名和長年(読み)なわながとし

精選版 日本国語大辞典 「名和長年」の意味・読み・例文・類語

なわ‐ながとし【名和長年】

南北朝時代の武将。伯耆国鳥取県)名和の地頭。初名、長高。通称、又太郎。法名釈阿。元弘三年(一三三三後醍醐天皇の隠岐脱出を助け、船上山に迎えた。建武の新政で因幡・伯耆の守護・記録所寄人。のち足利尊氏と戦って戦死。延元元年(一三三六)没。

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デジタル大辞泉 「名和長年」の意味・読み・例文・類語

なわ‐ながとし【名和長年】

[?~1336]南北朝時代の武将。伯耆ほうきの人。前名、長高。元弘3=正慶2年(1333)後醍醐天皇隠岐おきを脱出するとこれを船上山せんじょうざんに迎えて鎌倉幕府軍と敵対。建武政権では要職を務めたが、のち、足利尊氏と戦って戦死。

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改訂新版 世界大百科事典 「名和長年」の意味・わかりやすい解説

名和長年 (なわながとし)
生没年:?-1336(延元1・建武3)

建武新政期の武将。当初,伯耆国長田(ながた)荘を名字の地とし,長田又太郎長高といったが,長講堂領稲積荘内と推定される名和に館を構え,名和氏を称し,富裕な人として知られた。この荘の海辺には天皇家の御厨(みくりや),賀茂社領など海民の拠点があり,のちに後醍醐天皇が長年に与えたという帆掛船の紋や,《蔗軒日録》に彼が鰯売(いわしうり)の商人と伝えられている点からみて,名和氏は海民を基盤にもつ廻船人,商人と関係があったものと思われる。1333年(元弘3),隠岐を脱出した後醍醐天皇が伯耆の湊(逢坂(おうさか),篦津(のつ),御来屋(みくりや)など諸説がある)に着くと,長高はこれを迎えて船上山(せんじようさん)に立て籠り,討幕に大きな貢献をし,後醍醐天皇の命で長年と改名,伯耆守に任ぜられるなど厚い信任を得た。建武新政下,さらに因幡を与えられ,東市正(ひがしのいちのかみ)となり,恩賞方,記録所,雑訴決断所などの機関に連なって,〈三木一草(さんぼくいつそう)〉の一人として世にときめいた。長年の花押は母衣(ほろ)を模したかともみられる異様な形状で,またその特異な烏帽子は〈伯耆様〉といわれて流行したという。1336年,入京した足利尊氏の軍勢を迎え撃ち,後醍醐天皇とともに叡山に上って戦ったが,6月晦日,京都での戦闘で戦死した。
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朝日日本歴史人物事典 「名和長年」の解説

名和長年

没年:建武3/延元1.6.30(1336.8.7)
生年:生年不詳
鎌倉後期・南北朝時代の武将。初名長高,伯耆守。行高の子。父行高の代までは伯耆国長田に居住して長田氏を名乗っていたが,長高のとき同国汗入郡名和(鳥取県名和町)に移住して名和氏を称した。良港名和湊を領有し,日本海沿岸の商業活動によって富を蓄えた。正慶2/元弘3(1333)年閏2月,後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆に上陸すると,長高は天皇を迎えて船上山に布陣し,佐々木清高の率いる幕府軍の攻撃を退けた。この功により,天皇から「年」の字を与えられて,長年と改名し,同時に家紋をも賜ったと伝えられている。同年5月23日,天皇が船上山を出発して京都に向かうと長年も天皇軍に随従した。建武政権下では,記録所,雑訴決断所の寄人,東市正などに任命され,天皇の身辺警護に当たるなど栄耀をきわめた。世人は長年の栄華を「三木一草」(後醍醐の忠臣4人の称)と称して羨んでいる。子義高も戦功により,肥後国八代荘を与えられた。建武1(1334)年10月,天皇の命令により護良親王を清涼殿で捕縛し鎌倉へと送った。建武の乱では,いったん足利尊氏軍を破って九州へと敗走させたが,勢力を盛り返した尊氏軍が入京するや天皇を奉じて叡山に避難した。建武3/延元1(1336)年6月30日,京中へ打って出たものの,大宮通り一条の合戦(『梅松論』では三条猪熊の合戦という)で戦死をとげた。

(佐藤和彦)

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百科事典マイペディア 「名和長年」の意味・わかりやすい解説

名和長年【なわながとし】

南北朝時代の武将。伯耆(ほうき)の豪族。1333年隠岐(おき)を脱出した後醍醐天皇を伯耆の船上山に迎え討幕軍に加わった。建武新政で因幡(いなば)・伯耆の守護,記録所・雑訴決断所の寄人(よりうど)となる。九州に敗走した足利尊氏が再挙して東上するのを京都で迎え撃って敗死。
→関連項目船上山名和[町]名和神社

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「名和長年」の意味・わかりやすい解説

名和長年
なわながとし
(?―1336)

建武(けんむ)政権期に活躍した伯耆(ほうき)国(鳥取県)の豪族。もとの名を長田又太郎長高といったが、やがて名和の地に住し、名和氏を称するようになった。1333年(元弘3・正慶2)後醍醐(ごだいご)天皇が隠岐(おき)から脱出したとき、これを支持して船上山(せんじょうさん)に迎え、その強大な富力を背景に幕府軍と敵対し天皇の信任を得る。建武政権のもとでは伯耆守(かみ)に任ぜられ、恩賞方、記録所、雑訴決断所など新政の機関の一員として重要な地位を占め、また、京都の商業活動を管理する東市正(ひがしのいちのかみ)に就任するなど、異例の栄達を遂げる。しかし36年(延元1・建武3)6月、九州から東上し入京してきた足利尊氏(あしかがたかうじ)の軍勢と争って京都で戦死した。

[酒井紀美]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「名和長年」の意味・わかりやすい解説

名和長年
なわながとし

[生]?
[没]延元1=建武3(1336).3.30. 京都
南北朝時代初期の武将。伯耆国名和の豪族。行高の子。元弘3=正慶2 (1333) 年閏2月隠岐を脱出した後醍醐天皇を伯耆船上山に迎え,鎌倉幕府軍を撃退した。その功により伯耆国を与えられ伯耆守に任じられた。建武中興政府では記録所,武者所などの寄人となり,後醍醐天皇親政に尽力。建武1 (34) 年頃,京都の市政権を握る東市正となった。同2年謀反を企て捕えられた西園寺公宗を殺し,翌年鎌倉で建武政権にそむいて上京した足利尊氏と戦ってこれを西走させたが,再度尊氏が光厳院を奉じて入京するに及び,一族をあげて攻撃したが,敗れ戦死した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「名和長年」の解説

名和長年
なわながとし

?~1336.6.30

鎌倉末~南北朝期の伯耆国の武士。海運業で蓄財した有徳人。建武政権下の伯耆守。はじめ長高,長田又太郎と称する。1333年(元弘3)元弘の乱で後醍醐天皇の隠岐脱出の手引をし,伯耆国船上山(せんじょうさん)に迎えて挙兵。以後,一族をあげて宮方の主将として戦う。建武政権の成立後は,記録所・武者所・恩賞方・雑訴決断所などで活躍し,後醍醐天皇の寵臣「三木一草(さんぼくいっそう)」(伯耆守の「き」に由来)の1人として勢威をふるった。36年(建武3・延元元)6月,足利尊氏が新政権に背いて京都を制圧すると,新田義貞とともに比叡山から攻め込んだが,三条猪熊で敗れて戦死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「名和長年」の解説

名和長年 なわ-ながとし

?-1336 鎌倉-南北朝時代の武将。
正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年後醍醐(ごだいご)天皇を擁して伯耆(ほうき)(鳥取県)船上山(せんじょうさん)で挙兵。建武(けんむ)政権では記録所の寄人(よりゅうど)などをつとめる。建武3=延元元年足利尊氏を京都で撃退したが,のちふたたび京都入りした尊氏軍に敗れ,同年6月30日戦死。伯耆出身。初名は長高。通称は又太郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「名和長年」の解説

名和長年
なわながとし

?〜1336
南北朝時代の武将
伯耆 (ほうき) 国(鳥取県)の豪族。1333年後醍醐 (ごだいご) 天皇を隠岐より船上山 (せんじようざん) に迎えて挙兵。六波羅探題攻略に功をたて,建武新政府の記録所・武者所の寄人 (よりゆうど) ,因幡 (いなば) (鳥取県)・伯耆の守護となる。'36年,九州から入京した足利尊氏を迎え討って三条猪隈 (いのくま) で戦死した。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「名和長年」の解説

名和長年
なわながとし

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
作者
幸田露伴
補作者
右田寅彦
初演
大正4.12(東京・帝国劇場)

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世界大百科事典(旧版)内の名和長年の言及

【三木一草】より

…後醍醐天皇の建武政権で重用されはぶりのよかった4人の総称。楠木正成名和長年,結城親光,千種(ちぐさ)忠顕のこと。楠木・結城は姓に,名和は伯耆守で官名に〈キ〉がつき,それに千種の〈クサ〉をとって〈三木一草〉としゃれていったもの。…

【名和氏】より

…中世南朝方の有力武家。村上源氏右大臣顕房の子孫と伝え,鎌倉時代行盛が配流され伯耆国長田邑を領し長田氏を称したという。長年は同国名和荘に住し名和氏を称したが,1333年(元弘3)隠岐に配流された後醍醐天皇を船上山に迎えてこれを助け,その功により建武政権から伯耆守に任じられ,因・伯2国を領した。しかし36年(延元1∥建武3)京都で足利尊氏勢と戦い子息らとともに討死した。孫の顕興は伯父義高が地頭職を得ていた肥後国八代荘に一族をあげて下向し,以後肥後南朝方の一中心となった。…

※「名和長年」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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