雑訴決断所
ざっそけつだんしょ
1333年(元弘3)建武(けんむ)新政府発足後まもなく設置された訴訟機関。同じころ設置された記録所が大事を裁決するのに対して一般訴訟を扱った。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)に相当し、旧幕府の職員も採用された。機構は初め3番に分け、のち拡張して8番とし、五畿(ごき)七道の訴訟を分掌した。各番の長を頭人(とうにん)、所員を寄人(よりゅうど)といい、当時の公家(くげ)・武家のおもな人々を網羅していた。役所は大内裏(だいだいり)郁芳(いくほう)門の左右にあって南北決断所と称した。34年(建武1)その権限を明確にし、領家・地頭間の紛争や年貢、本領安堵(あんど)に関することを扱った。同一訴訟を記録所と重複して扱うなどの混乱もあり、35年足利尊氏(あしかがたかうじ)挙兵後は機能を失った。
[阿部 猛]
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ざっそけつだん‐しょ【雑訴決断所】
〘名〙 元弘三年(
一三三三)、建武政府が設置した訴訟機関。記録所・武者所とともに設けられた新政府の主要な政務機関の一つで、記録所が朝廷の大事を裁決するのに対して、一般の訴訟、とくに所領問題の紛争処理にあたり、
判決は
牒または下文の形式で出された。鎌倉幕府の引付沙汰に相当する。職員に各番(はじめ三あるいは四番、のち八番)の長である頭人
(とうにん)と寄人があり、多く旧鎌倉幕府の事務に習熟した職員が採用された。建武二年(
一三三五)足利尊氏が後
醍醐天皇に叛いて以後その活動は停止し、やがて廃絶。決断所。
※阿蘇文書‐元弘三年(1333)一一月四日・
雑訴決断所牒「雑訴決断所牒 肥後国守護所」
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雑訴決断所
ざっそけつだんしょ
建武中興政府 (→建武中興 ) が設けた独自の裁判権をもつ機関。元弘3=正慶2 (1333) 年9月以前に設置され,知行押領の訴えやその他の所領相論を管轄し,判決を下す民事法廷の役割を果した。1~4番の4局で構成され,1番は畿内,東海道,2番は東山道,北陸道,3番は山陰道,山陽道,4番は南海道,西海道をそれぞれ担当し,1,2番は奇数日に,3,4番は偶数日に開廷された。各番には頭人,寄人,奉行がおかれ,公卿クラスの上,下級貴族および旧幕府の官僚武士がこれに任じた。楠木正成も3番局の一員であった。
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雑訴決断所
ざっそけつだんしょ
1333年設置された建武新政府の訴訟機関
記録所とともに新政府の主要政治機関。一般の訴訟,特に所領関係の訴訟の裁決にあたり,鎌倉幕府の引付の機能を引き継ぐ。公武の事務練達者が任用され,最初は3番(組)に分かれ,翌年8番,107人に拡張。各番の長を頭人 (とうにん) ,所員を寄人 (よりゆうど) といった。煩雑な土地関係の審議において不手際が多く,新政への不満の一因となった。
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デジタル大辞泉
「雑訴決断所」の意味・読み・例文・類語
ざっそ‐けつだんしょ【雑訴決断所】
建武政権の訴訟機関。元弘3=正慶2年(1333)設置。記録所が大事を裁決するのに対して、一般的な訴訟、特に、所領関係の訴訟を扱った。決断所。
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雑訴決断所【ざっそけつだんしょ】
建武政権の訴訟機関。1333年新設され,鎌倉幕府の引付方の機能を継いで,おもに土地関係の訴訟を管轄した。→建武新政
→関連項目建武年間記
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ざっそけつだんしょ【雑訴決断所】
建武政府の訴訟機関。1333年(元弘3)5月に鎌倉幕府が倒れたのち後醍醐天皇による公武一統の政治が開始されると,増加の一途をたどる所領関係の訴訟(これを公家側では雑訴と称した)を所轄する官衙として,記録所とは別に雑訴決断所が創設された。略して単に決断所ともいう。《梅松論》のいう〈先代引付のたつ所〉とは決断所が鎌倉幕府の引付方と機能的に類似したことを意味する。決断所の編成については《太平記》に3番制と記されているが確証がなく,ふつう《比志島文書》に収める4番制の結番交名(きようみよう)(一部破損)をもって創設期の形態とみなしている。
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世界大百科事典内の雑訴決断所の言及
【記録所】より
…
[後醍醐朝の記録所]
こうして院政下では文殿,親政下では記録所と機能が分化移行するようになり,1321年(元亨1)後醍醐天皇が親政を開始するや,早速記録所を設置し,訴訟を裁断した。ついで33年(元弘3)鎌倉幕府が滅亡すると,天皇は恩賞方や雑訴決断所を新設し,従来量的にも記録所の職務に大きな部分を占めていた雑訴をこれに移し,記録所は訴訟のうちでも寺社・権門にかかわる大事のみを取り扱い,中央政府のなかに中心的な機関の地位を占めた。そして建武政府の倒壊後,北朝では院政が復活し,文殿が活動する一方,記録所の名称は近世初頭の内裏まで存続したが,その間実質的な機能を急速に失っていった。…
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