名和氏(読み)なわうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「名和氏」の意味・わかりやすい解説

名和氏
なわうじ

伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県)の豪族村上源氏。史上有名な長年(ながとし)の祖父行盛(ゆきもり)は、「名和系図」によると、村上天皇(むらかみてんのう)皇子望平親王(もちひらしんのう)11代の後胤(こういん)で、伯耆国に流され、同国長田(ながた)を賜(たまわ)って長田氏を称した。長年に至って名和荘(なわのしょう)(鳥鳥取県西伯(さいはく)郡大山(だいせん)町)に住して名和氏を称す。長年は建武(けんむ)新政府の権臣として因幡(いなば)、伯耆2国を領したが、建武政権に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦って死んだ(1336)。子義高(よしたか)も2年後に戦死した。長年の孫顕興(あきおき)のとき肥後国八代(やつしろ)(熊本県八代市)に移り、その後顕忠(あきただ)の代に同国宇土(うと)(同県宇土市)に移り(16世紀初頭)、宇土氏を称した。顕孝(あきたか)のときに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州征服のために宇土を失い、諸国流浪ののち、1621年(元和7)立花(たちばな)氏の領する筑後国(ちくごのくに)柳川(福岡県柳川市)に迎えられ、約300年を送った。明治に至り、長恭(ながゆき)が名和神社宮司となり男爵を授けられた。

[田辺久子]

『平泉澄著『名和世家』(1954・日本文化研究所)』


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改訂新版 世界大百科事典 「名和氏」の意味・わかりやすい解説

名和氏 (なわうじ)

中世南朝方の有力武家。村上源氏右大臣顕房の子孫と伝え,鎌倉時代行盛が配流され伯耆国長田邑を領し長田氏を称したという。長年は同国名和荘に住し名和氏を称したが,1333年(元弘3)隠岐に配流された後醍醐天皇を船上山に迎えてこれを助け,その功により建武政権から伯耆守に任じられ,因・伯2国を領した。しかし36年(延元1・建武3)京都で足利尊氏勢と戦い子息らとともに討死した。孫の顕興は伯父義高が地頭職を得ていた肥後国八代荘に一族をあげて下向し,以後肥後南朝方の一中心となった。15世紀後半にいたり,一族の内訌から顕忠は援を相良為続に求めこれに高田(こうだ)郷(現,八代市高田)を割譲,16世紀初めには八代古麓城を追われ,宇土為光なきあとの縁族宇土氏に迎えられ,宇土西岡台(現,宇土市西岡台)の宇土城に本拠を移した。以後行興は宇土氏を称し,肥後の国衆として活動した。顕孝は1588年(天正16)豊臣秀吉に下り,佐々成政入国後宇土を追われ,長興は筑後柳川の立花氏に身を寄せ,子孫は立花氏に仕えた。維新後,男爵。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「名和氏」の意味・わかりやすい解説

名和氏
なわうじ

伯耆 (ほうき) の豪族。村上源氏一流。伯耆国汗入 (あせり) 郡奈和郷から興った。長年 (ながとし) は建武政権の確立に尽力し,山陰国守記録所武者所寄人,東市正などに補任された。一族は南朝方に属した。

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世界大百科事典(旧版)内の名和氏の言及

【名和長年】より

…建武新政期の武将。当初,伯耆国長田(ながた)荘を名字の地とし,長田又太郎長高といったが,長講堂領稲積荘内と推定される名和に館を構え,名和氏を称し,富裕な人として知られた。この荘の海辺には天皇家の御厨(みくりや),賀茂社領など海民の拠点があり,のちに後醍醐天皇が長年に与えたという帆掛船の紋や,《蔗軒日録》に彼が鰯売(いわしうり)の商人と伝えられている点からみて,名和氏は海民を基盤にもつ廻船人,商人と関係があったものと思われる。…

【肥後国】より

…菊池氏の活動は,豊後守護大友氏泰をして〈肥後のことは根本大綱に候〉といわせたように,内乱期における肥後国の政治的位置を特異なものとした。とりわけ菊池武光は,征西将軍懐良(かねよし)親王を迎え,阿蘇惟澄や八代荘の地頭職を得て入部した名和氏と協力して,探題一色氏や少弐氏,大友氏ら武家方を圧倒して大宰府に進出し,10余年にわたる征西府の黄金時代を築いた。1371年(建徳2∥応安4)今川了俊の下向により征西府は崩壊するが,菊池氏は南北朝合体後も肥後守護家の位置を維持した。…

※「名和氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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