただい遺跡は後期中葉の土壙、梶下かじしもたに遺跡では落し穴が発掘されている。弥生時代の遺跡は前期では三輪の餅田みわのもちだ遺跡や対中たいなか遺跡がある。中期では天神てんじん遺跡・福島長町ふくしまながまち遺跡・下深田しもふかた遺跡・平方へいほう遺跡・カリ遺跡などのほかにも約三〇の遺跡が発掘されている。奈カリ与遺跡は内陸部にある高地性集落で、竪穴住居跡三〇棟が発見された。平方遺跡では住居跡内から小銅鐸の土製鋳型が発見された。古墳時代では奈良山ならやま遺跡・貴志下所きししもんじよ遺跡など約一〇遺跡で住居跡が確認されている。古墳の総数は約四〇〇基だが、顕著な前期・中期古墳は明らかでない。後期の西山にしやま五号墳は全長約三〇メートルの前方後円墳で、金銅製の冠帽や大刀飾が出土している。また東仲ひがしなか古墳は石棚をもつ横穴式石室である。終末期古墳は青龍寺裏山せいりゆうじうらやま古墳群の敷石室や奈カリ与古墳・奈良山一二号墳などの横口式石棺がある。奈良―平安時代では集落跡の発掘も多い。またすえ地区には六世紀前半の郡塚ぐんづか一号窯を最古として、平安時代後期まで継続する窯跡群がある。

〔古代〕

市域は摂津国有馬ありま郡の中央から北部地域を占め、「和名抄」の有馬郡大神おおみわ羽束はつかし忍壁おしかべの三郷が市域に比定される。ただし「延喜式」神名帳に川辺郡七座としてあげる「高売布タカヒメノ神社」は当市酒井の高売布さかいのたかめふ社に比定され、この比定に誤りがなければ、当時酒井の地は川辺郡域であったことになる。酒井を含む羽束川流域の高平たかひら谷一帯は羽束郷域に比定されるから、郡域の移動があった可能性がある。「住吉大社神代記」の住吉大社解に、川辺郡為奈いな山の北界として「限北公田 羽束国堺」とあり、羽束国の呼称が注目される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三田市」の意味・わかりやすい解説

三田〔市〕
さんだ

兵庫県南東部,武庫川上流域の三田盆地にある市。 1956年三田町三輪町の2町と高平村小野村,広野村の3村が合体して三田町となり,1957年相野町を編入,1958年市制。中心市街地の三田は近世九鬼氏3万 6000石の城下町として発展。明治以後は農産物集散地。第2次世界大戦後は武庫川畔の沖積地へ電機工場が進出,工業団地も造成され近代工業が発達した。周囲の沖積地は県下屈指の穀倉地帯として有名で,灘の清酒用の良質米の産地。三田牛の生産でも知られる。丘陵地は療養所やゴルフ場が多く大規模な北摂ニュータウンの建設など住宅地化が著しい。北西部一帯は清水東条湖立杭県立自然公園に属する。 JR福知山線,神戸電鉄三田線,公園都市線,国道 176号線,舞鶴自動車道が通じる。面積 210.32km2。人口 10万9238(2020)。

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